大久保町は燃えているか 原作・脚本・監督 田中哲弥/イラスト 此路あゆみ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大久保町《おおくぼちょう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大久保町|大窪《おおくぼ》地区 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)『※[#「凪」の「止」に代えて「百」、第3水準1-14-57]月堂ゴーフル』 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000a.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000b.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000c.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000d.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000e.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000f.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000g.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000h.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000i.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_000j.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_009.jpg)入る]  大久保町は東経百三十五度の子午線上、日本標準時の都市として知られる兵庫県明石市の西部に位置する町で、実際に存在する。瀬戸内海を南に臨み、険しい山岳地帯と厳重な地雷原によって外部から隔絶されたこの港町は現在ナチス占領下にあり、住民はその弾圧に耐えながらの生活を強いられている。  第二次世界大戦での敗戦を覚悟したナチスは、再起のチャンスをかけて世界各地に人材および物資を運び出していたが、その事実と大久保町の現状とになんらかの繋がりがあるのかどうなのか、そのあたりはまったくの謎である。南米のネオ・ナチ組織との関係も囁かれてはいるものの、住民ですら自分たちがナチスの占領下にあるという事実以外、ほとんどなにも知らないらしいのである。大久保町を制圧するナチスは『イノウエ・ナチス』と呼ばれているが、その名の由来とされている井上総統なる人物が、はたして実在するのかどうかさえ定かではない。  世界制覇をもくろむイノウエ・ナチスは町人口の減少を極端にきらい、人の流出を抑える手段として、恐るべき破壊力を持った巨大な大砲二基を町北部の絶壁に設置した。船舶による違法入出を阻止するのがその目的である。これにより違法合法を問わずあらゆる船舶の往来が完全に途絶えてしまい、大久保町は深刻な物資不足に見舞われることとなった。  くすぶりつづけていた町民の怒りは爆発し、レジスタンスの兵士たちが行動を起こす日は間近に迫っていた。  時間はなかった。 [#改ページ]  Chapter  Wanna Be Startin' Somethin'  The Empire Srtikes Back  Anything Goes  My Funny Valentine  Don't Explain  Running Scared  Fly Me To The Moon  原人音頭  Strangers In The Night  'Round Midnight  Think  Don't Stop Me Now  Countdown To Love  The World Is Waiting For The Sunrise  Hit The Road Jack  新作ストーリー「ドクター・モヘーの島」 [#改ページ]  Special  Cast & Staff  登場人物一覧 [#ここから3字下げ]  映画『大久保町は燃えているか』  主演キャスト&スタッフ紹介 [#ここで字下げ終わり]  Cast Talk  出演者対談 [#ここから3字下げ] 「乙女たちは燃えてるか!?」  歌手:三重野瞳、出演者:坂元鮎・氷室鈴蘭の女の子トーク! [#ここで字下げ終わり]  Original Commentary  田中哲弥によるオリジナル解説 [#ここから3字下げ]  原作本のオリジナル解説を収録!  大久保町の真の姿が明らかに [#ここで字下げ終わり]  Trailer  田中哲弥によるオリジナル予告篇 [#ここから3字下げ]  著者自身による『大久保町は燃えているか』の紹介文を再録 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  Cast & Staff  ●出演  堀田幸平…………………大久保町に迷い込んだ高校生  坂元 鮎…………………レジスタンスの一員の娘  鷹野弦司…………………レジスタンスのリーダー  寺尾俊介…………………レジスタンスの一員  西畑五郎…………………レジスタンスの一員  河合茂平…………………レジスタンスの一員  玉田正春…………………爆破専門の工作員  氷室鈴蘭…………………玉田の恋人  木山幹男…………………イノウエ・ナチスの大佐  デイル・H・パーカー…イノウエ・ナチスの少佐  ●原作・脚本・監督  田中哲弥  ●テーマ曲  「Love is burnning」   歌:三重野瞳 [#改丁]    Wanna Be Startin' Somethin'  前方に東経一三五度の子午線が見えてきた。  地面にくっきりと線が描かれているとかそういうことではなくて第二神明道路の上には、ここが子午線一三五度で日本標準時のまさにその場所なのだと誇示するためのでかい看板があるのだった。  地方へ行くとこういうのがときどきある。日本文明発祥の地。嘘をつけ嘘を。  子午線を横切ってすぐの玉津《たまつ》という出口で降り、そのあたりから電話してくれれば詳しい道筋を教えると、アルバイト先の鉄工所のおじさんは言った。  なるほど子午線の看板のおかげで玉津の出口というのもすぐわかった。『玉津出口1km[#「km」は縦中横]』という看板に続いて玉津出口という看板が見える。  それはわかるのだが、降り方がよくわからない。  幸平《こうへい》はひとりで高速道路を走るのが初めてである。車に乗るのもまだ何回目というような初心者である。  そのまま出ればいいのだろうがひょっとしたらこのまま出てはいけないのかもしれないなあと、ふと考えて、いややっぱりここが出口にちがいないと思ったときには出口は過ぎ去っていた。  失敗した。  なんでこのまま出てはいけないなどと思ったのだろうか。  どうしたものかと頭の中は焦りでいっぱいになったが、すいすい走っている他の車の手前、失敗したことを悟られたくないので無理にスピードを上げたりする。  あまりの速さに、恐くてなんにも考えられなくなった。  本当は停まって考えたいのに。  緩やかな勾配を登っていくと、その先に『大久保出口1km[#「km」は縦中横]』という看板が現れた。  そこで降りるしかない。  沈みかけた夕日を背に、大久保《おおくぼ》出口の看板が頭上を流れていった。  今度は失敗しないようにと早めにウインカーを点滅させ、ハンドルを左に切る。ぐるりとカーブがあって料金所が近づいてきた。うまくいった。これで出られる。それはいいのだが出るときも金がいるのか。  ちょうど料金所の前で停まることができた。入るときは手前に停まりすぎたので無理に手を伸ばし、クラッチから足が離れてしまってがくんと車が揺れ、その拍子に窓枠で頭を打って首の筋がおかしくなった。今回はうまくできてそれはなかなかよかったのだが困ったことに窓が開かない。さっき、須磨《すま》の料金所では開いたのに。  どうでもいいことだがここまで来る間に途中の料金所では、まさか途中で金を払わなくてはならないとは思ってもみなかったので小銭を出そうと焦り、小銭入れとして使っている灰皿を開けるつもりでボンネットを開けるためのレバーを引いたらそのときはぎょいとへんな音がしただけでなんにも起こらなかったのだがなんとか料金を支払って走りだしたとたんにボンネットが目隠しのようにどーんと突っ立ってしまいあわてて車を降りてボンネットを閉めているとなにが気に入らないのかダンプのおっさんに怒鳴られてどきどきしたし、別のところでは窓を閉めたまま手を出そうとして突き指もした。いろんなひどい目にあった。  今度こそは失敗もなくなんとかうまくやれそうだと思ったのに、窓を開けるためのハンドルというかレバーというのか、これがびくとも動かないのだ。もちろん電動の仕掛けなんかついていない。  料金所のおじさんが手を突き出しているので、早くしなければと幸平はまためちゃくちゃに焦ってぶるぶるっと震えた。 「そんなに焦らなくても」と、おじさんが呟いたが幸平の耳には届かず、真っ赤な顔をして両手でレバーを握りしめると、全体重を乗せて力を籠める。すると突然まったく抵抗がなくなって、くるりとレバーは回転した。ああ嬉しい。なにかひっかかっていたのだろう。まわるまわる。こんなに軽くまわるのは初めてだ。嬉しいうれしい。  なにをやっとるのかと眉間《みけん》に皺を寄せて、料金所のおじさんが覗き込んできたとき、レバーがぽろりと取れた。  取れちゃった。と、幸平は驚いた顔でレバーをおじさんに見せ、いっしょに驚いてもらいたいので窓越しにほらほらとそれを揺する。ほら、どうしよう。  おじさんは、幸平の後ろに車が来ていないのを見てちょっと安心した顔をし、しょうがないなあという風に料金所のドアを開けると外に出てきてくれた。  怒られるのかなとおびえたが、おじさんの顔がやさしそうだったので安心して図に乗った。にっこり笑って愛想をふりまく。  おじさんが幸平の車のドアを開けるとぎぎい、と錆びた音がした。  そうかそうか。ドアは開くんだった。冷たい空気が、どっと車内に流れ込む。 「どうも」と小銭を手渡し、窓が開かないならドアを開けるという知恵に感心した。「さすがはプロだ」  おじさんはさっさと行けというように手をひらひらさせたが、顔は笑っているので幸平もにこにこ。結局は楽しかった。  すぐまたお金を払って今来た道を戻るというのが、あまりにも理不尽な気がしたので、普通の道で戻ることに決めた。  とりあえず東へ戻ればなんとかなるはずだ。わからなくなれば電話で訊けばいい。どのみち今日中に着けば、それでいいのだ。急ぐ必要はない。しばらく住み込みで働くのだが、仕事は明日からということになっている。宿舎のようなものがあるらしい。  薄暗くなってきたので、幸平はライトのスイッチを入れた。  ちゃんと点いたので驚いた。 「えらいえらい」  ちゃんと作動することのほうが珍しいのである。  推薦入試というやつで一二月のうちに大学に合格してしまい、もうあとはなんでもありである。正月をだらだら遊んだあと、学校には適当に気が向いたら遊びに行く程度で、車の免許を取るのに全力を注いだ。車だって自分の小遣いで買ったのだ。五万円だった。往年の名車だよと中古車屋の親爺は胸を張ったが、五万円で売ってしまってはなんの値打ちもなかろう。  明石《あかし》神戸《こうべ》方面、姫路《ひめじ》方面、という案内の看板がヘッドライトの光にぼんやり遠く輝く。五六本の道が複雑に集まった交差点である。  ここはやはり神戸方面へ行かなくてはなるまい。バイト先の住所は神戸市西区だと聞いている。よしとにかく左だなと、なにも考えずに左折したのだがどうもまちがったらしい。  がたがたと車が揺れはじめた。  幅が狭く、車一台通るのがやっとである。舗装していない。車が通るための道ではない。というかたぶんこれは道ではない。  戻るにはバックするしかないけどそれは問題外である。道の両側はただの空き地のようだが道に沿って五メートルおきくらいに大きな杭が打ち込んであり、杭と杭との間には金網と、その上には有刺鉄線というのか、とげとげの針金が延々張りめぐらしてある。車の幅ぎりぎりの道がひたすら続くのみ。だからというわけではないがバックはできない。できないものはできない。できないのである。  とにかくこのままどんどん南に行けばなんとかなるだろうと考えて、突き進むことにした。なんとかなるだろうと、遊び呆けていたら大学にも合格できた。世の中そういうものだ。  大学に無事受かった直後の若者ほど世間をなめている人間はいないのだった。  いつのまにか陽は沈んでしまい、あたりは真っ暗だ。幸平の車のライト以外にはまったく明かりがない。世間をなめていても恐いときはこわい。どんどん心細くなっていく。  自衛隊の演習場かなにかだろうか。ずいぶんとものものしい金網のゲートのようなものが前方に見えた。行き止まりだとすると今まで走ってきた分すべてバックで戻らなければならずそんなイリュージョンみたいなことできるくらいなら最初から車なんか乗らずに瞬間移動してるわけでいいやもうここにこの車捨てて電車乗って帰ろうと真剣に幸平は考えたのだが、ゲートは開いていた。  なにか看板がある。  道しるべかと思い車のスピードを落とした。 『ここより地雷原』  なんじゃそりゃ。と呟いた瞬間、段差を踏んで車ががくんと跳ねた。もともとちょっと暗かったヘッドライトが消えた。  目の前が真っ暗になった。  パニックに陥りなぜか思い切りアクセルを踏み込む。  車の下でなにかが爆発した。  その外側に約百五十メートルの幅を持つ帯状の地雷原を配置した大久保町の石の壁は、高さが八メートルあり地下に同じく八メートル埋まっている。幅は地上部分の平均が約六・五メートルであり、最大幅は地表部分の八メートル。そこから上へと放物線状の弧を描いて徐々に狭くなり、一番高いところが最も狭く約四メートルとなっていた。  塀の上部に柵などはなかったが、ここは歩哨《ほしょう》が常時行き来しており、ところどころに監視塔が建てられている。塔上部の監視小屋へは梯子を使って上がるようになっていたが、老朽化した木製の梯子はあたりまえのようにあちこち歯抜けになっておりなかには横棒があるのは一番上の段のみというひどい状態のものもあって、たいていはすぐ横にぶら下がったロープを用いて上り下りするのが慣例となっていた。  小屋の下は四本の柱だけなので、塀の上を歩くときはその間を通ることができた。これら監視塔には投光器が一機ずつ設置され、それぞれふたりの見張りがついている。  今、すべての監視塔からの光が幸平の車に集中していた。  なんのためらいも見せずに地雷原を突き進む車を幾分おもしろがって眺めていた歩哨のひとりは、何度目かの爆発で車が大きく浮き上がるのを見て、大して威力のない地雷なんですね、と先輩に話しかけた。  死なれるとやっかいだから軽いのにしてあるんだよ、と先輩がそれに答えた頃には、車は塔より高い上空へと舞い上がり、くるくると綺麗にまわっていたので、嬉しくなったふたりは言葉を失ってその軌跡を目で追った。  二度。車の底が二度見えたので二回転以上したと思う、と、この歩哨ふたりは後に酒場で何度もこの話をすることになる。とにかくもう前後も左右もないほどめちゃくちゃにぐるぐるまわって。  しかしまさか、塀の上にきちんと着地したうえに、こっちに向かって突進してくるとは思わなかったなあ。  タイヤから煙を上げ、尻を左右に振りながら恐ろしい勢いで車が走ってくるのを見たふたりの歩哨は一瞬わけがわからずじっとしてしまい、それから先を争うようにして必死で塔から降りようとじたばたした。  車はまったく減速せず、監視塔の柱をかすめて塀から飛んだ。  車の動きが止まった。サイレンがうーうーと鳴っているような気がするが、実際にサイレンなのか耳鳴りなのかはっきりしない。車はほんの少し運転席側を下にした形で逆さまになっている。ボンネットがかなりつぶれて凹んでしまっていた。えらいことだ。  自分で直せるだろうか。  のんきなことを考えているが、実は幸平はもう少しで死ぬところだった。塀の内側に規則正しく植えられているヒマラヤ杉が、車の勢いをやわらげてくれていなかったら、とてもではないがボンネットが凹んだくらいではすまなかったはずである。  しかし幸平は、そんなことは全然知らなかった。  意識はあったが、恐怖のせいで神経が少し麻痺したようになっていたので、車のまわりを武装した軍服の男たちが囲んでいるのを見ても、まるで不思議だとは感じなかった。  男たちの腕にナチスの紋章があるのに気づいたが、大したこととも思わない。  かなり乱暴に車から引きずり出された。必死で助けようとしてくれているのだなと思って、「どうもどうも」と口の中でもぐもぐとくりかえし、なにかを探すように全身を触られている間も怪我のようすを見てくれていると思ったので「あ、そこちょっと痛いです」などとのんびり訴えたりした。  両脇を軍服の男ふたりに支えられて歩かされ、痛かったので、 「痛い」と顔をしかめ、しっかり歩けと強く命令されたのに、これは励ましてくれているのだと感謝して「お手数をかけます」と頭を下げた。  ちょっとふらふらするけど、どうやら怪我はしていないようだと安心しながら、厳《いか》めしい制服を着た連中をぼんやり眺めていた。  男ふたりに挟まれたまま、黒くて頑丈そうな車に乗せられる。救急車ではない。ほんの少し不安は芽生えたが、あまり怪我をしていないからだと無理に安心してみた。ものごと、悪いほうに考えはじめるとろくなことはない。気楽にいこう気楽に。運転席との間に金網が嵌《は》まっているのだって別におかしなことじゃない。  ふつうふつう。  両側に大きな男が座ってしまったので座席は窮屈で、窓には色がついていて外がよく見えない。どうも怪我人を助けようとしているようには思えないが、まあこういうやりかたも世の中にはあるのだろう。どこに連れていかれるのかなと恐くなったが、それを打ち消すようにわざと明るい調子で右側の男に、 「車なおるかなあ」買ったばかりなのにとのんびり話しかけたところいきなり、 「だまれ」と、低く命令された。  どうもこれはよくない。なんか恐い。  ふと自分の両手を見ると、手錠が掛けられている。 「わっ」  いつ掛けられたのか思い出せなかった。そこまでのんびりしていた自分が信じられない。  連行、誘拐、監禁、拷問、強姦という言葉が頭の中を動きまわる。強姦は関係ないと思うが反射的に連想した。そういうものだ。  常々いやなことや苦しいことはできるだけ考えないようにしているのだけど、もはや気楽にしている場合ではない。これで気楽でいられたらよほどの大物かおおまぬけ。  なんとかしなくては、と幸平は必死で考えた。  さあ、この人たちはなぜ軍服を着ているのでしょうか。自衛隊の制服というのはよく知らないが、これはちょっとちがうと思う。最初、ヘルメットをかぶった人たちが大勢いたのでぼんやり自衛隊だと思ったのだったが、両側の男ふたりはくるぶしまでありそうな革のコートを着ていて、このかっこよさは絶対に日本の自衛隊ではありえない。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_021.jpg)入る]  それに、鉤十字のマークがついた腕章を、みんなつけているけどなんでそんなものつけているのか。  第二次世界大戦のときのドイツ軍がこういうマークをつけていて、チフスじゃなくてヒトラーが独裁者で、なんというのだったかあれば。チフスじゃなくてチフス、じゃなくてええとチフス。肝心の言葉が思い出せない。ついさっきまで覚えていたのに、チフスという言葉がまず頭に浮かんでから、ちがうのはわかっているのにチフス以外の言葉が出てこなくなってしまった。  あーそうだチフス。じゃなくて。  じろじろ眺める幸平の視線に気づいて、右側の男がじろりと幸平を睨みつけた。  あわてて目をそらしてしまい、ちょっと悔しい。  右側のこいつは恐いが、左の男はどうだろうと思ってそっちを見るとどうもこの人は外国の人のようだと気がついた。  右側の偉そうな態度で不細工な顔をした頭の悪そうな友達の少ない恐ろしく金に細かい体がでかいだけの脳味噌うんこ男は日本人みたいだが、左側のこの男は、どこの国の人かわからないがとにかく西洋の顔をしている。  きっと名前はボブとか、そのへんだろう。と、勝手に決めつける。  運転手はと前を見ると左側にいた。ということは、この車は外車なのか。運転手も髪の毛の色が黒ではない、と思ったが暗い中で目を凝らしてよく見るとただ禿げているだけだった。  なんだはげか。  車が停まった。  巨大な鉄の門が、運転手の肩越しに見えた。運転席とを隔てる金網のせいではっきり見えないが車に乗っている連中と同じような軍服の門番がいる。幸平の乗せられている車の前にはオートバイが二台いて、そのひとりが門番になにかを言っているようだ。後ろには、やはりオートバイと車が何台か。 「きょろきょろするな。なにを見ている」右の男が、幸平を睨《にら》みつけた。まったく横柄なやつだ。  むっとした幸平は、なにか言い返そうと思ったのだが、どう考えてもその人はやっぱり恐かったので素直に正直に、 「いろいろ」  いきなり殴られた。 「今度なにかふざけたことを言ったら、鼻をつぶしてやる」と、右側の男は前を向いたまま言った。ふざけてないのに。正直だったのに。  もうつぶれているのではないかと思うほど、鼻が痛い。涙がこぼれる。  こんな暴力を許していいのか。なあどう思う、と鼻を押さえたまま左側のボブを見るとほとんど透明に近い瞳をしたこの男は、ちらりと幸平に目を向けると眉を上げながら肩をすくめた。  外人め。  鼻の痛みに気を取られている間に、車は目的地に到着したようだった。 「降りろ」  冷気がどっと入り込んできた。それと同時に海の匂いも。  右側の男は先に車を降りると、幸平に銃を向けた。  え、と思ってボブの方を振り返ると、ちょうどホルスターから拳銃を取り出すところだった。コートの上に太い革ベルトを巻いていて、そのベルトにこれも革製の箱がくっついている。おおよそ拳銃の形をしたその箱にはちゃんと蓋までついていて、いちいちその蓋を開けて拳銃を取り出すようになっているのである。  ふたりとも肩から長くて重そうなマシンガンをぶらさげているのに、なんでわざわざ小さい銃を、それもいちいち蓋を開けなくてはならないようなところから取り出したのか、幸平にはよくわからない。  脇腹に拳銃が押しつけられた。  病院に連れてきてくれたわけではないらしい。  たぶんなにかのまちがいだと思う。  寒さと不安に全身が震えたが、殴られた鼻だけがじんじんと熱かった。  この騒ぎは、大久保町|大窪《おおくぼ》地区の公民館に集結していたレジスタンスのリーダーたちにも聞こえていた。 「来たみたいですな」と、|江井ヶ島《えいがしま》地区のリーダーが言った。この人は漁師である。顔が真っ赤っかなのは飲んでいるビールのせいではなく日焼けだった。 「派手にやったようですが、大丈夫やろかいな」専業農家をやっている西脇《にしわき》地区のリーダーが他のメンバーの顔を心配そうに見た。他には、やはり農家だが乳牛を飼育している谷八木《たにやぎ》地区のリーダーや中学校の社会科の教師をしている山手台《やまてだい》地区のリーダーなど十数名の顔がある。たいていの人は畳の上で胡座《あぐら》をかいて、のんびりと缶ビールを飲んだり、するめを食べたりしてなんの緊張感もない。 「ま、あとは鷹弦《たかげん》さんにまかせるとして」と江井ヶ島。「合流は明日の朝ですわ。一応わしらの方は今晩九時ごろ、山のお稲荷さんのへんということで、みなさんよろしいですな」  他のメンバーが黙って頷いた。  レジスタンス活動、という危険な匂いのすることをやっていながら「九時ごろ」とか「お稲荷さんのへん」とか、ずいぶん大雑把である。 「武器なんかは、もうお稲荷さんに集めてあるんですわな」西脇のリーダーは心配でしょうがないといったようすで「爆薬もあるんですわな。大丈夫ですわな」 「さあ」と江井ヶ島地区。 「さあ?」素っ頓狂な声を西脇地区は出した。「さあってどういうこと?」 「それは、わしの役目とちがうから」江井ヶ島地区は憮然とした。「そういうのは高丘《たかおか》の方でやってもらうことになっとんのやなかったかな」 「え?」と、突然注目を浴びて高丘地区のリーダーは顔を上げた。この人は洋食屋さん。ぼりぼりとおかきを食べている。「うちは、みんなの食事の用意、いうことでやらしてもろてんねやけど?」 「はな、爆薬とか武器はどないなっとるんや」西脇地区はおろおろした。 「あー」と、のんびりした声があがった。「それうちや」松陰《まつかげ》地区のリーダーだった。この人の仕事は、なんだったかなあ。「ちゃんとやっといたから」うんうん。 「はー」西脇地区はほっと胸を撫で下ろし「よかった」 「それはそうとなあ」大事な話あんねんけど、と一応この場のまとめ役である大窪地区が切りだした。「春の祭りで獅子舞やる地区は、どのくらいありますのんかいな」  それからしばらくは、|縁ヶ丘《みどりがおか》地区などの新興住宅地でも獅子舞をやるべきかとか、このごろは若い者が獅子舞をやりたがらないので困るとかという話で盛り上がり、西脇地区がそろそろ晩飯なのでいったん帰ると言いだすまで続いた。  みんな晩御飯のためにいったん帰った。 [#改ページ]    The Empire Strikes Back 「乱暴はよくないね、少尉」  上の方からとろりと甘ったるい声が聞こえた。手錠のせいで不自由な両手を動かし、なんとか体を支えると幸平は上半身を起こした。  凝った装飾の長く薄暗い廊下を何度も曲がり、やたらと背の高い大きな扉の前で立ち止まったと思ったら、いきなり後ろから背中をなにか固いもので殴られた。あんまり痛くて立っていられず、部屋の中に転がってしまったのである。殴ったのはきっとあの横柄乱暴脳味噌うんこ男だ。決まっている。ボブといっしょに扉の両側に立って、幸平を睨んでいた。逃げようとしたら、すぐ捕まえるぞということだろう。  しかしなんとも豪華な部屋だ。  適度に広くて、床に座り込んでいるせいもあるだろうが天井がものすごく高い。いやもう馬鹿馬鹿しいほど高い。  壁や天井のあちこちには暗い色をした木があしらわれ、きらびやかなシャンデリアがぶら下がっている。煉瓦《れんが》づくりの暖炉もある。いや天井に暖炉があるのではなくて、ちゃんとした場所にある。この暖炉は形だけ暖炉で中にガスストーブが嵌め込んであるというようなお向かいの山下さんの応接間にあるようなやつとはちがって、牛の角や熊の置物や新婚旅行の写真なんか全然置いてない、ちゃんと火を燃やせる正しい暖炉である。めらめらと炎も揺れている。本物の炎である。ここはなんでも本物のような気がする。  ではどういうのが偽物かというとそれはもうお向かいの山下さんの新しく建てなおした家で、全体に洋風で出窓があって玄関なんか吹き抜けでシャンデリアにステンドグラスまでついているのに靴を脱いで上がらなければならないし、廊下を入ってすぐの部屋は畳が敷いてあって二九インチのテレビとか座椅子とか花柄の沸騰ポットなんかもあるし奥にはおじいさんが寝ていてときどき痰を吐くような声を出してしかもとどめのように巨大な仏壇がある。ああいうのが偽物だ。おじいさんは本物で、ちゃんとときどき動く。 「この部屋が気に入ったかね」  声の方を振り返ると、一目で値打ち物とわかる木の机が目に入り、そこにこれまた豪華な軍服で身を固めた男が座っていた。軍服を着るとたいていは凛々しくかっこよく見えるものだが、この人はいかにもおっさんという感じである。別に汗をかいているわけでもないのに、顔全体がなんとなく脂ぎっていてぎとぎとして見える。幸平は立ち上がろうかこのまま女座りしていようかと迷いながら、おっさんの揉み上げを眺めていた。異様に長い。  とにかくちょっと危ない人という気がする。 「わたしはヘルベルト・フォン・ブラウフィッチュ大佐。お会いできて光栄だ」見事な日本語だ。あたりまえだ、どう見ても日本人だ。日本人でなくても、東洋人にはちがいない。まちがえてもヘルベルトフォン関係の顔ではない。 「減帯」などと書いて「へるべると」と読むのではあるまいな。 「みんなはわたしのことを木山《きやま》と呼ぶがね」 「なんで」思わず怒ったように聞き返してしまった。 「本名が木山|幹男《みきお》なのだ」なんじゃそりゃ。  おっさんは軍服の襟と胸に、きらきらといろんな記章をつけまくっていた。テレビのニュースなどで軍人の偉い人というのを幸平はときどき見たことがあったが、目の前のこいつはちょっとすごいぞ。なにしろ軍服の前面はほとんど記章である。そのほとんどは、様々な勲章や記章の代用である略綬《りゃくじゅ》だったが、あんまりぎっしりたくさんついているものだから、一見、複雑な模様を織り込んだ民俗衣装を首からぶら下げているのかと思うほどだ。軍服の生地が見えるのは下の方の少しと腕の部分だけで、金属を使ったものもけっこうたくさんくっついているのでこの服はきっと重い。  しかも部屋の中なのに帽子までかぶっていて、これがまた贅沢の限りを尽くして製作しましたといった風情のものすごいものだ。ぎらぎらである。これもひょっとするとものすごく重いのではないかなあ。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_031.jpg)入る] 「君の名前を聞かせてもらえるかな?」  ものわかりのよさそうな笑顔を幸平に向ける。しかし善人には、どうまちがえても見えなかった。こういう笑い方をするのは、底意地が悪くてねちねちした性格の持ち主に決まっている。小学校四年のとき担任だった増田先生がそうだった。あのおばはんにねちねちいびられたせいでぼくは円形脱毛症になってしまって。 「言いたくないのかね」うーん、それは困ったねえ。とわざとらしく首を横に振る。 「あー。えーと」せっかちな人だな、と幸平はあわてて声を出した。初対面の人に、自分の名前を言うのはきらいなのだ。「堀田《ほった》幸平です」 「ほったこーへー」と、ヘルベルトフォン木山は復唱した。みんなそうする。「こーへー」と、ことさらのんびりと発音して、それからたいていちょっと嬉しそうな顔をする。  木山大佐はちょっと嬉しそうな顔をした。 「いい名前だ」ふふーん、という鼻息とともに木山大佐は立ち上がり「おっとこれはいけない。お客様に対してこれは失礼だ」まるで今初めて幸平の手錠に気がついたかのように、大仰《おおぎょう》に驚いてみせる。「少尉、外してさしあげろ」  きびきびと近づいてきたさっきの乱暴男に手錠を外してもらいながら、幸平は立ち上がった。この大男は少尉なのか。車の中で鼻を殴ったこと、ヘルベルトフォンなんとか木山に言いつけてやろうか。懲らしめてもらえないだろうか。  ちょっと安心した幸平が部屋の真ん中に突っ立っていると、木山大佐はそのまわりをゆっくりと歩きはじめた。幸平よりほんの少し背が高い。一八〇センチくらいか。幅がでかくて力は強そうだが目の前で見るとけっこう皺がある。じじいである。 「素直に話してくれて大変ありがたい」ふふーん。癖だろうか。へんな鼻息だ。「ついでに君の任務や連絡員のことも教えてくれると、もっと助かるんだがねえ」  名前に関して、もっといろいろ笑われるかと思っていた幸平は、別の話題に移ってほっとした。けどなんのことを言っているのかよくわからない。 「にんむ」唇を突き出して、眉間に皺を寄せて、顎《あご》に手を当てて幸平は訊き返した。 「おーう」と大佐は大げさに嘆いた。両手を大きく広げて、それから胸の前で手を合わせる。「よくないなあ」声がだんだん大きくなって「ううーん」と体をくねらせる。「ふふーん」  だいじょうぶか。  ほっといて喋ることにした。 「実は神戸市|西区《にしく》というところの鉄工所にアルバイトに行くはずが道をまちがえて」部屋の中が、静まり返った。急に静かになったので声が小さくなってしまう。「あの」みんな、どうしたのかな。  さっきまでふふーんとかほほーんとかにぎやかだったくせに、木山大佐は幸平の後ろで黙ってしまい、動きまわるのもやめてじっとしている。  暖炉で木の燃える音だけがのんきにめらめら。 「道をまちがえた」大佐の低い声が、幸平の背中に響いた。「だと?」  声が険悪な調子になっている。突然どうしたというのか。  横から木山大佐の浅黒い顔が、幸平の顔をぬっと覗き込んできた。色の薄い瞳の中に小さな瞳孔がはっきりと見える。 「ほったこーへーねー」と言いながら前にまわってくる。なんでみんなそうだらーっと伸ばして発音したがるのかなあ。と思いつつも名前を呼ばれたので返事をしようとしたが、喉がかさついて声が出ない。咳払いをする前に、木山大佐が先にふふーんと言った。「そんなふざけた名前の人間がいるわけはないと思ったよ」 「いやあ」ひどいことを言うなあ。 「本当の名前を教えてもらうのにも、時間と手間をかけなくてはならないらしい」幸平に背中を向け、自分の机の前に立った。「しかたがないねえ」口では、じゃまくさそうに言っているものの、なんとなく嬉しそうにも見える。ゆっくりと、なにかの儀式を始めるかのように両手を帽子にかけ、幸平の眼を睨んだままそれを机に置いた。口許は微かに笑っているのだが、眼は冷たい。瞳孔がすーっと小さくなるのがわかった。首筋に手をやり、首を右に左に、ごき、ごきごき。「この帽子は大変重くてね」  あやっぱり。  自称ヘルベルト・フォン・ブラウフィッチュ大佐、本名木山幹男はもう幸平を見ていなかった。 「彼を、特別室へご案内しろ」なにかいい匂いでも感じたように、幸せな顔を左右に揺らして大佐は微笑んだ。「わたしもすぐに行く」  連れていかれたのは地下だった。地下にも部屋はたくさんあるようだったが、階上の部屋とはいくぶん雰囲気がちがっている。質素で事務的な感じがする。上はお客様用で下は丁稚《でっち》住み込み、というところか。  いやそんなことより、このまま特別室とかに連れていかれると、たぶん殴られたり蹴られたりするのではないかと思う。電気ショックや水責めなんかもされるかもしれない。  密室で美人のお姉さんにいじめられるのならともかく、おっさんはどうも。  廊下の果てまで進んだところで左に曲がると、数メートル奥まった場所に大きな鉄の扉があって、その前で待たされた。この建物の端の端に位置する部屋である。暖房も地下にはいきとどいておらず、足下は冷たい風がすうすう流れている。薄暗さといい湿っぽい匂いといい、いかにも地下室という雰囲気なのだが、扉の上にわざわざ「地下室」と表示してしまうのはどういうものか。  この階にあるかぎり、すべての部屋は地下室に決まっているのだ。なんでわざわざこういうことを書くのか、そのセンスを疑う。  ボブが地下室の扉を開けようとしたが、錆びついているのか重いのか、なかなか開かないようだった。  そのとき、乱暴少尉がすっと動いた。  さりげなかったし、あんまり早かったので、幸平は少尉がどこにいるのか一瞬わからなくなったほどだ。あああそこか、と思う間もなく少尉の右手はボブの首筋を掴んでいた。びっくりしたボブが声を上げようと口を開きかけたが、情緒のあぶない少尉はボブの顔面をどごんと殴りつけてから、驚いたことに片手でその首を掴んだだけでボブの巨体を支え、さっきボブが体重をかけても開かなかった鉄の扉を左手で軽々と開けた。そこへボブを勢いよく放り込み、がん、と今度は両手で扉を閉める。まったく重さが感じられない。なんという力だろうか。もう、ぜったいにこの人に逆らうのはよそう。ぜったい。  ボブのなにがいけなかったのか知らんがそこまでせんでも。 「ぐずぐずするな」  体を少し傾けた恰好のまま口をぽわーとだらしなく開けている幸平を見て、少尉は眉根を寄せた。 「あー」幸平はあわてて両手を挙げ、挙げた手で顔の両側の空間を叩きながらあとずさった。「しっしっ、あっちへ行け」  少尉の顔が、無表情になった。見ようによっては可愛い。 「俺は味方だ」少尉は言いながら扉に鍵をかけた。「来い」そう言うと、幸平の返事を待たずに廊下の方へと走りだす。  ひょっとすると、助けてくれようとしているのかもしれない。が、頭の芯まで本物のアホな人かもしれない。第一助けてくれる理由がないではないか。さっきはぼくのこと殴ったじゃないか。  けれど、幸平の体は怪力少尉を追って駆けだしていた。すぐ近くの人が突然走りだしたら、わけはわからなくても走りだしたくなるものである。だれでもそうだ。嘘だと思うなら町を歩いている見ず知らずの人の耳元で「逃げろ」と囁《ささや》いてダッシュしてみるがよい。絶対その人も走る。  少尉は広い廊下に出る直前のところで止まり、廊下のようすをうかがおうとしたようだったが、それに気づいたときには幸平はもう飛びだしていた。 「あ」と少尉の声が聞こえて、しまったと思ったが遅かった。  ちょうどやってきた誰かに、どすんと正面からぶつかった。  ヘルベルト木山だった。 「いったー」と木山大佐は言って顔をしかめた。痛かったらしい。「危ないじゃないか」怒ったような顔で幸平を見つめている。怒っているのだろう。 「いやあの」どうしたら。と思ったとたん、ばすんと音がして大佐は倒れた。  さっと出てきた少尉がいきなり殴ったのだ。人を殴るということにまったく躊躇《ちゅうちょ》のない人である。 「いくぞ」と少尉はなにごともなかったかのように言ってふたたび駆けだした。  倒れた大佐は朦朧《もうろう》としたようすで幸平をじろりと眺め、 「お、おのれ」と呟いて意識を失った。 「あ、ちがうちがう。殴ったのはほらあの、さっきのでかくて陰気で四角い」四角い、というのは自分で言っておきながら変だとは思ったが、なんとなくそんな感じはする。  しかし殴ったのはあの乱暴な少尉なのに、どうも全面的に恨みを買ってしまったようだ。  起こして説明しようと、幸平は意識のない大佐の上に屈み込んで、 「あの、ちょっとちょっと」 「ほっとけえ」と、すでに廊下の端の方まで行ってしまっている乱暴少尉が怒鳴った。  でもなあ、と思いつつ、しかたなく幸平は走った。  連れてこられたときとは別の階段を上がる。  何度か廊下を曲がったので、もはや幸平には自分がどちらを向いているのかはわからない。ただ、黙々と走る大男の背中を追うだけである。  階段は木造のがっしりとしたものだったが、駆け上がるとぎしぎし鳴った。階上では人の歩きまわる気配がしている。このまま登っていっては、見つかってしまうのではないかと幸平が心配になったとき、途中の踊り場についている金属製の扉を乱暴少尉は勢いよく開けた。  開けたところにふたりの衛兵が立っていた。  見つかった、と幸平は背筋に寒けを覚えたが、今まで歓談していたらしいふたりの衛兵がこっちに笑顔を向けたとたん、少尉はあたりまえのようにマシンガンをかまえ威圧的に言った。 「銃を捨てろ」 「へええー」と、場違いな驚き方をしてふたりは簡単に銃を捨てると両手を挙げた。なんの躊躇もなかった。おびえているようすもなく、身の回りに事件が起こったことを喜んでいるようにさえ見える。あんまり仕事をやる気がないようだった。 「悪いな」少尉は衛兵にそう言うと、彼らが捨てたマシンガンを遠くへ投げた。  外へ出てふたたび走りだすと背後で、あいつ敵だったのかあ、とのんびりした声が聞こえ、続いて笑い声まで聞こえてきた。楽しいらしい。  裏庭とおぼしきところに出た。コの字型に建っている建物の、内側である。ずっと先に運動場みたいな広場と、それを囲むコンクリートの大きな塀が見える。  そのまま走りながら、少尉は幸平を振り返った。 「脱出経路は確保してある」頬に皺を寄せる。笑ったか、もしかするとウインクしたらしい。  ごつい笑顔だったが、幸平は強張《こわば》っていた筋肉があっというまにほぐれてしまったかのような安心感を得た。いい人でよかった。しかも「脱出経路」とか「確保」なんて漢字の言葉を喋る知恵も持っている。と失礼な安堵もする。この人は本当に味方なのだ。よかったよかった。なぜ助けてくれるのか、そもそもなぜ逃げなくてはいけないのか、ここはだいたいどういうところなのか、なんにもわかっていないくせに味方ができたということだけで、単純に納得してそれで嬉しいのだった。  油断しているとどんどん離される。ものすごい速さだ。あれ本当に人間だろうかと、あわてて少尉の背中を追うことに熱中した。ここで置いていかれてはたまらない。  どこをどう走ったのかなど皆目わからなかった。明かりのほとんどない闇の中を、目の前の黒い軍服だけを頼りに走りつづけた。  塀の外のそばまで出たのか出ていないのか、とにかく舗装された道路を越えたところにマンホールがあった。少尉はまるで何度も練習を重ねたかのような動きで片膝をつき、側にマシンガンを置くと、両手をマンホールの蓋にかけた。  誰かの怒鳴る声が遠くに聞こえた。  車のエンジンが突然唸りを上げ。  ついにサイレンが鳴り響く。  月の明かりに照らされたマンホールを見ると、そこには「しごせんのまち東経一三五度あかしおすい」という文字と、天文台のようなイラストが描いてあった。「おすい」というのは「汚水」のことだろう。とにかくこの地の人々は「東経一三五度」ということが嬉しくてたまらないらしい。しかしまあ、この切迫した時間の中で、なんとのんびりしたマンホールか。  ぐわっという土を掘り返すような音とともに、いきなり光がやってきた。  眼が眩《くら》んで、頭を殴られたようなショックを感じた。すさまじい明るさだ。  大排気量のディーゼルエンジンの太い排気音が胸に聞こえる。地面がかすかに震えはじめている。  強烈なライトを搭載した車が、倉庫らしき建物の向こうから曲がってきたのだ。 「頭を低くしろっ」マンホールに手をかけたまま、うんうんがんばっている少尉が幸平に怒鳴った。「見つかっちまうぞ」  あれは、ひたすらあたりを明るく照らすことだけが目的の自動車らしいが、自動車に生まれ変わってもああいう極端に単純なのだけはいやだなどという本当にどうでもいい考えにとらわれていた幸平は、びくっと身を震わせて地面に転がった。  マンホールの蓋はまだ開かない。少尉の怪力をもってしても開かないということは、このマンホールは実は絶対に開かないマンホールなのではないか。 「おい」気の抜けたような少尉の声に、またしても幸平は我に返った。「ふつうこういうとき、仰向けには寝ないだろう」 「はあ」そういえば、と無理に首をねじって少尉を見ていた幸平は、体を動かしてうつ伏せになった。「なるほど」  ところがその動きが、見えてしまったらしい。 「いたぞっ」とたぶんそのような意味だったのではないかと推測されるのだが実際には「浴衣」と幸平の耳には聞こえてしまった鋭い声が響いた。ディーゼルエンジンの唸りの中でその声は微かだったが、明らかに発見されてしまったとわかる雰囲気の変化があった。 「ちくしょう。動かん」  明かり専用車は幸平たちを轢《ひ》き殺そうとでも思っているのか、どんどん勢いを増しながらこっちへ向かってくる。  ずおーんと音がして、反対方向にも車が現れた。こっちは明かり専用というわけではないようだったが、ごついライトはちゃんとついており、しかもどうやら前方に突き出しているのは大砲らしい。たかが人間ふたりにそこまでするかと呆れる。  少尉はまだぐずぐずしている。でかいだけあってやっぱりとろい男だ。  さっさと開けろ捕まっちゃうじゃないか。  車は二台だけではないようだ。明かり専用車が眩《まぶ》しいせいで他がよく見えないのだが、とにかくもっといる。ライトの前をときどきよぎるのは走っている兵隊だろう。とにかく、どんどん人は増えている。 「くそっ、どうして開かん」いまにも顔から血が噴き出しそうな声だ。 「早くしないとほらほら」と、寝たままの幸平。どうでもいいことしか言えない。「ほらこうただひっぱってんじゃなくて、どこかに秘密のボタンがあるとか呪文を唱えるとか」 「ばか」  背後に遠く人の気配がした。 「おまえらか、いっつもマンホールの蓋盗んでいくやつは」誰かが叫んだ。こんなもん欲しい人がいるんだろうか。 「ねじかも」これは幸平。蓋は、ネジ式になっているのではないかと言いたいのである。なかなか伝わりにくい発言であったが、驚いたことに少尉はこれを理解した。 「そんなわけ」あるか、と試しに捩《ねじ》ったらくるりと回転し見事に開いた。  すぐ背後に足音が駆け寄ってくる。  首筋を汗ばんだごつい手で掴まれる。と自分で想像して震えあがり、さあ、と少尉が言うより早く、幸平はなにも考えずに飛び込んでいた。飛び込んでから、いったいどのくらいの高さを落ちることになるのかと思い、実は飛び込むのではなくて、横の梯子かなんかを降りなければならなかったのではないかと不安になる。  三十秒くらい落下しつづけたが、まだ下へ着かない。  そんな気がしたが、実際は一秒もかからずに幸平は氷のような水に受け止められ、今度は溺死の恐怖と戦うこととなった。  暗いので、どっちが上かわからない。冷たい水が鼻から口から侵入してきて喉が詰まった。ときどき偶然に顔が水面に出る瞬間があるのだが、あまりの冷たさに息を吸おうとしても喉と鼻は勝手に固く閉じてしまってどうにもならないのだ。じっとしていればそのうち浮くのに、じたばたするのでかえって体は変に沈み、ふたたび息のできない暗く冷たい水の中へと顔は戻っていく。  幸平は全然意識していないがあぷ、とかがぱとかけっこういろいろ奇声を発していて、ものすごくみっともない。普通溺れてもここまでじたばたしない。もしかしてうけようと思ってわざとやっているのではないかと思うほどである。  けれど本人は文字通り必死だった。初めてプールに入った小学校一年生のときのことをふと思い出したりしてしまい、すると遠くで点滅する黄色い光が見えた気がして今ぼくが見ているこれはひょっとして死ぬ前に見ると言われる走馬灯のようなあれではないのかと気づいて慄然《りつぜん》としたり、水がちょっと臭いので飲んだら病気になるかも知れないと心配したり、山下さんのおばさんが持ってきてくれたカリンのシロップを思い出したりした。あれも臭くてもしかすると、あれ腐ってたんじゃないかなあ。  ふわ、と顔が暖かい風に触れた。  息ができる。思いっきり、空気を吸い込もうと口を大きく開きかけたとき、上から大きなおっさんが落ちてきた。  また沈む。  今度は完全に水を肺に取り入れたのを感じた。今度こそ死ぬ。  しかし、走馬灯のようなあれは見えなかった。  走馬灯というのを幸平は、夜に乗馬するとき馬に取りつける提灯《ちょうちん》のようなヘッドライトだと思っていた。 [#改ページ]    Anything Goes 「今日も船は来なかった」カウンターに向かってテキーラを飲んでいた男が、誰に言うともなく呟いた。そこまでは悲しいのか怒っているのか、まるでわからないのんびりしたようすだったのだが、さらにひとこと「もう来ないかもしれない」と付けくわえ、自分の言葉にショックを受けたのか、はっと息を吸い込んで一瞬後にはみるみる表情を崩して泣きだした。 「ずぎゅうう」両手で持ったグラスを胸の前に抱えたまま、顔をくしゃくしゃにしてがくがくと号泣する。 「またかよ」その隣で、カウンターに背をあずけている男がいかにも困ったという顔をした。泣き上戸《じょうご》の男がずっしり筋肉質なのに比べ、こっちの男はひょろりと背が高い。「船はそのうちきっと来るって」 「うーぐっ、ぐっ」 「いいから泣くなようっとうしいやつだなあ」 「だってえー。えへ。えへっ」笑っているのではなくて、嗚咽《おえつ》である。 「おまえ本当に七人も殺してるのか? めそめそめそめそ」 「で、で、ででできごこごろごー」出来心で、七人絞め殺したというのである。このふたりはさっきこの酒場で知り合ったばかりだった。 「馬鹿か。出来心で七人殺すやつがどこにいるんだ」背の高い男は、やってられんとばかりカウンターから離れようとしたのだが、いきなり後ろから首を絞められた。 「信じないのかあ」泣きながら泣き上戸の男が、目の前の男の首をぐいぐいと絞め上げていた。この男、もともと誰も殺すつもりはなかったのだが力が余って弾みでひとりの男を絞め殺したあと、そのことをまったく信じなかった人間に対していちいち逆上し、このようにしてこれまでに六人も殺してしまったのだ。 「わかったわかった信じたしんじた」顔を紫色にして、背の高い男は呻《うめ》いた。「たすけてくれ」  絞められながら、苦しいのでめちゃくちゃにもがいた男の長い脚が近くのテーブルを蹴り上げ、テーブルの上に並んでいた料理と酒を天井までふっとばした。逃げられる、とかんちがいした泣き上戸の方は、うおんうおんと泣きながら、いやいやをするように体を左右に振ったところが怪力なので、首を絞められて死にかけている男の体は首を中心にぶんぶんと宙に浮く。騒ぎに驚いて立ち上がろうとしていた男たち三人ほどが、その足になぎ倒され、あわてて駆け寄ろうとした親切な男もやはり同じように、振り回される男の膝をまともに腹に受けた。  腹を押さえながら、倒れまいとがんばったその男は椅子に座ったような格好のまま後ろ向きに、驚くべきことに上半身はまったく動かさずにととととと走り、騒ぎにまったく無頓着だった別のテーブルに背中から突っ込んだ。  汗くさい男が仰向けに転がり込んできて目の前のテーブルを粉々に壊してしまったのに、カードゲームに興じていた男たちはそれぞれ手持ちのカードを睨んだまま動かない。 「よし」とひとりが顔を上げ、テーブルがないことに気づいてたいへん驚いた。今までテーブルがあったあたりの宙を掌《てのひら》で撫でるようなことをして「俺のチップがない」  そこへやっと、紫色の顔をした男の脚がぐるぐるまわってきた。  別のところで、まったく関係のない別の喧嘩が自然発生的に発生した。なぜそうなるのかわからないのだが、こういう場合必ずそうなるのである。  酒場は大乱闘に突入した。  それまでのんびりとハニーサックル・ローズを演奏していたバンドは、嬉しそうに立ち上がったトランペッターの悲鳴のようなハイトーンをきっかけに、アップテンポに乗っていく。  エニシング・ゴーズ。  ホーンセクションを中心としたバンドのメンバーたちは、ひっきりなしに飛んでくるビール瓶や椅子や靴などを巧みに避けながら、またときおり殴りかかってくる酔っぱらいに反撃したりしながら、次々とアドリブソロを展開していく。  店内のあらゆるものが破壊されていくなか、そこにいる者たちは客も店員も関係なく、たいへん楽しそうに喧嘩をした。これだけ壊れたら、もうしばらくは営業できないのではないかと誰もが思うところだが、これがたいていなんとかなるものらしい。  乱闘はさらに激化し、この収拾をどうつけるかということが非常に問題になってくるが、それはこの酒場の店主が決めることである。  この店がどうなろうと気にする必要などなにもない。ここは関係ないのである。  いきなり噎《む》せた。  頬から耳へと生温かい水が流れるのを感じ、幸平は寒さに全身を震わせた。 「もうだいじょうぶよ」女の声が聞こえる。 「まいったぜ、こいつ本当にプロか?」この声は知っている。上から降ってきたおっさんだ。乱暴な少尉だ。  咳をすると、喉の奥からごろごろと臭い水が出てきた。吐き気をこらえて、水を吐き捨てた。仰向けに寝かされていることに気づいた。  全身が濡れていて、ものすごく寒い。寝ている地面も濡れていて、コンクリートのようだがなんとなく生臭い。 「あ」なんということだ。幸平は恐怖に愕然とした。  眼は開いているのに、なにも見えない。さっきの衝撃で視力を失ってしまったらしいぞ。 「眼、眼が見えないっ」 「真っ暗なんだよ」のんびりとたしなめられた。  なんだ。そうなのか。 「ぐずぐずしてられないわ。行きましょう」また女の声がした。  がくがくと震えながら、幸平は身を起こした。まったくなんにも見えない。まったくの闇の中だ。 「行くぞ」  どうやって行くんだ。なんにも見えないじゃないか。あんたたち夜行性か。こうもりかももんがかスローロリスか。不安と寒さのせいで、幸平はむやみに腹が立った。  ちくしょう、このままじゃ寒くて死んでしまう。 「さあ」唐突に近くで声がしたので、ぎくりとしたが、温かい手に腕を掴まれてもっと驚いた。「離れないで」手と手をつながれた。  あのごつい少尉がこういう華奢《きゃしゃ》で温かい手を持っており、しかも女の声色を使ってぼくを騙しているというのでない限り、この手は女の人の手だ。  美人だろうか。 「おやおや」と、ひやかす少尉の声が背後に聞こえた。  やはりこいつらふたりはこの真っ暗な中で、多少なりとも眼が見えているらしい。信じられない。どう眼を凝らしても、自分の手を見ることすらできないのに。  柔らかい手に引かれ、闇の中を進んだ。  右側は壁になっていて、ときどき肩が当たる。触ってみると、ぬるぬるとして気持悪いものがびっしりと生えていた。左側からは、ざあざあと水の流れる音が聞こえてくる。こっちに寄りすぎるとまた臭い水に落ちそうなので、まだぬるぬるのほうがましかとできるだけ右の壁に沿って歩いた。  追手の心配はもうないのだろうか。  しばらくこわごわ歩いていると、なんにも見えないと思っていたのが、まったく見えないわけではないことに気づいた。しかし、他のふたりのようにすたすた歩くことはまだできない。踏みしめている地面や自分の靴はやはり見えない。  見えるのは、自分の左手と、その中にある細い手が作るぼんやり白い塊だけだった。それも、じっと見つめると見えなくなってしまう。ほんの少し視線をずらすと、視界の隅に薄く白く浮かび上がる。  濡れて重くまとわりつく自分のマウンテンパーカはまるで見えず、手首から先だけが宙に浮かんで道案内をしてくれているようで気味が悪かった。  体の震えは止まっていた。  触れているのは掌だけなのに、ずいぶん温かい。  この女の子が、と勝手に女の子に決めてしまっているがたぶんそうだろう。あんな声のおばさんがいたら気持悪い。いや、いるなときどき。  ちょっと悩んだがやはり女の子だと思うことにした。そのほうが幸せだ。  この女の子が、溺れて死にかけているぼくを助けてくれたのだろうか。  ほとんど覚えていないが、誰かの息が肺を押し広げてくれたような気がする。錯覚かもしれない。マッサージのようなことだけで、呼吸を回復したかもしれない。  一番望ましいのは、この子が美人で、そしてこの子が息を吹き込んでくれたという考えだ。よし、それでいこう。  とにかく、一番楽しいことを考えていよう。他のことはあんまり考えないほうがいいからなと思いながら中間、最悪へと一気に考えが走った。  ただ単に女の子が死にかけている幸平の胸を押すなどして助けてくれただけかも。いや息を吹き込んでくれたけどとんでもなく不細工なのでは、いや助けてくれたのは乱暴な少尉で。いいやいやこれはもう思っただけで背中の毛が逆立ってしまうけどもしかして乱暴な少尉がマウス・トゥ・マウスで。  ぶるっと震えて、その考えを捨てた。  きっと美人の方だ。そうでなくてはやっていけない。  ぎゅっ、と握る手に力が入ってしまった。 「なに?」  思いがけずきつい口調が返ってきた。歩くスピードが落ちる。 「え、いや」べ、べ、別にと声にならない。  もう返事は返ってこず、ふたたび沈黙の中、手が引かれた。  あんまりやさしい性格の女の子ではないようだ。  まもなく目的地に着いた。らしい。止まったものの、やっぱりなんにも見えない。 「ここよ」と、女の子は振り返って言った。見えないが、振り返ったのはわかった。 「なにが?」なにがここなのか、と幸平は訊き返したのだったが、女の子はもともと幸平に言ったのではなく、後ろの少尉に言ったのだった。 「確かか?」と、少尉。 「まちがいないわ。まかせておいて」  つないでいた手が離れた。  あたりまえのことなのだが、その動作にはなんの愛情も未練もなかった。  完全に幸平は無視されていた。  感じ悪いな、と腹が立ったが、それより自分はこれからどうなるのだろうという不安が大きい。寒くて不安でたいへんだ。  いったいここはどこなのだ。  どん、とでかくて臭いのがぶつかってきた。 「じゃまだ」なんという言いぐさか。自分がぶつかってきたんじゃないか。  真っ暗で見えないのを幸い、幸平は思いきりいやな顔をして少尉のいるらしい方向を睨んでやった。 「なによ」 「え」幸平の睨んだ先には女の子の方がいたようだった。 「なんて顔しやがる」と、全然別の方向から少尉の声。  やっぱりこのふたりは暗闇でもものが見えるのだ。  金属の擦れる音がして上空から明かりがさした。  少尉が壁の梯子を上がり、頭上にあったマンホールの蓋を開けたのだ。  青白い薄明かりの中に浮かび上がった光景に、幸平はちょっとばかりぼうっとしてしまった。  無数の光の粒が空から降ってくる。  そしてその透明な光に包まれているのは、微かな笑みを空に向けて輝く華奢で綺麗な女の子だ。実際にそこに立っているのか、寒さで思考の麻痺した幸平には女の子がいるように見えているだけなのか判然としないほど、その姿はおぼろげだった。現実のことと思うには、あまりにも美しかった。  この美しい女の子は、どこからやってきたのだろうかと幸平は考えた。今まで手をつないでくれていたのは、絶対にこの子ではない。ああいう喋り方の女がこんなに綺麗で可憐なはずがあっていいわけはないのである。  頭上のマンホールの蓋が開いたとき、上から降りてきたのか、それともおそらくちがうとは思うがこの下水に住んでいるのか。  幻のように儚《はかな》い美しさで微笑んでいたその少女は、しかし突然幸平の方を振り返ると、一気に表情を豹変させた。眉根を寄せて口を尖らせて、 「なにぼうっとしてるの」きびしい口調ではなかったものの、幸平は面食らった。天使だと思ってあこがれていたら、実は口うるさいおばはんだったと知れたようなものだ。「早く上がりなさいよ」 「あ」やっぱり、さっきからいっしょだったあの女か。  ぱっ、と瞬間的に幸平は考えを改めた。  うん、まあなんというか、ちょっとくらい性格がきついのは許せるかな。許せるゆるせるきっと本当は優しいにちがいない。頭もかしこい。 「ちょっと」女の子はまた表情を変えた。「あなただいじょうぶ?」幼い子供のような眼で幸平を見ている。心配しているらしい。 「ああ、はい」 「そう?」と、さらに心配そうにするのでまだもっといたわってくれて優しいこと言ってくれるのかと期待していると「じゃ、早く上がって」とあっさり。 「はあ」言われるまま、梯子状に上まで続いている手すりのひとつに手をかけたものの、自分の体からぽたぽたと雫《しずく》が垂れていることに幸平は気づいた。「先に上がりなよ。ほらぼく、びしょびしょだから」 「うん。いいの。いいから先に上がって」まっすぐ幸平の眼を見つめながら、早口にそう言った。 「でも濡れるよ。下にいると」頑固な女め、と幸平はちょっとむっとした。 「いいの」うんうんうん、と小さく頷いて少しだけ笑ってみせる。「ほらほら」早くはやく。  なんだか納得がいかないので、なんと言い返そうかとしばらく幸平が悩んでいると、今まで微笑んでいたくせにいきなりまた恐い顔になり、 「下から見られたくないのよ。わかんない人ね」と、小声で強くそう言った。  あっと思ったが、見ればスカートではなくてジーンズをはいている。 「ズボンなのに」と、なおもむっとして幸平は言った。言ってから、言わないほうがよかったかなと思ったが遅かった。  なにかまた言い返してくるぞと幸平が身構えていると、女の子はどういうわけか眼をぱちぱちと何度か瞬いて、どぎまぎしたようすをみせた。  ちょっとまて。こいつ、泣きそうだ。 「あ、はい。登るのぼる先にのぼる」驚いた幸平は飛び上がるような勢いで、いっきにしゃかしゃか梯子を登り切った。  なんなんだあの女。  外の空気が、すがすがしくて気持いい。でも風は痛いほど冷たい。  波が打ち寄せる音がどこかでしているが、まわりの状況を確かめる余裕は幸平にはなかった。たった今出てきたばかりのマンホールをただぼんやりと見ていた。  ちょっと間をおいて、マンホールの穴から顔をのぞかせた女の子は、ぼさっと立っている幸平にちらりと視線を向けてから、ふん、と顔をそむけるということをした。後ろで束ねた髪の毛が、音をたてて小さな背中に当たる。 「なんだなんだ。喧嘩でもしたのか」アスファルトの上へ這い上がろうとする女の子に手を貸しながら、ごつい少尉が囁くように言った。女の子と並ぶと、この男の大きさは化け物じみて見える。つけくわえておくと、幸平が出るときは手を貸してくれたりはまったくしなかった。ただ、無表情に眺めていただけである。 「べっつに」路上に立つと、女の子はそう吐き捨ててジーンズとダウンジャケットについた埃を払った。  いきなり綺麗な女の子に嫌われてしまった。幸平はショックを受け、腹を立て、なんだこの女いったいどういう性格なんだと、自分の方から嫌ってやろうと睨みつけたところが、反対に鼻に皺を寄せた顔を向けられ、 「いー」と、歯を剥いて唸られた。  妙な感じだったが幸平はそのとき、くっきり浮き出た女の子の顎の骨を可愛いと思った。小さく尖った顎だった。  たぶん幸平は笑ったのだろう。 「なによ」と、女の子は憮然として幸平を見た。 「いや」とっさに言うことがなく、苦しまぎれに「あの、さっきはありがとう。溺れて、死にかけてたのを助けてくれて」 「え」怒りの表情は、またしても突然に穏やかな顔に変わった。そして、女の子は平然と恐ろしいことを口にしたのだった。「応急処置をしたのは、あの人よ」と、マンホールの蓋を閉めようと道に屈み込んでいる大男に、くいっと親指を向けた。  今度は幸平の表情が急変した。思いっきり不味《まず》いものを噛んでしまったような顔になった。 「もしかしてその、人工呼吸というか、あの?」と、言いにくそうに幸平はいやな顔のまま自分の唇をつんつんと触る。 「そうそうそう」幸平の表情につられていっしょに顔をしかめながらも、頷く女の子はとても嬉しそうだった。 「なんだそのいやそうな顔は」と、薄汚い少尉。腕組みをしてふんぞりかえると、幸平を睨みつける。この人も嬉しそうである。 「ええーっ」思わず幸平は低く叫んでしまった。さして大声というほどではなかったが、しんと静まり返った街に響きわたった。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_059.jpg)入る] 「このばかっ」少尉が鋭く叫んだ。  とんでもないことをしたらしい、というのは幸平にもわかった。大きな音をたててはいけなかったのだ。今気づいたが、さっきからふたりとも小声で話していたではないか。  あまり離れていないどこかで、靴底が地面を擦る音がした。  どん、と少尉の大きな腕が背中にぶちあたり、幸平は前につんのめる。情緒不安定な乱暴少尉が、怒りとともに襲いかかってきたのかと思ったが、次の瞬間には体が浮いていた。  少尉の小脇に抱えられたのだった。  幸平を左手に、女の子を右手に抱えて少尉は走った。  人間ふたり運んでいるのにすごいスピードだ。こいつは本当は、やっぱり人間じゃないんじゃないかなあ。  少尉の足が地面を蹴るたびにがくがくと幸平の首が揺れる。  唖然とした顔を、すぐ隣で揺れている女の子に向けると、向こうも同じようにがくがくと首を揺らしながら少尉のお腹ごしに幸平の方を見つめていた。幸平の視線を捕らえた女の子は、待ってましたと言わんばかりに、そしてさっきの少尉の口調をそっくり真似て、 「このばかっ」と言った。 [#改ページ]    My Funny Valentine  さきほどの大乱闘の店より少し南へ行ったところに、古い石造りの建物を改造した酒場がある。港へ続く煉瓦敷きの路に面した入口からは、しわがれた低い歌声とピアノの音色が落ち着いた喧騒とともに洩れ聞こえている。路に点々と灯るガス灯の他に明かりはなく、たちこめる霧のせいで輪郭を失った光に色彩はない。  分厚い木の看板がモノクロームの光の奥に沈んでいる。 『鷹弦』と、そこには書かれていた。  店の中は外から想像するよりずっと明るく、かなり広い。適当に置かれたように見えるテーブルとテーブルの間隔は広すぎず邪魔にならず、微妙なバランスを保っている。和風ではないが、異国の雰囲気というわけでもない。妙にあたたかな、落ち着いた上品な雰囲気がうまく演出されていて、一見質素だが年代を感じさせる木のテーブルを前に人々は酒を飲み、会話し、ときに歌う。  しかし今は、静かなバラードが流れていて、歌っているのはピアニストの老人だけである。どう見てもきちんとした奏法など習っていないことが明らかないいかげんな弾き方をしているが、そのいいかげんさが、かえって音楽を美しくしているようだった。歌の方も、歌っているのか喋っているのか判断のつきにくい歌い方なのに、永年使用してくたくたになった革のような味があった。ここにもバンドはあり、思いついたらいつでもやめる、その気になったらいつまでも続くという勝手な老人の歌に、やわらかいハーモニーをうまく重ねている。テクニックとしてすぐれているところがあるとすれば、その絶妙な息の合い方くらいなものだろうプロのプレイヤーとしては、およそほとんどのメンバーがとんでもないへたくそだった。  ただ、できあがる音楽はなかなかのもので、これは大久保町の酒場ならたいていのところがこうした雰囲気を持っている。  ピアノの近くのテーブルをわざわざ指定し、 「大久保町の酒場には、独特の音楽があるよね」と、老人の歌声に注意を向けている人もいるくらいである。こういう人はたいてい「ちょうど、かつて黒人がニューオルリンズで……」とか言うのでちょっとうっとうしい。ニューオリンズ、ではなくてニューオルリンズと言うあたりがうっとうしい。こういう人の連れというのがまたたいてい「たとえばほら、バルトークには独特の音階構成があるわけでさ……」などと言うので殴ろうかと思う。  隣のテーブルの粗暴そうなふたり組が、このインテリ臭い華奢なグループを睨んでいるので、たぶんこの人たちはあとで殴られる。  ぼくのために髪の毛一本変える必要はないんだよ。甘い歌を歌う老人の頭に髪の毛は一本もなかった。  歌に聞き入っている人もいることはいるが、やはりあちこちのテーブルでは船はいつ来るのか、どうやってここから抜け出すかという話が交わされている。  別にこの町がきらいだというわけではないのだが、ここに一生住もうと考えている人間はあまりいなかった。大久保町からどこかへ行くということは、大久保町以前の過去をきれいさっぱり洗い流せるということに等しい。つまり、犯罪やらその他いろんなやましいこと後ろ暗いこと人に知られたくないことつつかれたくないこと、たとえば、中学のとき吹奏楽部にいたとか、高校のとき吹奏楽部にいたとか、大学で吹奏楽部にいたとかいうようなことを、なかったことにできてしまうのである。大久保町からよそへ行くときには別の人間として別の人生を歩くことができる。みんなそれを望んでここへやってくるわけで、そういうことを望むくらいだから、当然みんなまともな人間ではないのだった。  この町の住みごこちも決して悪くはないが、ずっとここにいろと言われるといやちょっとそれはと誰もが思う。やっぱり出ていきたいのである。大久保町で暮らすというのは、ある日突然恋人が逃げてしまったので寂しくなり、前からなんとなく愛想のよかった顔は可愛いけど「もっと痩せたい」と「またハワイに行きたい」しか言わない大阪の女子大生とぼんやり電話で話したり、食事したり、映画を観たり、  そう。  というようなもので、このままずるずる続くと大変困る。困るのに、お父さんがねあなたのことどんな人か知りたいから一度家に連れてこいって言うのよ前から言おうと思ってたんだけどぼくは君にはふさわしくないと思うんだ。  大久保町はそういう場所なのである。ちょっとわかりにくいけどそういうことだ。  過去を捨て去ってもなお未来に希望を見いだせない不幸だけが、この街に溜まっていく。 「もういいのよ、どうなったって」  カウンターに寄りかかり、泣きながらグラスを傾ける女がいる。  もう一杯と言われ、どうしていいかバーテンは迷った。どう考えたってこれ以上の酒は苦痛に変わるだけだ。美しい女が崩れる姿は、美しいがゆえにあまりにも悲惨だ。  このバーテンは趣味で詩を書く西畑《にしはた》という男である。口髭のせいで、若いのか老けているのかわかりにくい。 「もうおやめになったほうが」  バーテンの声に、仕事を越えた思いやりを感じた女はさらに泣いてしまい、ついに大声を出しはじめた。 「なによ。あたしのことなんてどうでもいいくせに」うわーっと泣いて「あんたが飲むわけじゃないんだから、あたしの知ったことじゃないでしょ?」なんとなくわかる気もするが、わからないことを言う。 「美しい人を心の苦痛から救いだすためならば鬼となり、涙を呑んで残酷な行いもいたしましょう」 「えっ、どういうこと?」急に泣きやんで真顔になった。間の悪いことに、ずっと流れていた音楽も突然に消えた。西畑は困って、 「いやあの」  突然、女の手からグラスがもぎ取られた。 「もういいかげんにしておきなさい」  深みのあるおだやかな男の声に西畑と女が同時に振り向くと、すぐ横に立っていたのは裃《かみしも》をつけたちょんまげ頭の侍だったので、ふたりともぎょっとして動きを止めた。ジョッキでビールを飲んでいた侍も、急に注目されてきょとんと驚いている。 「あ、こっちこっち」  侍の斜め後ろからさっきの声がして、西畑と女がさらに少し首をめぐらせると、そこに長身の男が立って、小さく手を振っているのが見えた。  この店のオーナー、鷹野《たかの》弦司《げんじ》だった。  ツイードのジャケットに包まれた上半身に逞しさはあまり感じられないが、広い肩幅のせいか全体に尖った印象がある。顔だちも、端整と言ってよい程度には整っている。まっすぐ通った鼻梁《びりょう》から落ちくぼんだ眼窩《がんか》へかけての線が、その名のとおり猛禽類を想像させた。 「あ、店長」なんだ、と西畑がほっとしたように笑う。  鷹野の姿を認めたとたん、女ははっきりとわかるほど首筋を赤くした。 「ああ、これは失礼」自分がその場の部外者だということに気づいた侍が、カウンターから離れた。 「きっとチャンバラコントの人ですね」と、西畑が女に説明する。「隣のホテルでディナーショーをやってるんですよ」  チャンバラコントのディナーショーというのがいったいどのようなものなのかという、当然誰でも気になるようなことが女にはまったく気にならないようすで、 「ああそうなの」と、西畑の方は全然見なかった。鷹野の視線による動揺を隠そうとして、女は何度も唾を飲み込むように顎を動かしている。 「しかし、あの着物は裃と袴《はかま》の組み合わせがちぐはぐですよ。あの裃の紋様は江戸時代末期によく見られるものですけど、あれとあの袴との組み合わせはまずありえませんね」西畑はひとりだけで喋ってなんだか楽しそうである。 「くわしいのね」と、女は言いながら眼はやはり鷹野の方に向いたままだ。 「俺はそんな昔のことは知らない」鷹野が言った。 「じゃあ、二万年後の人類には羽が生えていると思う?」下から声がした。全員いっせいに下を向く。カウンター越しでよく見えないので、西畑など足が浮くほど身を乗りだしたところ、そこに誰が連れてきたのかスリーピースのスーツを着た五歳くらいの男の子がいて、真剣な顔で鷹野を見上げていた。 「そんな先の話、考えたこともないね」と、鷹野はきちんと答えてやってから「ここは子供の来るところじゃないぞ」  ちぇっしょうがないな、という風に肩をすくめて、男の子はさっさと立ち去った。 「じゃあ」と女がかすれた息を吐いた。酒の匂いと、それとは別の甘い香りが漂う。店内にはふたたびバラードが流れはじめていた。「今夜、これからのことは?」  鷹野は無表情に胸元の大きく開いた真っ赤なドレスを見つめた。  濃いめの化粧の下から、思いがけず幼い表情が見つめ返してくる。涙ぐんでいるのは酒のせいなのか。  こういう場面がめっぽう好きな西畑は、気の利いた台詞を言いたくて口髭をひくひくさせたが、鷹野に遠慮して黙っていることにしたようだった。 「好きになっちゃいけないのね」女が目を伏せた。 「好きになるのは勝手だが」鷹野は女の顎に軽く指をそえた。その指がなにもしなくても、小さな唇はかすかに開く。 「他の男が見えなくなるぜ」西畑が言った。拳銃の形を真似た指を女に向け、鼻まで歪めてウインクしている。  鷹野は、ほとんどくっつきそうだった顔を女から離し、怪訝《けげん》な顔で西畑を見た。女の方は瞳を潤ませたまま、鷹野とこのへんなバーテンとを交互に眺める。混乱している。  西畑は、なかなかよかったのではないかという自信と、余計なことをしたので叱られるのではないかという不安との入り混じった表情で、ひたすらグラスを磨きながらわくわくと鷹野の反応を待った。  鷹野は女に向き直り、小刻みに何度か頷いてから力強く言った。 「そう。それ」 「あなただけ見えれば、あたしはそれでいいの」女は眼を閉じた。  いえいっ、と軽いパンチを一発繰り出すようにして、西畑はひとり喜んでいる。 「あとを頼む」赤いドレスの女を抱きかかえるようにして、鷹野は西畑にウインクを返した。  さあこれからというとき、店の入口付近で騒ぎが発生した。  鋭く命令する声が聞こえ、音楽が途絶える。  武装した兵士が数名、金属的な足音とともになだれ込んできたのだった。 「お楽しみのところ申し訳ないが、調べたいことがある」兵士たちの後から悠然と入ってきた小男が言った。背は低いが頭が小さく均整のとれた体つきをしている。将校の軍服にアングロサクソン系の顔だちがよく似合っていた。  フロアの中心へと進むと、男は威厳に満ちた容姿からは想像しにくい妙に甲高い裏返った声を出した。「全員の身分証明書を確認する。ご協力願いたい」願いたい、などと言っているがこれは命令である。 「車の免許証でいいのかな」と、言った男の隣で別の男が「おれ免許ないんだけど健康保険証でもいいの?」へらへらと笑っている。口調には小柄で老齢にさしかかった将校を揶揄《やゆ》する調子が含まれていた。  将校は険しい顔をふたりに向けた。垂れ下がった瞼《まぶた》の下から、刺すような視線でふたりを睨みつける。  兵士たちの銃がかちゃかちゃと音をたて、軽口を叩いた男ふたりは顔色を失った。  酒場の空気が緊張した。 「それとあとパスポートなんかでもけっこう」将校がへんな声で言った。  なんだいいのか、と酔っぱらいたちが力を抜いた。 「ちょっと待っていただこう」将校とは対照的に、低く落ち着いた声が響いた。  鷹野だった。  つかつかと将校の前へと歩み寄ろうとした。ところが、赤いドレスの女がだめとかなんとか言いながらすばやく首筋にしがみついてきてひっぱったので、その手が顎にひっかかって後ろに倒れそうになる。 「ぐえ」  女は鷹野の体を支えて心配そうに、 「だいじょうぶ?」 「誰のせいだ」鷹野は低く呟いて体勢を立てなおし、女の手を慎重に首からはずす。 「いいからちょっと待っててね」 「なにか不都合がおありかな? 鷹野さん」将校は冷たい笑顔を鷹野に向けた。  鷹野はたちどころに落ち着きを取り戻して、ゆっくりと口を開いた。 「私の店で、勝手なふるまいはつつしんでもらいたい」鷹野は将校から少し距離を取った場所で立ち止まった。明らかに自分より身長の低い相手と対峙する場合、できるだけ近寄ってその差を相手に思い知らせることで立場を有利にしようとする方法があるが、長身の鷹野はそれを卑怯で情けないやり方だと考えていた。 「我々に逆らうのかね」将校はまだ笑顔を保っている。 「逆らいも従いもしないよ。パーカー少佐」鷹野はジャケットの内ポケットから煙草を取り出すと、口の端にくわえた。「私のやり方を通すだけだ」 「さっきの警報を君も聞いただろう?」 「知らんね」 「そんなはずはない。あれだけの騒ぎは久しぶりだ。地雷原を突き破って侵入した者がいるんだよ」パーカー少佐の顔から笑顔が消えていた。 「侵入した?」オイルライターで、煙草に火を点けながら鷹野が眉を上げて少佐を見た。「逃げだしたんじゃなくて、入ってきたっていうのか?」 「そういうことだ」  大久保町への出入りは厳重に管理されているが、入ってくるのに特に問題はない。名前と顔写真の登録など複雑な手続きはあるが、入るのを拒まれることはまずないと言っていい。ややこしいのは出るときである。よほどの理由がない限り、ここから出ることはできないようになっているのだ。そして、そのよほどの理由とはいったいどういう理由なのかということは、誰も知らないのだった。将校たちでさえ。 「なんでそんなじゃまくさいことを」 「君にはわかっていると思っていたがね」少佐は鷹野の表情に動揺を求めて、射るような眼でその顔を見つめている。「このあたりで、それらしい人物を見かけたという報告が入っている」 「さっぱりわからんね」鷹野は煙の筋を透かして、パーカー少佐の視線を真っ向から捕らえていた。 「何らかの組織が、ベテランの破壊工作員を呼んだのではないかと私は睨んでいる」 「私には関係ない。兵隊を連れて、早く帰ってくれ」  ふたりはしばらく睨み合っていた。  先に目をそらしたのはパーカー少佐だった。 「ここは関係ないらしい」部下たちに言った。「他を探す。外で待機しろ」  兵士たちは無言のまま、機械的に敬礼をするとがたがたとブーツを鳴らして店から出ていった。 「客として来ていただけるのなら、いつでも歓迎しますよ。少佐」鷹野が微笑んだ。煙草を少佐にすすめる。  その笑みにパーカー少佐はほんの一瞬表情を輝かせたが、すぐに顔を歪めて取り繕った。 「君が、ただの商売人だなどとは誰も思っていない」鷹野に火を点けてもらいながら、少佐は言った。「そのうち尻尾を掴んでやる」 「私はただの商売人ですよ」 「そう卑下するものではない。そんな深い眼をした『ただの商売人』がいるものか」パーカー少佐はうまそうに煙を吐いた。「銭勘定をするだけの男にそんな眼はできない」  鷹野は黙っている。 「味方だったら心強い。敵として戦うのもおもしろい」パーカー少佐は店に来て初めて、ちゃんとした笑顔を見せた。「君はそういう男だ」 「そんな大したもんじゃありません」  パーカー少佐はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと首を横に振ると鷹野に背を向けた。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_073.jpg)入る]  少佐の背中が出口から消えると同時に、店内の緊張が解けていく。 「太田《おおた》じいさん」鷹野はピアニストの老人に声をかけた。「にぎやかなのをやってくれ」 「はいよ」と、きんきんした声で答えるや老人はすさまじい勢いで鍵盤を連打しはじめた。この声が、歌となるとときには深く朗々と、ときには細く切なく自在に人の心を打つのである。  店内はすぐに元の活気を取り戻した。  鷹野は赤いドレスの女のところへ戻ると、その細い腰に手をまわした。 「さあ、行こうかな。あんまりゆっくりしてられないんだ」今まで、ナチスの将校と睨み合っていたくせに、まるで屈託のない顔で女に笑いかけている。  女はこれ以上の幸せはないといった表情で、ただ鷹野の顔をうっとりと見つめつづけるだけ。  カウンターの奥の西畑が親指を立て、鷹野に派手なウインクをした。  ふたたびさあこれからというとき、店の奥から出てきたウェイターのひとりが鷹野の姿を見つけて足早に近づいてきた。ウェイターの顔にはただならぬ表情が浮かんでいる。 「鷹野さん実は」ウェイターが鷹野の耳元でなにごとかを囁くと、たちまち鷹野は泣きそうな顔になった。 「さあこれから、というところだったのになあ」女に悲しげな微笑みを向け「ごめんよ、今夜はいっしょにいられない」頬に軽くキスをすると、見事に簡単に女を離した。その仕種《しぐさ》にはなんの未練もなかった。  くるりと背を向け歩み去ろうとする。 「なによ嘘つき」ほろほろと、女は泣きだしていた。 「嘘つきは嫌いかい?」鷹野は返事を聞かずに、そのまま奥へと消えた。 「きらいよ」独り言のように、女は呟いて下を向いた。 「美しい人の涙はそれだけで充分に美しいものですが」ふたりのやりとりをうきうきしながら見守っていた西畑が、ついにこらえきれずに口を出した。「その瞳の奥に愛する喜びという泉を持った涙は、いっそう美しく輝くものです」 「えっ、どういうこと?」もう泣いてなかった。 [#改ページ]    Don't Explain  合格祝いに買ってもらったカシオの腕時計を見ると、九時をまわっていた。  今からあわてて玉津とかいうところへ戻ったとしても、たぶん十時を過ぎてしまう。今日中に来ればいいよ、と向こうのおじさんは電話で言っていたけど、今日中というのが十二時までというような科学的な意味でないことくらいはわかる。仕事は一応五時半までと言ってたから、そのくらいに着くのが一番常識的だったと思う。家を出たのがだいたいもうなんというべきか四時過ぎで、考えるまでもなくすでにその時点で五時半に工場、というのはとっくに不可能なのだった。わかっていたのだが、あやふやな時間設定をされると、まだいいまだいけるとどんどん甘えて最終的に恐ろしく遅くなってしまって土壇場であわてふためくというのが、幸平のいつものパターンだった。たいてい誰でもそうだと思いたいところだが、中には毎年夏休みの宿題を七月中におおかたやってしまう、というとんでもない女の子がいたりするので困る。不細工とか男とかがそういうことをしてもへんなやつだなあいやだなあ、でほっとけるのだが、これが可愛くて優しい子だったりしてどうにもやられっぱなしでますます困る。声をかけていいものかどうか。  いやそんなことより。  壁の向こうから、ピアノの音が聞こえてくる。  歌声と人の話し声も、微かに聞こえる。  ここはレストランの物置かなにからしい。物置とは言ってもちゃんと暮らせる程度の設備はある。半分地下室みたいなもので、天井近くに開いている小さな窓が、地面すれすれのところにある。しかも明かりがちょっと暗いので、隠れ家、とか、アジト、という雰囲気だ。ひとりでじっとしているのに適した場所とは言いがたい。  もう一度時計を見たが、時間はほとんど進んでいなかった。  家を出たときと変わっていないのは、この時計だけだなあと考えて切なくなった。  服も全部借り物を着ているのだ。パンツを穿かずにいきなり綿のズボンを穿いているのですうすうして気持悪いが、それを除けばTシャツにダンガリーシャツ、フィッシャーマンズセーターと、だいたい幸平の趣味には合っているので問題はない。靴も濡れてしまったのでこれも借り物のスリッパを履いているのだが、それも別にいい。  気になるのは、スリッパ以外が全部女の子の服だということで、これはたいへん落ち着かない。  女の子用の服というわけではない。ちゃんと男物である。  けれど持ち主が、さっきのつんけん女なのだ。  不思議なものでちゃんと洗濯してあっただろうに、ほんの少しではあるけれど女性的な匂いがする。特にセーターは、そんな気がする。  ゆっくりと息を吸うと、暖かい空気とともに清潔な香りが全身を包む。  それはそれで、けっこう幸せな気分だった。  今、一番幸せに思うのは、セーターの香りと肌触り。ちょっとあぶない気持かなとも思うが、そんな小さな幸せにでもすがりついていないと心細くてしょうがない。  低い天井に直接取り付けられている電球が、じじ、と音をたてた。  電球のまわりには蜘蛛の巣が絡まっていて、小さな黒い虫がいくつもくっついて死んでいるのがちょっと恐い。天井は壁と同じくコンクリート剥き出しで、ところどころに見えるひび割れば、昼間ならあまり気にならないのだろうが、今は電球の光のせいでくっきりと影になっている。  すべての物がなんとなく懐かしいような物悲しいような色に見えた。高いところにひとつだけ灯っている電球では、部屋の隅まで光が届かない。いろんな物が置いてあるようだが、見えるのは古い食器棚と埃をかぶった木のテーブルと椅子。奥の方には籐で編んだ箱やブリキの箱が積んであって、それからどっしりとした石臼《いしうす》と杵《きね》もある。正月に使ったばかりらしく、臼と杵はほとんど埃をかぶっていない。  いやあしかし、困ったことになった。  昨日、家でのんびりと昼間からごろごろビデオを観ていたことが、泣きたくなるくらい懐かしい。卒業式までずーっと休みで、卒業式がすんだら今度は大学の入学式までまたずーっと休みなのだ。宿題もない。アルバイトなんか考えずに、もっとぬるま湯のような生活を続けておけばよかったのだ。失敗した。まちがえた。もう死んだも同じだ。  いかんいかん。気を抜くと、不安と恐ろしさでがくがくっと気分が沈み込む。  たいていの不幸は、自分で思うほどひどくはないのだと眼医者のじじいは言った。  子供の頃、父親に釣りに連れていってもらい、魚を触った手で眼をこすったせいで鱗が眼に入り、両眼ともぶくぶくに腫れ上がったことがある。そのとき行った眼医者のじいさんが、うちひしがれている幸平に向かって嬉しそうにそう言ったのであるが、たしかに不幸のどん底だと感じていたのは幸平本人だけで、ただ腫れているだけだから放っておけばすぐに治ると聞いたまわりの人々は、家族も含めて幸平の顔を見るたびげらげら笑っていたし、山下さんのおばさんなんかわざわざ見せてくれとやってきて、二十五分くらいのたうちまわって笑っていた。  みんな楽しそうだったので、結局幸平もなんとなく嬉しくなってしまったのだった。  そういうものだ。  とにかく、アルバイトに行くのは無理なようだ。それだけははっきりしている。  これは嬉しいことだ。  すっぽかしてしまって悪い気はするものの「住み込みで金属の防錆加工」などという恐ろしげな仕事はもうしなくていい。どういうことをするのかは全然知らされていなかったので「ちょっと力仕事」という向こうの説明から、足に鉛の球引きずり笞《むち》で叩かれながらの仕事だったらどうしようとおびえたりしていたのである。よかったよかった。これは嬉しい。まちがいなく嬉しい。  まだある。  シャワーを貸してもらって、つっけんどんではあったが恐ろしく綺麗な女の子が服まで貸してくれたのも、なかなか嬉しい。あれだけ可愛い女の子を見ることができた、というだけでも充分に嬉しい。  それに物置とはいえ、ちゃんと暖かい場所にいられるのも、ついさきほどまでの大冒険から比べると天国のような気分である。  なるほどそんなにひどくもない。なんとかちょっと幸せになれた。  でもちょっと待ってみよう。  いいことばかり考えてちょっとでも気分を嬉しくしようと努力し、かなりひどい状況の中でもへらへら笑っていられる幸平の性格を母親を含むほとんどの方々は「ちょっと馬鹿」だと思うらしい。  思うだけではなく、しょっちゅう口に出して知らせてくれるのでいやというほど知っているのだが、言われてもあまり気にしないからそれはそれでいい。ところがいま、ここへきてついに自分の性格に疑問を持った。はい、ぼくは本当にちょっと馬鹿かもしれない。  だってあなた考えてごらんなさい。  買ったばかりの車は壊れてどこにあるのかわからない。頭を打った。首も痛い。殴られて鼻も痛い。溺れそうになった。おっさんが落ちてきた。臭くなった。おっさんに口移しの人工呼吸なんかをやられた。寒かった。女の子に嫌われた。おっさんに持ち運ばれた。おっさんは足音をたてずに走ることができるのでふたりを抱えて走ったのだそうだが、なぜ足音をたててはいけなかったかというと、ナチスの兵隊が近くにいたかららしい。  この街はナチス占領下にあるらしい。 「独裁村落」なのらしい。  井上《いのうえ》という人が総統なので「イノウエ・ナチス」というらしい。  ナチス。  チフスではなかった。  あんまり嘘みたいな話なので、かえってすぐに信じてしまった。ナチスの制服を着た兵隊さんもたくさん見たし、銃を持ったその人たちに追いかけられたのも事実だからである。  それにここがナチスに占領されていようと猿に支配されていようと、しょせんはよその話である。関係ないからどうでもいい。勝手に占領されてなさいと思った。  問題は、そこから先である。  シャワーやら着替えなんか、どうでもいいからとにかく帰りたいので、タクシーなり電車なり、どうやったら神戸方面へ戻れるんでしょうかと訊ねた幸平に、例の乱暴なおっさんは心底驚いたように言ったのだった。 「ばかかおまえ、ここから出られるわけないじゃないか」  横にいた女の子までがこの人ほんとうの馬鹿なのねと実にはっきりとそうわかる顔をしたので、その異常な言葉に幸平は藻然とした。  最初彼らは、幸平がなにもかも知っているくせに用心してとぼけているのだと思っていたらしく、何度もなんども、しつこくしつこく、我々は味方だから安心していいと言っていたのだが、そのへんで幸平の間抜けさがどうやら本物だということに気づいたみたいで、 「特殊工作員じゃなかったんだ。ただの子供だったんだ。半年も潜入して待っていたのに、ただの子供を連れてきてしまった。損した。ものすごく損した」  特殊工作員と子供のちがいくらい見たらすぐわかるだろうにおっさんは、自分がとんでもないまちがいをしてしまったと頭を抱えて落ち込んでしまうし、 「でも、この子あんな無茶したんだからぜったい無事ではすまないわ」  綺麗だがつんけんしている女の子は、わざと幸平が恐がるような言い方をしてから一瞬ものすごく同情に満ちた眼で幸平を見た上に、しばらくほんの少しだが優しくしてくれさえした。  こういう場合、優しくされると自分の立場がはっきりしてしまってよけいに恐いものである。ただの胃潰瘍《いかいよう》だと言われたのに、会う人会う人、どうしてみーんな眼が潤んでいるんだよう、というようなものだ。  ひょっとすると、というかおそらく絶対まちがいないと思うがあの女の子はそういうことを見越して、わざと優しく悲しげに振る舞ったのではないか。だってバスルームに案内してくれたあと、ぼそっと呟いた。 「なんにも知らないのに、殺されちゃうのね」  うあーっ。  今や幸せな気分はきれいさっぱり吹っ飛んでしまった。こんな中で、ちょっとでも幸せだと思ったぼくはやっぱりかなり馬鹿かもなあ。  ちょっと涙ぐんで、はあはあと息が荒くなってきたとき、奥の扉がノックされた。  銃を持った殺し屋かもしれないと思って全身が強張ったが、だからといってなにか対処する方法を知っているかというとなんにも知らない。  ゆっくりと扉が開いた。  開いた扉から顔を覗かせたのはさっきの陰険女だった。幸平と目が合うと、いたのなら返事くらいしなさいよ、とはっきりわかる意地悪な顔をした。  かまわない。たとえ意地悪でも一応味方。顔を見てほっとして、安心感のあまり愛情さえ抱く。  着替えたらしい。今度もジーンズだが、今度のは体にぴったりしていて幸平はどきっとした。ぼんやり見つめた。 「おなか、すいてるでしょ?」驚いたことに微笑んだ。「いっしょに食べよ」  両手で持った銀色のトレイの上には、ほかほかと湯気をあげる料理が載っている。  どう対処していいのかわからずぼやっとしている幸平の前のテーブルに、シチューとパンと、それからたぶんソーセージだとは思うがなんだか見たことのないようなものが並べられていく。  料理も嬉しかったが、幸平はその美しい笑顔に見とれて恐怖を忘れた。  たちどころに幸せだ。 「ありがとう」 「ねえ」がつがつと食べはじめた幸平に女の子が言った。「おいしい?」 「うん。すごくおいしい」もう口許はほころびっぱなしでにこにこと、ほとんど一気に恋に落ちそうになる。  美しいものは、存在するだけで人を幸せにするんだなあなどと考えて、すでに幸平にはなんの悩みもない。  甘かった。 「よかった」女の子は冷酷ににっこり笑って「生涯最後の食事かもしれないものね」 「う」喉がつまる。どうしてこの子は、ぼくをいじめるんだろう。  幸平は泣きたくなったが、ぐっとこらえて反撃に出ることにした。そして、そんなことを考える自分に驚いていた。やるじゃないか。 「でも、死ぬ前に君みたいに」声が震えないようにするのに必死である。「綺麗な子に会えてよかった」  ちょっとくらいは動揺するかと期待したが、女の子はにっこり笑ったまま平然としていた。 「ほんと、よかったね」うんうんうん、とちぎったパンを口に放り込んだだけ。「あたし鮎《あゆ》っていうの。坂元《さかもと》鮎。あなた名前は?」  どうしてこう、人のいやがることを次々に思いつくのだろうかなあこの女は。  堀田幸平、という名を聞いても鮎は嬉しそうな顔もしなければ笑いもしなかった。ただひとこと。 「へんなの」  名前についての話は、それで終わった。  それからしばらく、幸平は黙って食べるだけになったのだが、それは非常に腹が減っていたからとか、自分の名前をへんなののひとことで片づけられてしまって気を悪くしたとかということではなかった。  この鮎という女の子は、意地悪なだけではなくてちょっと変だったのだ。  いろいろと気になっていることを訊こうとしてまず、 「どうして下水のところにいたの?」と訊いたところが、返ってきたのが、 「待ってたのよ」で、どうして待っていたのかと訊き返す前に「そういう手はずになってたの」どういうことかわからないので、あの乱暴な大男は何者で潜入が半年とかなんとか言ってたけどそれはどういうことなんだろう、と言いたかったのにいきなり「まあその話はいいじゃない」と打ち切られた。  そこから先は、単語を口にすることさえできなかった。  またなにか言おうとする前に鮎は勝手に話しはじめ、話がひとつの話題からとんでもない話題へとばんばん飛んだのである。ちょっとのんびりしたところのある幸平がついていけるレベルでは到底なかった。  話を聞きながらとりあえず感想を述べようと思って言葉の途切れるのを待っていると、いつのまにか全然関係ない話になっている。そこでまた別のことを考えるのだが、気がつくと今度もまったく関係ないところへ行ってしまっていて、せっかく考えたことを話す機会は永久に失われる、そういうくりかえし。幸平は、あ、とか、お、という不明瞭な声を、口をもぐもぐさせながら発するだけが精一杯だった。 「あの下水の奥には、へんな生き物がいるんだって。ほら狼男っているでしょう。あれは満月の夜に狼に変身しちゃう人間なのよ。そういうのの仲間らしいんだけど、あの下水にはね、ネズミドブネズミがいるんだって。わからないでしょ。満月の夜にだけ普通の鼠に変身するドブネズミなの。だけど、変身してもそう変わらないから、誰にもわからないのよ」  なんじゃそりゃ、と思っていると、満月の夜には羊になってしまうが普段は山羊《やぎ》の「羊山羊」がいるかもしれないと言ったそのまんまの続きで、キツネザルはそういうのとちがうのだと教えてくれた。  幸平はそのときウニクラゲというのがいたらそのまま食えて便利などと考えていたのだが当然話す機会はない。 「キツネザルはね、あれはそういう動物がいるの。満月になると狐になっちゃう猿なんかいないのよ。ほら哺乳類爬虫類」  そこまで言って鮎はパンをもぐもぐとやりはじめたので言葉を切った。続きはすぐ話すからちょっと待ってね、という眼で幸平を見つめている。なんでそういうことまでわかるのかというのは今は問題ではないのである。とにかく幸平は黙っているしかなかった。哺乳類爬虫類という言葉がものすごく気になった。  哺乳類爬虫類というと満月に哺乳類になる爬虫類だろうか。それはなんだかものすごく気色悪そう、とどきどきしているうちに、パンをごくんと呑み込んだ鮎の話は勝手に続く。 「哺乳類とか、イヌ科とかネコ科って言うでしょ? キツネザルってキツネ科かサル科かどっちだろうって思わない?」  思わない、と言う余裕はなかった。特に早口で喋るわけではないのだが、なんとなく口を挟みにくいのだ。表情が目まぐるしく変化するので、つい見とれてしまうせいかもしれない。 「あれね、どっちだろうって思ってあたし調べたのよ。そしたらキツネザル科なんだって。ひどい話でしょう」よくわからないがここで話はどかーんと飛ぶ。「このパンあたしが焼いたのよ」パンの話になるのかと思っていると「そのセーターもあたしが編んだの。普通は男の人が編むんだってねフィッシャーマンズセーターって」セーターでいくのかな、と先を読むのだが、鮎はさっき幸平も見つけた石臼と杵をちらりと見て「お正月にね、お餅つきしたんだけど」  ふたりとも食事は終わり、鮎の話だけが際限なく続くかと思って幸平が覚悟を決めた頃、扉をノックする音が聞こえた。 「はーい」と、こんな可愛らしい声も出せるのかと幸平がつい微笑んでしまったくらい愛想のいい声だった。  入ってきたのは例の乱暴大男と、それから初めて見るふたりの男だった。ひとりは蝶ネクタイを締めている。どうやらウェイターかなにからしいが、その頬には大きな傷があった。  そしてもうひとりはツイードのジャケットを着た肩幅の広い男で、この男が一番年嵩に見えた。とはいえ幸平には大人の年齢はよくわからない。全員、三十代前半から四十歳くらいの雰囲気であるが、もしかすると全然ちがうのかもしれない。  肩幅の広い男は入ってくるなり、なにかを思い出そうとでもしているかのような眼で幸平をじっと見つめた。他のふたりも幸平を見ていたのだが、幸平はその男の視線だけがどういうわけか気になった。眼をそらすことができなかった。  優しいのか厳しいのか。笑えば魅力的だろうし、怒ればなにをしでかすかわからないと思わせる顔だ。  先に視線を外したのはその男の方だった。  ちらりと鮎を見た。  そしてまたちらりと幸平を見てから鮎に視線を戻し、男の幸平でさえどきりとするほどの、優しさにあふれた微笑みを浮かべた。  すると鮎は急に居住まいを正してこれまたにっこりと笑い、ちょっと恥ずかしそうに下を向いてもじもじした。顔が赤い。耳の先まで赤い。  その仕種は今までののどちんこ見せてわっはっはと笑う陽気で意地悪な下町娘、というイメージとはまったく違っていて、なんだか育ちがよくて気が弱いのだがしっかりしているところもあるいいとこのお嬢様が、大好きな先生に褒められて嬉しいんだけどとっても恥ずかしくて困るわ、というような感じだった。長ったらしいが正確にきっちりこのとおり、幸平はそう思ったのである。  わからない女である。 「鷹野弦司だ」そう言って、肩幅の広い男は幸平に向かって頷いた。  どういうわけか、幸平も赤くなってもじもじした。  かっこいい名前の人間に会うと、それだけで相手のことを多少尊敬してしまうところが幸平にはあったが、それだけではないものが鷹野にはあった。この人にしてみれば自分などなんの役にも立たない間抜けにしか見えないだろうが、なんとかがんばって少しでもいいところを見せたい、そんなことを思う。会ったばかりでどうしてそんな気持になるのかわからなかったが、あと二十年くらいしてこの人と同じような年齢になったとき、こういう大人になっていたいと思った。  鷹野は、落ち着いた声でまず幸平に他の仲間を紹介してくれた。話すとき鷹野の顔に浮かぶ皺、眼の光、穏やかな声に幸平は魅了された。男に対して、こんな憧れのような気持を抱くのは生まれて初めてのことだった。  あの乱暴な男は寺尾《てらお》というのだった。鷹野に紹介されると、寺尾|俊介《しゅんすけ》だ、とほんの少しだけ笑顔を作った。この名もまあまあかっこいい。  もうひとりはウェイターで、河合《かわい》茂平《もへい》といった。  幸平はその名の響きに恍惚となった。  もへい。  ああ、今まで会った中で一番抜けた名の持ち主。  その名ももへい。  勝った。思わずテーブルの下の拳を握りしめてしまう。  めったにない喜び。ぼくよりかっこ悪い名前がいる。こんなに抜けた名前の人がいたなんて。もへい。その名ももへい。幸平は名前だけなら普通の名前。名字とセットでちょっとだけかっこ悪い。なのに名前だけでもとってもかっこ悪いもへい。ものすごく嬉しいぞ。  しかし喜びはつかのまだった。鮎が口を挟んだのである。それも絶妙のタイミングで。 「堀田幸平、河合茂平」鮎は唇の両端を、きゅっと上げて笑った。「なんだか似た名前」  東鳩キャラメルコーンだと思って口に入れたら芋虫だった、というような顔をした幸平とは対照的に、河合茂平はぱっと顔を輝かせて、 「ほんと、似てますねえ。ほとんどそっくりだ」うんうんうん、と頷いている。  そっくりというにはほど遠いだろうがっ、と思ったが幸平は河合の笑顔につられてほっぺたの上半分だけで無理に笑い、それから笑いを完全に消した虚ろな眼で鮎を見た。  鮎はその視線を待ち受けていて、上目づかいに幸平を見ながら片方の肩だけすくめてみせる。へんに可愛い。  たぶんぼくは怒っているはずなんだがなあ、と思いながら幸平はどこか嬉しくなってしまって悔しい。非常に複雑である。  河合茂平はまだにこにこしていた。  顔の傷のせいで最初は恐い印象があったが、一度笑うのを見てしまうと二度とこの男を恐がることは不可能だと幸平は思った。名前だけでなく、全体の雰囲気もどことなくちょっと抜けているのだ。 「状況を説明しておく」と、鷹野が言った。この人だけが冷静でしっかりしているのである。「君がここに連れてこられたのはまちがいなんだ。我々は、爆破専門の工作員を迎えるはずだった」  なのに来たのは普通の人よりも一段ぼうっとした高校生だったもんでいやほんとまいったまいった。とは誰も言わなかったが、そう思っているのは明らかだった。  爆破専門どころか、爆竹に火をつけてすぐ投げる、という遊びをみんなでしていた小学生のときに、導火線の燃えるようすがおもしろいと言ってぼんやり眺め、手の中で爆発させてしまった男なのである。 「すみません」と、誤ったのは寺尾俊介である。「俺がかんちがいしたばっかりに」 「それはもういい」きっぱりとした言い方だったが、鷹野の口調には怒りも憐れみもない。「起こってしまったことを考えよう」  寺尾は無言で頷いた。  この人ぼくを殴ったんですよ、と幸平は鷹野に言いつけようかとちょっと思ったが、寺尾のしょげたようすを見て、やめておいてやることにした。まあそこまで落ち込まなくても、と言ってやりたいほどのしょげようなのだ。  鮎ですら優しい眼差しを寺尾に向けている。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_093.jpg)入る]  ところが河合だけがまるで無頓着に大きな声で朗々と、 「しかしあれですなあ。半年も潜入してたのが、あっというまにぱあになりましたなあ。ああっというまに」っぱーですなー。  う。という沈黙が全員を襲った。 「まあな」しばらくして鷹野がぎこちなく答え、寺尾は頭を抱えて唸った。 「うう」 「あっはっは」河合だけが軽やかに笑った。場の雰囲気をまったく理解していなかった。 「とにかく」と鷹野は続けた。「状況は、あまりよくない」  よくないのかあ、と幸平は人ごとのようにほとんど聞き流した。寺尾が俺のせいだ俺のせいでめちゃくちゃだ、と身悶えしはじめたのがとてもおもしろかったので、そのようすをぼうっと見ていたのだ。  けれど、鷹野が言ったのはみんなにとっての状況ではなく、幸平にとっての状況だったのである。鷹野は幸平をじっと見て、こう続けた。 「最初に言っておくが、君がここで生き延びられる可能性はほとんどない」  そうかあ、ないのかあ。とまた人ごとのように聞き流そうとしたが、今度はそうはいかなかった。しっかり耳の奥にひっかかった。 「え?」 「それに、我々には君をナチスから匿《かくま》う理由がない」  ぞっとした。出ていけと言われるのかと思った。まさかわざわざ突き出したりというようなことはいくらなんでも。  するとすぐさま河合がなんとも残念だなあという顔をして、 「突き出したほうが、こっちは疑われなくてありがたいですからね」  鮎もいっしょに頷いて、わざとらしくため息をついてみせた。 「まあな」と、鷹野。  今度は幸平が頭を抱えた。  最初から説明するが、と鷹野は言った。君も知ってのとおりこの街は現在ナチスの占領下にある。  知ってのとおり、と言われてもほとんど知らないのであるが幸平は黙って聞いていた。間もなく死ぬぞと脅されては、口をきく余裕などどこにもない。  とにかくナチスのおかげでこの街から出るのはものすごく大変で、一度入ってしまうとちょっとやそっとでは出られないらしい。  イノウエ・ナチスは世界制覇を目指しており、その最初の足掛かりが大久保町だった。なぜそうなのかは謎である。この地を完全制覇したのち次は明石市全市を、次は東播《とうばん》地区、兵庫県南部、兵庫県、近畿二府四県とその勢力を伸ばし、最終的には世界制覇をというのがナチスの目論見であった。近畿二府四県まではこつこつなのに、そこからいきなり世界らしい。  とにかくまず最初の段階として大久保町の完全制覇ということが課題なのだったが、どういう状態になれば完全制覇なのかが誰にもよくわかっておらず、目先の勢力拡大を求めた結果、自分の出世しか考えないイノウエ・ナチスのぼんやりした将校たちは、占領地区の拡大よりも占領下の人口を増やすということばかり考えたのである。そこで、入るのは簡単、出るのは困難、というシステムができあがった。将校とはいえ元々の本職は運送屋だったり、学校関係者との癒着でコネを広げたスポーツ用品店経営者というようなのばっかりなので、自分の利益以外に興味はないのだった。  馬鹿な話である。  したがって入るときは、手続きさえ受ければ条件などなにもないので、偽名を使おうがなにをしようがまず問題はない。だから、無茶をして入ってくる者などめったにいなかった。ナチスのブラックリストに載っている人間だけは、正規のルートで入るわけにいかなかったが、そういう人間がわざわざこの町に戻ってくるというようなことは、今までほとんどなかったのである。  合法的に街の外へ出るには、ナチス将校が発行する許可証が必要なのだが、これがなかなか発行されない。たいていは金を積めばなんとかなるが、金さえあれば大丈夫かというとそういうわけではなく、はっきりした条件というのは誰にもわからないのである。そんないいかげんな、と抗議したくなる幸平の気持はよくわかる。けれども、わからないものは仕方がないのだった。  特に幸平は、将校のひとりに顔を覚えられていて、しかもそいつにかんちがいとはいえしっかり恨まれているし、許可証を発行してもらえる可能性は万にひとつもない。通称木山大佐自称ヘルベルト・フォン・ブラウフィッチュ大佐は、総統である井上に最も近いと言われている人物で、ネッシーほども人前に姿を現さない井上総統本人に代わって実際に大久保町を動かしている。ナチスの兵士たちが、堀田幸平を血眼になって探しているのも無理のない話だった。殺そうと思って追っている人間に許可証を出すはずがない。  許可証がなければ非合法にやるしかないのだが、幸平が入るときやったみたいに塀を越え地雷原を抜け、というのは自殺と同じである。入ってくるのに対してはまったく用心してないから、来るときはなんとか死なずにやってこられたが、出るのは絶対無理。  ではどうするかというと、船で出ていくのである。  大久保町には瀬戸内海に面した港があり、以前はそこに諸外国からの船がひっきりなしに行き来していたという。日本への密入国、あるいは大久保町を経由して他国へ逃亡しようとする犯罪者たちが、どんどんやってくる。  船に乗って街を出ていくときも、当然のごとく許可証が必要なのであるが、陸の検問所を通って出ていくのに比べれば、こっちはいくらかごまかしがきく。とにかくどういう手段を使おうと船に乗り込んでしまえば、そこはもう大久保町ではないということでナチスは手を出さないことになっているのである。世界制覇を目指すほどの組織ならば、たかがこっそりやってきた素性の怪しい船の一隻や二隻、力ずくでなんとでもなりそうなものなのだが、一応、そういう決まりになっているらしい。  だから一度船に乗って出ていってしまえば、追われることもなく、簡単に世界中どこの国にでも行ける。パスポートやビザから戸籍などあらゆる書類は大久保町内で作ってくれるところがあるという。  すぐにできるという。 「十五分くらいかな」と、河合は言った。  本当だろうか。 「日本各地へ向かう船もときどきある。それに乗れば帰れるだろう」と、鷹野。 「ああ、よかった」なんだ、簡単じゃないか。すぐには無理でもなんとか帰れるんだ。と、幸平は安心しかけたが、ちょっと気になったので河合と鮎を見た。  やっぱり。  ふたりは、喜んでいる幸平を見ながら、力いっぱい悲しげな顔をして首を左右に振っていた。 「それが、だめなんですなあ」 「だめなのよね、なかなか」  今まで落ち込んで黙っていた寺尾までが、 「そうそう」 「なんで?」幸平はほとんど怒っていた。 「許可証なしに船に乗るというのは、そんなに簡単なことじゃない。そのうえ最近は」鷹野だけが、まともに答えてくれた。あとの連中は鮎の影響か、今やはっきりと幸平のうろたえぶりを楽しみはじめている。「船が来られないんだ」 「来られない?」 「そうだ」鷹野は重々しく頷いた。「山の上に要塞ができた」  大久保町は南を除く三方が塀に囲まれている。南は海である。出入口は街の北東部と西部に、それぞれ一箇所ずつの合計二箇所の検問所しかない。幸平が突入したのは、北東部の検問所のすぐ横だった。  町の北側は険しい山脈になっており、この山脈の大部分は事実上登攀不可能な切り立った壁であるため、山脈以北と街とは完全に隔絶されている。塀と地雷原は街全体をぐるりと取り囲んでいるわけではなく、瀬戸内海に面した南側から始まって東側と西側から北へ向かったそれらは、崖のようにそびえ立つ山脈にもぐり込むような形で切れているのである。  ところが陸上のそうした警備体制に比べると、海側の設備は貧弱だった。港の警備は監視船や機雷によって厳重に行われてはいるが、それでもその警備をすり抜ける船の数は少なくない。  そこでナチスは北側の山脈の最高峰である雄岡山《おっこさん》の中腹に、最新鋭のコンピュータ制御による二基の巨大な大砲を設置したのだった。  この「レーダーコントロールガン」二基と、それを収める要塞の建設理由として、ナチス党本部は「海からの脅威に対抗し、新しい町づくりをめざす」ためと発表した。今まで脅威など一度としてあったためしはない。「新しい町づくり」というのは、市会議員などが地元の商店街やなんかと結託して自分たちだけ得をするのをごまかすときに言ういつもの方便である。いや、どこだってだいたいそうです。  しかし、その威力は決して半端なものではなく、完成記念式典で試しに撃った一発は、瀬戸内海を一瞬のうちに飛び越えてしまいそうな勢いで低空を超高速で南下し、そのすさまじさからおそらく四国徳島は確実に越えるだろうと予測されたものの、途中|淡路島《あわじしま》東浦《ひがしうら》町上空を通りすぎる際、思いもかけない建造物、初めて見た人が必ず七分間ほど呆れて黙り込むことで有名なコンクリート製巨大観音の頭部をこっぱみじんに破壊した。  潜入工作中だった寺尾がこっそり調べたところによると、実際は式典では全部で十発を海に向けて撃つ予定だったのが、あまりのハイテクに誰もついていけず「これほどこへ飛ぶか誰にもわからない」ということだけが「はっきりわかった」ので、あとはみんなで怖くなって取り止めにしたということである。  したがって、当分の間二度と発射される心配はないのだが、一応これは観音様の頭を吹っ飛ばしたスーパーウェポンということでその筋では国際的に有名になってしまい「撃つ者にもどこへ飛ぶかわからないくせに威力だけは抜群」という噂によって恐れられた。結局、船による違法な出入りを阻止するという本来の目的は、見事に達せられたのだが、合法的に出入りが許される船までが恐がって来なくなってしまい、大久保町は現在深刻な物不足に見舞われている。もともと劣悪だった医療環境が最も大きな被害を受け、医療機材や薬品の不足が患者の苦しみを倍加させているのだった。 「唯一の病院である国連病院は、患者を苦しめるために存在しているようなものだし、上層部は病院関係者をどういうわけか非常に恐れて口を出せないでいる」 「はあ」それは困ったなあと思いながら、ちょっと待てよと思った。「病院、たったひとつしかないんですか? ここ」 「そうなんだ」鷹野は、ちょっと言いづらそうな顔をした。「どういうわけか、そうなんだ」 「酒場ならいっぱいあるんですけどねえ」と、河合。「なんだか無茶苦茶ですなあ」 「……」  鷹野はなぜかあわてたように、早口で話しはじめた。 「寺尾の掴んだ情報によると、要塞にさらに新兵器が加わるということだ。その完成記念式典が明日ある。警備が手薄になる式典の日を狙って要塞の爆破を計画したのだが、中心となって動いてもらうはずだった爆破工作員ではなく、君が来てしまった。工作員からの連絡では、ナチスに顔を知られているので正規のルートでは入りたくないとのことだった。普通に入ろうとしたのでは、すぐに捕まってしまう恐れがあるらしい。偶然とはいえ、それを待っているときに君が地雷原を突破したりしたので寺尾がかんちがいをしたというわけだ」 「はあ」こんなまちがいするかなあ普通。あいつ馬鹿なんじゃないか。人のこと殴りやがって。「工作員のコードネームが『コーヒーメーカー』だった」鷹野が寺尾を弁護した。「君の名前がそれに似ていたため、まちがいが起こったのだ」 「ああ」ホットコーヒー、とからかわれた幼年時代が幸平の脳裏に蘇った。 「寺尾がこっちに来てしまっては、爆破工作員が今どこにいるのか連絡の取りようがない。もしかするとすでに捕まってしまっているかもしれない。まず大丈夫だとは思うが、今回の作戦に係わっている人間の名前や、作戦内容が洩れる心配もある。だから我々だけで作戦に突入するしかない。時間もなくなってしまった。工作員抜きでレジスタンスグループと合流するしかないのだ」 「はあ」でもそれは別にぼくには関係ないんだよなあなんでそういうことまた言うのかなあやだなあ。ちょっと暑いなこの部屋。 「要塞の警備は厳重で、よほどのベテランでも生還はむずかしい。君はしかし、この街を出ないかぎり殺される運命にある。それは絶対だ」 「はあ」暖房がきつすぎるんじゃないかな。人が増えたんで室内の温度が上がっちゃったんだなさっと。 「だから、我々が君を匿うことの見返りとして、君は我々の命令に従ってこの作戦に参加するしか道はないんだ」 「はあはあ」そうかそうかこの部屋暑いもんなあ、と生返事を幸平はした。途中から言葉の意味がきちんとわかっていなかった。なんだか聞きたくない気がしたからである。  幸平が話の内容を理解するまでここから約二分間、全員が黙って幸平を眺めることになる。  幸平は、どうしてみんな黙ってしまったのだろうと思いながら、することもないので全然必要なかったのだが腕時計をいじくりまわしてストップウォッチ・モードにしてみたり、アラームの時間を確認したりした。  どういうわけか注目されているな。  作戦に参加。だって。  深呼吸するように、すうーっと思い切り息を吸い込んでから、息を吐く直前に幸平は大きく眼を見開いて、そこでああなるほど爆破とか作戦とかいう恐ろしげな所にいっしょに行こうとぼくのこと誘っているわけかあと気がついたのでがふっと鼻から勢いよく息を洩らした。このままではえらいことになるなと虚ろに考えながらまた普通の顔に戻り、ゆっくり息を吐きだした。 「じゃあ」と言って立ち上がり、なにごともなかったかのように気楽な調子で扉に向かって歩きはじめる。「ぼくはこれで」  たちまち全員に取り押さえられた。 [#改ページ]    Running Scared  幸平が我が身の不幸を嘆いているそのころ、今回の作戦に参加するレジスタンスのほぼ全員が、山のお稲荷さんに集結していた。  北側に聳《そび》える山岳地帯への町からの入口近く。町外れから車で十分ほど登ったあたりに広大な空き地があった。そこから少し歩いて登ると赤い鳥居がたくさん並んでいて、その奥のほんの小さなスペースに御神体が祀《まつ》られている。空き地と、その一番奥まったところに建っているいくつかの倉庫などを全部ひっくるめて、町の人はこれを「山のお稲荷さん」と呼んでいるのである。  彼らは地区別に固まって、割り当てられた倉庫でそれぞれ待機することになっていた。  戦いを前に、レジスタンスの闘士たちは緊張の面持ちでじっと時が来るのを待っているかというと、そういうドラマチックな雰囲気はどこにもなく、どの倉庫からもにぎやかな笑い声や歌声、手拍子や口笛などが聞こえてくるのだった。  作戦まで暇だから、まあ楽しくやりましょうということらしい。  飲めや歌えである。踊っている人もいる。 「このビールやっぱり自治会費で買うとんの? ええの? それ。こんなん買うて」 「やっぱり緑ヶ丘でも獅子舞はやってもらわんと」などと、どうでもいいことを言っているグループがあるかと思えば、 「あんたのところの息子は、もうええ歳やのに毎日家におって昼まで寝とるし、仕事もろくにしとらんようやが結婚はせんのか」もっとどうでもいいことを訊くおっさんもいる。ほっといてくれ。  目前に迫った作戦について話している人が全然いないではないか。  井上総統の話題で盛り上がっている倉庫がひとつあって、ここが一番まともといえばまともなのだが、他よりはまだましというだけである。いったい井上総統というのは本当にいるのか、というようなレベルの話で軍事的、政治的なことにはまったく触れられない。 「うちのじいさんは若いとき、党の本部へ米を届けにいってちらりと見かけた言うとうけどな。それが井上総統やったかどうか怪しいもんやしなあ」 「将校でもほとんど会うたことがないというからのう」 「実際、今の大将はフルビッチョとかいう運送屋のおっさんやもんな」ブラウフィッチュのことでしょうか。 「こないだ。ほらほら去年の夏かなあ、安藤んとこの娘が。え? おう、あの別嬪《べっぴん》さんやがな。そう。そうやがな畳屋の横の。いや、それは姉の方や別嬪は妹。うん、そらまあ姉もええけどどないいうてもあの妹の体はもうあんた。うん。そうそう姉はもう嫁に行ったんや。でな。あの娘。え? おう、見たみたわしも見たがな。海で。ごおっつい水着やったなああらほんまにほとんど裸。股のとこなんかきゅうっとほそーい、いやそんな話とちゃうねん。あの娘がな、え? うん、妹の方。そうそう今年で女子大卒業。ほんでな、ほんでな。おい聞けや人の話。あの娘がな、山でな。こら聞かんか。聞かんかい人の話。あの娘がやな、ばったり出くわしたらしいんや。総統に。山で」 「岸田の家のばあさんは、子供のとき井戸ん中覗いたらそこにおった言うとったけど」  ツチノコか。 「そやけど、井上総統いうのん、おることはおるんやろ?」 「うん、それだけはまちがいない」と、仙人のような老人が自信たっぷりに言い放った。 「そうなん」 「あかんあかん、このじいさん惚けとるねん。なに訊いてもそれだけはまちがいない、しか言いよらん」 「うん、それだけはまちがいない」こんなお年寄り連れてきてどうするんだろうか。  かくして、レジスタンスの闘士たちは戦いに備えてだらだらビールを飲むのだった。 「鷹弦さんまだかなあ」  はよきてくれ。  きちんとメークしてあるベッドを眺め、幸平はどうやって寝たものかと思案した。  毛布と薄い掛布団とが、きちきちになってベッドに巻かれているのだ。この隙間に入って寝るにちがいないのだが、こんな空間にはたして人間が入れるだろうか。夜中になると暖房が切れるから、こういうきちきちでないと寒いとかそういうことだろうか。宗教的なしきたりだろうか。  試しにまず右足だけを突っ込んでみたが、それでもけっこう圧迫感がある。やっぱり毛布と掛布団を外すんではないかなあと思うがどうか。ここまできちんとしているのを乱すというのも気が引けるしなあ、と幸平はとりあえずセーターを脱ぎ、ズボンも脱ごうとしてパンツを穿いてないことに気づいてあわててまたズボンを穿いた。よその家で、パンツもなしに寝られるものか。  ベッドと毛布との間に両足を入れようとしたが、布団にひっかかってズボンが膝の上までずりあがってしまうので、何度か試したのちいったん出て少し考え、それから今度はズボンの裾を足の親指と人差し指の間に挟んで、そろそろと侵入した。毛布は元の状態より少しゆるくなってしまったが、それでもなんとか狭い隙間に下半身を入れることができた。あとはずるずる小刻みに体を動かしてなんとか両手もいっしょに肩まで入った。なんとまあ窮屈なことか。  まったく動けない。  ちょっと痛い。  幸平が自らを人工の金縛り地獄に陥れた直後、鮎がノックもせずにいきなり入ってきた。パジャマかなんかだったら嬉しいなと期待した幸平は無理な姿勢で首をねじ曲げて一所懸命鮎の姿を見たのだが、つまらないことにさっき地下にいたときとおんなじ恰好のままだった。 「なにやってるのそれ」特に驚いたようすはなかったが、鮎は入ってきた勢いを急になくしてそう言った。 「え」あー、やっぱりこれはまちがいらしい。幸平は気がついた。「こうすると気持が落ち着くんだ」嘘をついておく。 「へえ」鮎は信じた。「じゃあたしもやってみよ」  苦しいからやらないほうがいいよと言ってあげたかったが黙っていた。 「それよりちょっと、そんなことしてる場合じゃないよ」と早口に言ってから、鮎は身動きできない幸平をじっと見下ろして「ほんとにそれ楽しい?」  楽しいわけがない。それに幸平は「気持が落ち着く」と言ったのだ。楽しいなんてひとことも言ってない。  だいたい鮎の部屋とつながっているあのドアは、どんなことがあっても開けてはならぬと、この部屋に案内してくれたとききつく言ったのは鮎の方ではないか。入ってきてもらうのに別に不服はないというかどちらかというと歓迎するので別にいいんだけど、それよりも「そんなことしてる場合じゃない」のなら、早く用件を言ったらどうなんだ。 「よく片づいてるよね。大急ぎでやったにしては」うんうん、と部屋を見回した。「ずいぶん使ってなかったからね、このお部屋。あたしが掃除したのよ、さっきね。ぱっぱぱあと」 「ああそう」いったいどういう思考の仕方をしているのか。でも掃除してくれたことは嬉しい。「ありがとう」 「いいのいいの」そうやってただにっこり笑っていれば、本当に可愛いんだがなあ。  それからしばらく、鮎は黙って幸平の枕元に立ったまま部屋のあちこちを点検することにしたようだった。  この部屋は鷹野の店の三階にある二部屋のうちのひとつで、鷹野は「屋根裏部屋の狭い方」と言った。だから、鮎の部屋はもうちょっと広いのだと思う。たしかにあまり広いとは言えないが、別に圧迫感はない。頑丈そうな木のベッドの他には古いテーブルと椅子、それに部屋の隅には小さな洗面所までついている。映画で見た探偵事務所みたいな雰囲気がして、幸平はこの部屋が気に入った。とりあえず今晩はここ寝てね、と鮎に言われ、それで少しは幸せを感じることができた。すぐ隣の部屋に可愛い女の子がいるというのも幸せだと思う。武装集団に命を狙われ、明日になれば大砲を爆発させるために自分を殺そうとしている集団の中へ乗り込んでいかなくてはならない、というようなことさえ考えないように努力すれば、人はいつでも幸せになれる。  鮎は、テーブルに近づくとその上に載っていた花瓶の位置をちょっと変え、それから窓のカーテンを、ちゃんと閉まっているのにわざわざきちんと閉めなおした。 「花がないのが残念よねえ」独り言のように鮎はそう言って、それからまた幸平のところへ戻ってきた。椅子を動かしてベッドのそばに座ると、幸平の顔を覗き込む。「ねえ」 「はい」すなおに丁寧に幸平は返事をした。自分が重い病気にかかっていて、それを心配した美人のお姉さんがお見舞いに来てくれている、という想像をしてその想像に涙ぐみそうになっていた。やはり心は相当に疲れているようだ。  ひとりっ子の幸平は美人のお姉さんに朝起こしてもらいたいというへんな欲求が昔からあった。鮎はどう見ても幸平より年上には見えなかったが、とにかく心細いので優しく世話をされると頼ろうとする気持が大きくなって、あまりの嬉しさに心が揺れ動く。 「どうやら見つかっちゃったみたいなのよ」 「えっ」ここまで踏み込んできたヘルベルトフォン木山大佐が、幸平の視界の届かないところにすでに来ていて、にやにやと笑っているのではないかと一瞬ぞっとしたが、鮎の言い方がそう切迫したものではなかったので、無理矢理想像をどんどん楽しいほうへとねじ曲げた。見つかったというのは幸平が追手に見つかったのではなく、爆破の工作員とかいう人が見つかったので、幸平はもうなんにもすることがなくなったのよと言ってくれているのだ。なんだ。きっとそうだ。  よかったよかった。  とにかく人員が欲しいので、なにをするかはともかくいっしょに「作戦」に参加してほしいなどと言われたが、あれはもうしなくていいのだ。この町の仕組みがどうなっているのか、ナチスとはいうけれど実際のところどういうものなのか、いろいろ気になったが、もうそういうのは知らないままでいいのだ。いいいい。聞きたくない聞きたくない。たぶん、明日には家に帰ることができるのだ。春からは大学へ行ってそんなことは一度もしたことがないがのんびりと女の子とドライブでもして喫茶店で本を読んだり平日の昼間に水族館へ行って一日中ラッコを見たりするのだ。あんなおもしろいものはないと思うのに、日曜に行くと混んでいて十分ほどで入れ替えがある。行くなら平日だ。  安心してちょっと気が抜けた。驚いたことに、ちょっと残念な気もした。 「そうなのか」 「そうなのよ」鮎は意外そうな顔で幸平を見た。「けっこう落ち着いてるね」とぱちぱち瞬きをしてから、あ、と思いついて「そうかそうか。そうやってぴちぴちの中に寝てるから落ち着いてるのか。へえ。きくんだね、それ」  なんと答えていいかわからない。 「でも」と鮎は立ち上がった。「あんまり落ち着いてるのもどうかと思うよ。踏み込まれるのは時間の問題だっておじさん言ってたからね、下にいたほうがいいと思うんだ。隠れやすいから」 「ええ?」やっぱり見つかったというのは、恐いほうの話らしいぞ。幸平はびっくりしてベッドから飛び出た。というか、飛び出ようと思ってじたばたした。おじさんって鷹野さんのことか? 全然残念なことないぞ。ラッコのほうがよかったぞ。  悪魔が取り憑いたような暴れ方をしてから、なんとか幸平はベッドから出た。 「だいじょうぶかな?」男みたいな口調で鮎が言った。  なんでこの女、こんなにおっとりしてられるんだこっちは死ぬか生きるかの問題だというのに。真剣に腹の立った幸平は、Tシャツとズボンだけという薄着がなんとなく恥ずかしくてあわててセーターを着込み、靴下をぐいぐいと履き、まだかなり湿っている自分のスニーカーに足を突っ込みながらもうおまえなんか頼りにするものかと口の中で呟き、自分のことは自分で全部してやるんだ、おまえの助けなんか必要ないんだ、と強く思った。そういうことを思うこと自体、そもそもどこか頼る気持があるということに気づいていなかった。ひとりっ子の悪い癖である。  それはまだよかったのだが、幸平はなにをしていいのかわからないくせになにかしないと鮎の手前おさまりがつかなかったので、最初に目に入った窓のカーテンに向かって一直線に歩いた。 「だめっ」  鮎がそれに気づいて止めようとする間もなく、幸平はカーテンを勢いよく開けて下の通りを見下ろした。  部屋の電気が消えた。機転をきかせた鮎が壁のスイッチを切ったのだ。そのおかげで、外から部屋の中は見えにくくなっただろうが、そのかわり外のようすがはっきりと見えるようになった。  おびただしい数の武装兵士たちだった。店は完全に取り囲まれている。  何百人といる。  あまりの光景に幸平は動けなかった。鮎がなにか言っているのだが、意味が理解できない。  この人たち全部が、自分を捜して捕まえようとしているのか。  見覚えのある長いながい揉み上げを、通りを隔てた街灯の下に見つけて膝の力が抜けそうになった。  こっちを指さして叫んでいる革コートの男。  外からこちら側はもう見えないはずなのに、木山大佐はまっすぐ幸平を見ていた。  堀田幸平捜索には最初からいきなり七千人の兵士が投入された。  これは当然のことながら多すぎて混乱を招いた。  夜間外出禁止令が発令され、不審な者、堀田幸平に関係ありそうな者はとりあえず逮捕せよと命令された七千人の兵士たちは、なにが不審でなにが堀田幸平に関係があるかということなどはっきりとわからぬまま、町中をやみくもに「捜索」しまくった。大久保町は、言わば町民のほとんどが不審な者ばかりなので、兵士たちは二歩も歩けば不審者を発見することとなり、それをよせばいいのにいちいち逮捕した。夜間外出禁止令が発令されたとはいえ、その通達の方法というのが宣伝カーと回覧板なので、町民のほとんどはそんなことは知らずにいつでもうじゃうじゃ外出する。夜間の外出ができない状態で、どうやって回覧板を回すのかということは外出禁止令発令のたびに問題になっていたのだが、ずいぶん昔からそうしているので、いまさらやり方を変えるというのもなかなか大変なのだった。  結局、町中いろんな人でごったがえしてしまい「特別警戒外出禁止令」といういつもとちょっと違うスペシャルバージョンだったにもかかわらず、外のにぎやかさにひかれてわざわざ出てくる人間のほうが多くなってしまったのである。  普段なら、この混乱の中で幸平が見つかる心配はまったくなかった。  しかし鷹野の店が怪しいという情報があった。『鷹弦』の裏手で、それらしき人影を見たという者がいたし、すぐに調査に向かったパーカー少佐率いる精鋭部隊はいったんは店から引き下がったものの調査を続行し、窓から確認できる部屋の明かり、店の者の動きなどから、堀田幸平とは限定できないまでも、外部からの客がいるという確証を得た。他のチームはただむやみにあちこち「捜す」ことしかしてなかったので、ちゃんとした捜索活動は実際これだけだった。七千人突っ込んでちゃんと動いたのは三十人ほどだったということになる。それでも、この三十人はきちんと仕事をした。パーカー少佐の部隊が、たったひとりの人間を捜索するというのはこれまでにないことだったが、これが幸平にとってはものすごく不運だった。彼らは、イノウエ・ナチスにおいて最高の戦歴を誇る特殊任務専門チームだった。  最高の戦歴を誇ってはいるものの大久保町でまともな戦闘はこれまで一度もなかったので、なにを誇っているのかは誰も知らない。  しかし彼らが訓練された職業軍人であることは確かだった。 「地下から通りの向こうへ逃げるの」鮎は、まだ狼狽《ろうばい》している幸平にそう叫ぶと自分の部屋へ駆け込んでいった。  鮎の部屋を通って向こうへ行くのかと、おたおた鮎の後を追った幸平は飛び出てきた鮎と扉のところでぶつかりそうになった。一瞬鮎がおびえた顔をしたのに幸平は気づいた。この子も恐いんだな、と思うと恐怖が現実的なものとなって胸の中にどす黒く溜まった。しかしそれと同時にほんの少しではあったが勇気も湧く。頼るばかりではかえって恐い。  下の方から、なにやら怒鳴る声が聞こえてきた。敵は店内に突入したらしい。外出禁止令のため夜通し店にいなくてはならなくなった客たちが騒ぎだしたようだった。  鮎は抱えていたコートを幸平に一着手渡し、廊下の方へ顔を出したときには自分のコートのチャックを締め終わっていた。  ごついコートの袖口から出た鮎の白い手が、あまりにも華奢で弱々しい。ああなんて可愛い手なんだろうかとどうでもいいことを考えてしまって幸平はなかなかコートの裏と表がわからない。ごわごわした生地と、綿入りのキルティングとが重なっている。ごちゃごちゃと英語の説明書きが貼りつけてあるキルティングの方が内側に決まっているだろうになぜか迷った。『M‐65』、なんて説明書きのところには書いてあってまるで軍服みたいだなと幸平は思っているが、みたいなのではなくてこれは正真正銘のアメリカ陸軍の軍服である。袖の状態からなんとか表裏を判断して、やっと左腕を通したときには鮎はもう廊下の中央に出ていた。  今度はチャックがうまく噛み合わなくて、口を半開き、両手は臍《へそ》の下あたりでごそごそというみっともない恰好のまま鮎の後をついていく。  まだ締められない。  階下で、静かだが暴力的な動きがあった。  端にある階段横の壁で、ヘルメットと銃の影が揺れる。  人の気配はひとりやふたりではないのに、その足音は驚くほど微かだ。  その非人間的な威圧感に幸平は戦慄した。  敵の存在を見て取った鮎はくるりと向きを変え、幸平の腕を取って反対に駆けだす。 「こっちよ」声は出さずに鋭く囁く。「早くっ」  まだチャックの締まらない幸平は、鮎が腕をひっぱるのでよけいに締めにくくなってとりあえず今はあきらめればいいのに意地のようにチャックをこちょこちょとやりながら走りだす。 「止まれ」背後で声がした。日本語だった。振り返ると階段を登りきった兵士が数人、幸平と鮎に銃を向けているのが見えた。  鮎はそれを無視してさらに走る。  廊下のつきあたりの非常階段らしき表示へと鮎は突進した。つきあたりの右側の壁に、扉が見える。  かちり、と金属の音がした。兵士たちの持つ銃がどういうものか幸平はまったく知らなかったが、その音が自分を撃つための準備だということはなぜかわかった。  首の後ろが強張る。  鮎が扉のノブを握って「ああ」と泣き声を出した。幸平が初めて聞いた鮎の弱い声だった。  鍵が掛かっている。  追手が背後に迫った。  振り返るつもりはなかったが幸平は首を巡らせていた。マシンガンを持った野戦服の男が五人。すでに幸平たちに逃げ場はないと判断してか、廊下の中程で動きを止めている。前のふたりは膝をついて幸平を狙っている。銃口がはっきりと見える。  後ろの三人は立っていて、  ちがう。幸平が気づいたとき、武装兵士のひとりが白目を剥いて倒れた。音もなく敵の背後にいた三人目は寺尾俊介だった。  倒れる兵士のマシンガンをもぎ取った寺尾はその台尻をすぐ横の男の顔面に叩き入れつつ、前のふたりが反応する前にひとりのヘルメットにブーツの踵《かかと》を勢いよく落としていた。  残ったひとりは手に持ったマシンガンを寺尾に向けようとがんばったようだったが、五センチも動かないうちに、首筋にマシンガンを突きつけられていた。 「おまえたち、やっぱりレジスタンスか」敵の兵士は動きを止めてマシンガンを床に捨てたもののおびえたようすはまったく見せず、寺尾を睨みつけた。「これでおまえらの居場所はなくなったも同然だ。なぜそうまでしてこいつを助ける」  こいつというのはぼくのことだろうなあ、と幸平は胸がどきどきした。そうか、別に助けなくてもいいんだよなあ、などということになったら、あっさり引き渡されても特に文句は言えない立場である。  そういえば、なんで助けてくれるんだろうか。ぼくの助けなんか、あってもなくても同じだろうに。  寺尾はちらりと幸平を見るとひょいと肩をすくめ、 「なんでだ?」と、鮎に訊いた。 「そうね」さっき泣き声を出していたくせに、どっと余裕を取り戻した鮎はにっこり笑って「可愛いから」  なにを言ったのかよく聞こえなかった、という顔をした兵士が口を開こうとする前に、寺尾は手にしたマシンガンをくるりと回転させるようにして、兵士の後頭部を殴った。  ごく、というへんな音がして男は倒れ、寺尾は今自分がしたことなんにも覚えてないですわたくし、というあっさりした態度で倒れた四人を見下ろした。  ひとりだけ少し動いていたので、お、まだ生きてる、という顔でその男の背中をごんと殴り、もう動かないなよしよしと確認した。  何度も助けてもらっといてなんなんだが、この性格はちょっと問題なんじゃないかなあと幸平は思った。どういう育ち方をするとこんな乱暴な人ができあがるんだ。 「さ、行くぞ」寺尾は背後に注意を配りながらマシンガンを壁に立てかけると、非常階段への扉のノブを両手で掴んだ。首筋の血管がもりもりと盛り上がる。ふん、と鼻息を荒くした瞬間、真鍮でできた錠を捩《ね》じ切って壊していた。古い木の扉ではあるが、それでも普通の人間にできることではない。  鮎は特に驚いたようすもなく扉を開いた。幸平も後に続こうとした。  廊下も寒かったが、外の空気はもっと寒い。開いたままのコートの前を締めようと幸平はまた下を向いてチャックの端を探した。  マシンガンの短い連射音が轟いた。  さっき倒した兵士たちの向こうから、敵の第二チームが顔を出していた。 「くそっ」突き飛ばされたかのように寺尾がどすんと幸平にぶつかってきた。幸平の体にしがみつこうとしたが、その腕に力はなく、寺尾の巨体は音を立てて崩れ落ちていく。  艶のない石の廊下に、どす黒い血が膜のように広がった。 「行け、逃げろ」苦痛に顔を歪めて寺尾が叫んだ。  幸平は、いくつかの銃口が自分を狙うのを見た。  いっさいの物音が消え、動きが止まる。  倒れた兵士のヘッドセットから、雑音とともにか細い声が洩れ聞こえた。  なにを言ったのかは聞き取れなかった。  どうすればいい。  迷うひまはなかった。幸平は寺尾の手からマシンガンを奪い取り、そのまま鮎の手を引いて一気に非常階段を駆け降りる。  頭ではそう考えた。  だが、できたことは鮎の手を握って非常階段の踊り場へ出ただけ。それも、向こうが握ってきたのを握り返しただけで、しかも先に外へ出たのは鮎のほうだった。片手はまだチャックの端をつまんでいる。  マシンガンを取ることはおろか、階段を降りることもできなかった。  踊り場でふたりは凝固した。  すぐ下にいくつもの銃口がある。  建物の裏側へは別の武装チームがすでに回り込んでいたらしく、鮎と幸平が踊り場へ出たとき、彼らはちょうど非常階段を登り切るところだったのである。  鮎も幸平も本能的に両手を挙げた。  マシンガンの銃口をこちらに向けたまま、兵士のひとりがゆっくりと鉄の階段を登ってきた。蹴ろうと脚を伸ばしたとしても、ちょうど届かない距離で止まる。 「堀田幸平」精悍な顔がヘルメットの下でにやりと笑った。「そうだな?」  ごまかすとか、憎まれ口を叩くとか、まったく考えなかった。ほとんど喜んでいるかのようなはきはきした口調で答えて頷いた。 「はい」  鮎は青ざめた顔で、廊下に倒れている寺尾を振り返って見た。  寺尾の血は、胸から溢れだしているようだ。 「うおっ、てっせずぼー、てっせずぼー」  幸平に銃を突きつけている兵士の陰から呪文のようなことを呟きながら現れたのは、ナチス党本部へ幸平を連行したあのボブだった。ヘッドセットのマイクに英語で喋っている。寺尾にやられたせいか、眼の上に大きな絆創膏が貼ってあった。幸平と鮎からは一度も目を離さずに、ふたりの背後へとまわった。  てっせずぼーてなんの呪文だろう、と幸平は不安になったがこれは「This is Blue.」と言っているのだった。彼らはブルー小隊と呼ばれている。最初の「うおっ」は実は「Wolf」で、司令部のコードネームだった。廊下の向こうの階段から来て、今も幸平たちにマシンガンを向けている第二波のグループはレッド小隊、最初に寺尾にやられてしまったのがスピアヘッドと呼ばれる先制攻撃チームで、すべてパーカー少佐指揮下の部隊である。それからボブの本当の名前はボブではない。 「Mission Completed.」作戦完了ということらしい。これは、幸平にもわかった。  そのときだった。  夜の街に閃光が走った。  巨大な生物が咆哮するような連続した爆発音がそれに続き、  ゆっくりと大地が浮き上がった。 [#改ページ]    Fly Me To The Moon  今まですぐ後ろにあった扉が音もなくふわりと落ちていき、耳の横を突風が吹き抜けたように幸平は感じた。  遠い街灯に照らされただけの暗い地面が、ぐいっと近づいてくる。裏通りを隔てた向かいのビルや民家がこっちへのしかかるように傾いてきた。  なにが起こっているのかしばらくわからなかった。  背中に押しつけられていた銃口が離れ、ボブが驚愕に目を見開いているのが見えた。  そこでやっと幸平は、動いているのが扉や地面ではなくて自分たちの方だと気づいた。  華奢な造りの非常階段が、壁から離れて傾《かし》いでいるのだ。  幸平は足場の重力を失って手すりに激突した。衝撃に頭がのけぞって、たまたま後ろにいた兵士に頭突きを入れるようなこととなり、それで相手は昏倒したのだが幸平は知らなかった。打った頭が痛いとすら思わなかった。それからすぐに鮎が勢いよくぶつかってきたのでぎゅっと抱きしめる。幸平には鮎を助けようというつもりはなく、またいい機会だと喜んだわけでもなく、ただ自分が心細いので手近なものに掴まりたかっただけである。自分がどういうことをしているかという意識もなかった。ただぐらぐらしていた。  地面と壁のちょうど真ん中あたりで階段はぐらりとなりながらも止まっていた。下から見ているとそれほど大した高さではないのかもしれないが、ふんわりとただ空中に浮かんでいるようなものだから、当事者にとってこれは強烈だった。  どれくらい強烈かというと、屈強なブルー小隊の隊員のうち五人が、わあっと叫びながら落ちて地面に転がったくらいである。階段は全体に弧を描くようにしなっているので、幸平たちといっしょに一番上の方にいた人たちは、ぼろぼろ落ちた。もともと三階の高さだから、落ちると痛いだけではすまない。たいへんなことになる。  残っているのは、幸平の頭で昏倒したのち危ういところで手すりに引っ掛かっているまだ意識のないひとりと、なんとか階段の途中の手すりを抱きしめてなにやら英語の悲鳴をあげているボブだけだった。幸平と鮎が落ちずにすんだのは単なる幸運にすぎない。  ふたたび閃光が走った。  鋭く小さな光があちこちで炸裂し、それから畳みかけるように連続した爆発音が聞こえはじめた。  最初の爆発よりもかなり小規模なものの連続だったので、階段はそのままの傾斜を維持するかに思えた。  ぎぎっという音がした。  爆発には関係なかったのかもしれないが、階段はストッパーとなっていたなにかが外れたらしく急激に倒れることにしたようだった。  体が宙に浮く。  ひゅーんという音をたてて、手すりが風を切った。  鮎の腕がものすごい力で幸平に巻きついてきた。  汚れたアスファルトに激突するかという直前、階段はまたなにかに引っ掛かったのか根元の方でがくんと止まった。しかし上半分はまだ動く。慣性の法則は、壁から外れて倒れる非常階段にも働いた。幸平と鮎のいる最上階の踊り場は、地面すれすれの位置まで来て、衝撃もなく一瞬そこで停止した。幸平は踊り場の手すりと鮎とに挟まれて、息ができなくなった。鮎の歯が幸平の首筋に当たり、皮膚を裂いた。  意識をなくして引っ掛かっていた兵士がぽとりと地面に落ちた。この人が一番運がよかった。無事、地面と再会できたのである。  思い切りしなった非常階段は、そこから一気に元の位置へと跳ね戻ることとなった。加速をつけて跳ね上がる。バネの原理である。  びよーんと跳ね上がった階段の踊り場から、固く抱き合った幸平と鮎、それから本当の名前はボブではないというのにボブは、星も凍る冬の夜空へとそれぞれ舞い上がっていった。  大急ぎで裏へ回ってきていた木山大佐がそれを見て真面目に怒鳴った。 「逃げたぞ」  最初の爆発の直後、鷹野と河合、そして詩人のバーテン西畑はそろって地下室からの通路を通って店から数十メートル離れた出口へと出ていた。『鷹弦』の表玄関の下から、前の通りの地下を抜けて向かいのビルの横へと出る通路である。路地の奥のゴミ捨て場が出口になっている。そのまだ奥へ行くと一本南の通りに出ることができる。幸平と鮎を抱えた寺尾が走ったのはこのルートである。  路地にはあちこちの酒場が排出する生温かい空気が充満していた。深く息をすると、気分が悪くなるので、三人は口を開けて浅い息をしながら、寺尾が、鮎と幸平を連れてくるのを待った。 『鷹弦』の看板が通りの向こうに見える。  鷹野の店からは爆発に驚いた客がどっと外へと逃げだしていた。店を占拠した兵士たちも、パニックに陥って見境をなくしている。逃げる者を止めようとする兵士もいたが、たいていは他の店や人家から続々と出てくる民間人といっしょになって右往左往していた。夜間外出禁止令もなにもあったものではなかった。  逃げまどう他の人々と同様、鷹野は自分の店が攻撃を受けたと思ったのだったが、出てみてすぐにそうではないことに気づいた。  爆発は街のあちこちで起こっている。 「陽動か?」鷹野が呟いた。「誰が、なんのために」 「はあはあ。4WDとかいうやつですな」と、河合。他のふたりと同じ戦闘服を身につけているのに、どこか似合わない。鷹野と河合は同年代でともに四十に手が届くかというあたりである。見た目の年齢というだけならふたりにそれほどの差はないのだが、これほど印象のちがうふたりも珍しかった。鋭いのと、全然そうでないのと。 「なに?」真剣に状況を把握しようとしていた鷹野は、河合の言葉をまともに検討しようとした。するべきではなかった。 「いつ、誰が、どこで、なにをという」  鷹野は自分の失策に気づいた。この男とまともに話してはいけなかったのだ。 「それは5W1Hですよ河合さん」と、ふたりより一世代若い西畑が言った。鷹野はすでに自分の思考の中に戻っていた。河合を無視することには慣れている。 「ああそうか」と河合は無表情に納得した。それから鷹野に向き直って「尿道がどうかしましたか」 「尿道じゃない」鷹野はつい反応してしまった。無視することには慣れていても、なかなか無視しきれないのだった。「陽動だ」 「あー」全然わかっていないのだが、河合はとりあえず納得した。人との会話に執着する気がまったくないのである。「ようどうですよね」うんうん、と頷いて「そりゃなんといってもようどうだ」  鷹野も西畑も、河合がなんにも理解していないことを知っていたが、説明するつもりはまったくなかった。 「西畑、どう思う」鷹野は質問の相手を西畑に限定した。 「そうですね」バーテンの腕はたしかだが、戦闘や武器の知識となると西畑も河合とさほど変わらない。それでも一応答えようと努力はする。「冬の星座きらめく下、爆音響く戦場に思うことは……」 「俺が悪かった」鷹野は、ひとりで考えることにした。 「君も聞くだろうかこの爆音を。見るだろうかオリオンを」身振りもつけて、まだ言っている。  その横で河合が、胸にぶらさげていた手榴弾のひとつを手に取ったかと思うと把手《とって》の端についている安全キャップを開け、出てきた発火索を無造作に引き抜いたので鷹野と西畑は目を丸くして濡れたアスファルトに倒れ込んで頭を抱えた。  しばらくそのままで衝撃に備えたが、何事も起こらないのでそうっと顔をあげて河合を見ると、河合は手榴弾の把手を口にくわえて中の液体を飲んでいるのだった。 「なにやってるんですか河合さん」状況が理解できず悩んでいるようすの鷹野よりも先に、若い西畑が口を開いていた。 「ああ、これ?」河合は、ふたりがあわてて地面に伏せたことには気づいていないようだった。「これ、手榴弾型魔法瓶なんですよ。ポテトマッシャー・グレネード・ボトルといいましてね。見た目昔の手榴弾そっくり」ほうじ茶ですが飲みますか、と勧められたが西畑はやんわり断った。  鷹野は河合の精神構造を少しでも理解しようとした己を恥じ、自分の世界へと戻っていった。 「他のも全部、魔法瓶ですか」念のため、西畑は訊いた。 「いや、あとは武器庫にあったやつだから、本物の手榴弾でしょうなあ。こっちのこのやつは」と脇腹にぶらさがっている別の手榴弾を示して「これは魔法瓶。いや、こっちだったかな。で、それからこれ」と、腰に吊った金属製のガスマスク・ケースをぽんぽんと叩いた。「ガスマスク・ケースに見えるでしょう」 「はあはあ」 「これも魔法瓶です」とにっこり。「今度、わたしの魔法瓶のコレクションをお見せしますよ。もっとすごいのがありますから」 「はあはあ」  頷きながら西畑は、もし本物の手榴弾と魔法瓶とをまちがったらどうするんですかと訊こうとして結局訊かないでおいた。なんとなく恐かった。それに人の趣味に口を出すべきではないとも思う。  店の向こう側でまた爆発が起こったようだった。  まわりの人間の注意が、店の裏側へ集まったのを見計らったように近づく車が一台あった。『鷹弦』の前で停車する。妙にきらきらと輝く、トヨタの大型セダンだった。  ナチスの兵士や関係ない人々はまだかなりの人数うろうろしていたが、突然出現した車に注意を向けるものはいなかった。車より爆弾のほうが普通は気になるものである。 「誰でしょうか」西畑が言った。 「わからん」鷹野は車を凝視している。 「ようどうですな」と、河合は言った。  男がひとり、車から降りた。白いスーツを着ている。助手席にまわってドアを開ける。降りたのはチャイナドレスの女だった。髪が長い。  男は女の手をとって『鷹弦』の入口へ向かった。  階段を上がるとき、チャイナドレスのスリットから女の白い脚がのぞいた。 「おう」と、西畑。「結婚したい」  いっしょに見ていた河合が西畑に訝《いぶか》しげな眼を向け、 「誰とです」全然わかっていない。  呆れた西畑は、しょうがないですねと鷹野に同意を求めようとして、はっと笑いを消した。  鷹野は眼を見開いたまま、なにも見ていない。  放心した鷹野など、今まで見たことがなかった。 「車をまわしてくれ」視線を虚空にさまよわせたまま鷹野はそう言って、せっかく出てきた店へと走った。突然の行動だった。 「俺も行きます」鷹野を案じた西畑がそれに続いてしまったので、河合がひとり取り残された。  走り去るふたりをしばらく心配そうに眺めてから、わたしが車を取りにいかなくてはならないのかと無表情に立ち上がり、路地を奥へとのんびり歩きはじめた。  その背後に、銃を持つ人影がいくつか忍びよっていたが、河合は当然のことながらなんにも気づいていなかった。  店内に残っている者はいなかった。  白いスーツとチャイナドレスの女だけが、人のいない店内に佇《たたず》んでいた。女はいとおしむかのように太田じいさんのピアノを指で撫でている。女より頭半分背が低い男は、天井に顔を向けて揺れていた。踊っているのかもしれないが、よくわからない。  鷹野と西畑の気配を感じて、ふたりが振り返った。  女と鷹野の視線が交錯した。  鷹野を見た瞬間、明らかに女は動揺した。鷹野がそこにいることが、とても信じられないようすだった。  しかし、たちまちのうちにその表情が穏やかなものに変化するのを鷹野は見た。 「弦司さん」艶やかな赤い唇から洩れた吐息が自分の名となって耳に響くのを感じ、爽やかなその音色に鷹野は一瞬眼を閉じた。  蘇るものが多すぎて、記憶はただ漠然と胸を詰まらせた。痛く苦しく、切なかった。  眼を開いた鷹野が見たのは、あのときと同じ涙の粒だ。  俺を探してここまでやって来たのか。裏切ったわけではなかったのか。絶望に凍っていたものを氷解させる陽光が、胸の内に射した。  しかしそれは錯覚だった。  女は泣いてなどいない。 「おや、知り合い?」スーツの男が言った。浅黒い顔にびっしりと吹き出物がある。太り気味のその体を搾れば腐った油がどろどろ流れ出るのではないか、と鷹野は思った。 「ええ」と女は男に微笑んだ。「昔、パリでね」 「パリっ!」突然男は叫んで飛び跳ねた。「パリって外国のパリ? えっすっげー鈴ちゃんパリにいたなんて知らなかったー」フランスではなく「外国」というのがひどく大雑把に聞こえる。  ばったばた飛び跳ねて、なんだか知らないが大喜びのようす。  鷹野は呆気にとられてしまっていたが、西畑はけっこう冷静で誰に訊くともなく口を開いた。 「なにこれ」 「俺?」男は跳ぶのをやめて「俺、玉田《たまだ》正春《まさはる》。レジスタンスの人に、ここに呼ばれて来たんだけど、だあれもいなくて困っています」と、幼稚園児のお芝居みたいに首を傾げる。 「たまたまさわる?」と西畑。「なんでそんなものを」 「たまだっまさはるっ」玉田は憤慨して唾を飛ばした。飛沫がちょっと飛んだというレベルではなく大量に飛んだので、自分の顎にもどばどばかかってあわてて手で拭う。「う、よだれが」 「コーヒーメーカーか?」鷹野が言った。寺尾が「ほったこーへー」とかんちがいした爆破工作員のコードネームである。 「あー」玉田は嬉しそうに「それそれ。じゃ、あんたがこの店の高山さん?」 「鷹野だ」鷹野の眼が険しくなった。 「あれ? そうだっけ? 高山だと思ってた。まあいいやよろしく」玉田は鷹野に握手を求めながら、なにか思いついた顔で「オセロットが来たと伝えてくれ」 「オセロット?」そんなコードネームは知らない。握手に応じながら鷹野は眉間に皺を寄せた。玉田の手首にだらりと絡まった金色のロレックスが気になった。いやな趣味だ。 「俺のことだけど。山猫っていうような意味なんだよ」自分で勝手にそう呼んでいるだけのことらしい。 「はあ」山猫というより、薄汚い猪という感じではないか。「で、伝えるって誰に?」 「鷹野さんに」 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_135.jpg)入る] 「わたしが鷹野だ」 「知ってる」 「…………」気持悪くなって、鷹野は急いで手を離した。 「で、この人がね」と、チャイナドレスの女の肩を抱き、というか肩にぶらさがるようにして「氷室《ひむろ》鈴蘭《すずらん》ちゃん」 「知ってる」と、鷹野は玉田と同じ台詞を口にしたことに気づき、とたんに嫌悪感に襲われて吐きそうになった。「こいつは西畑|五郎《ごろう》」顔を背けて西畑を紹介する。 「よろしく」西畑は握手をしたくないのか、離れたところからさっさと敬礼をした。 「外の騒ぎは、君がやったのか」  鷹野の問いに、玉田はにやりと笑って胸を張った。 「ここに来ようとしたのに、なんだか警備がすごかったから」 「検問所はどうした」 「あー、お宅さんたちのおかげだと思うけど、なんかばたばたしてていいかげんな審査で入れたよ。偽造の書類もほとんど調べられなかった」幸平のどたばたも、結局は役に立っていたらしい。「いろいろ仕掛けも用意してたんだけどね。万一に備えてさ」似合わないウインクをしてみせる。爆破に関しては、絶大な自信を持っているようだ。他の男なら頼もしく思えるだろうその態度も、玉田がやると厭味なだけだった。  鷹野は威圧するように玉田に近づくと、その顔を上から見下ろした。 「ここからは、わたしの指示に従ってもらう」 「わ、わかったよ」玉田の顔から笑みが消える。  鷹野らしからぬその言動に西畑は首を傾げた。たしかに敬意を払いたいとは到底思えないタイプの男ではあるが、鷹野の反応はどこかぎすぎすしている気がしたからである。  鈴蘭という女はずっと、鷹野を見つめながらも別のなにかを見ているかのように表情が虚ろだ。  西畑は以前にその顔を見たことがあるような気がしたが、そこでふとあることに気づいてはっとした。  さっき路地裏で放心していた鷹野と、それは同じ眼差しなのだった。 「やはり君はただの商売人ではなかったな」  妙に甲高いへんな声がして、店の奥から小柄な軍人が現れた。  それまでまったく人の気配は感じられなかったのに、パーカー少佐は数人の部下を背後に従えてそこに立っていた。  迂闊《うかつ》だった。いつからいたのか。鷹野はすかさず拳銃に手を伸ばそうとしたが、すでに遅かった。  マシンガンを腰の高さに構えた兵士たちが、あっというまに鷹野たちを取り囲む。その動きから、彼らが高度に訓練された集団であることを鷹野は見て取った。簡単にあしらえる相手ではない。 「わたしの頭の中には、金儲けしかありませんよ」両手を頭の後ろで組み、鷹野はパーカー少佐に微笑んだ。  兵士たちは、たちどころに鷹野たち全員を武装解除していく。鈴蘭に近寄ったひとりの兵士は、悲しげに微笑む鈴蘭を一通り見回しただけで、手を触れようとはしなかった。  護送用の車を手配する声が、小さく聞こえた。この部隊のリーダーらしい兵士が、ヘッドセットのマイクに話しているのである。 「まさか、地下の隠し部屋や通りの下を抜ける通路も、商売に使うと言うんじゃあるまいな」パーカー少佐は胸を反らして鷹野に近づいた。冷たい眼で鷹野を見つめる。 「ありゃ、趣味です」軽口を叩きながらも、鷹野はひやりとするものを感じていた。地下にはレジスタンス活動の証拠となる書類や武器がある。もはや言い逃れの余地は残されていない。河合が見つかったかもしれない。寺尾も鮎も、捕まったのだろうか。あの少年も。 「仲間のことを心配しているのなら、教えてやろう。君たちが寺尾と呼んでいる男はわたしの部下が射殺した。さきほど死亡の確認報告があった。有能な男だったが、スパイはやはり嫌われるからな。堀田幸平と坂元鮎の二名は、空を飛んで木にひっかかり」そこでパーカー少佐ははっとしたように全員の視線を気にして「いや、本当だ。ちゃんと見ていた人がいる」なんとなく困ったような顔になったが、話を続けた。「公園の木の上で抱き合っていたふたりを逮捕した。河合茂平が逮捕されるのは時間の問題だ。他にメンバーがいるのかどうかは、これから君たちに訊くことになる」 「俺みたいな嫌われ者に、仲間なんかひとりもいませんよ」鮎と幸平が空を飛んだというのがよくわからない。河合はまだ捕まっていないのか。口とは裏腹に、鷹野は残された可能性を探しつづけた。 「君はよくわからない男だな」パーカー少佐は煙草を取り出すと鷹野にも勧め、『鷹弦』と書かれたブックマッチの一本を、ちぎらずに擦って火を点けた。ふたり分の煙草に火を移すと、少佐は燃えているマッチをそのまま片手で無造作に畳んだ。それで火は消えたらしい。微かに煙の残るブックマッチを煙草のパッケージに突っ込むと、それをポケットにしまった。  西畑がその一連の動作を食い入るように見つめながら、無意識に指でその仕種を真似ていた。あとでやってみようと考えているのは明らかである。 「これだけの店をちゃんと繁盛させ、町の人々からも尊敬されている。君が睨めば、そのへんのゴロツキどもも礼儀正しくなるほどだ。女にだって不自由はしていない」 「いや、それがなかなか」これは本音だった。言いながら、深く吸った煙草の煙に噎せた。 「ここから出ようと思えば、君なら簡単に出られたはずだ。わたしが許可証にサインしてもいい。それがなぜ、レジスタンス活動などに首を突っ込んだ」 「非合法活動というのは、けっこう金になるんですよ」 「嘘だ」パーカー少佐は穏やかな声を鷹野の声に重ねた。「地下の書類をいくつか読ませてもらった」  この短時間に、本当にそこまでできるものだろうか。鷹野の背筋を冷えた汗が流れ落ちる。 「君は、儲けた金をほとんどわけのわからない用途に使っている。病院や、福祉施設や、妙な団体への寄付がほとんどだ。捨てるように使っている。金が欲しいのではなく、ただ忙しく働きたいだけのように見えるが、わたしの気のせいかね?」 「そういうのも商売のうちでね。賄賂《わいろ》みたいなもんです」 「君によく似た男を知っている」少佐は手近な椅子に腰を降ろした。「失礼して座らせていただくよ。歳を取ると立っているのがつらくてね」まだ年寄りというほどの年齢ではないのに少佐はそう言うと、鈴蘭に軽く会釈をした。  無邪気な笑みを鈴蘭はパーカー少佐に向けた。それは状況にまるでそぐわない純粋な微笑みだったので、少佐はふと鈴蘭に見とれた。  街のどよめきや風の音が一瞬途切れ、完全な静寂が酒場を満たした。 「美しい」と、少佐は言った。「今の笑顔だけで、わたしはこれからしばらく幸せに暮らせますよ」  表にトラックのエンジン音が轟いた。 「迎えが来たようだ」パーカー少佐は立ち上がり、それからはもう鷹野を見なかった。 [#改ページ]    原人音頭  河合を狙っていた兵士は三人だった。河合が他の仲間と合流するのではないかと考え、しばらくその後をつけることにしたのであるが、彼らは河合がどういう男かよく知らなかったので、恐ろしく混乱させられることとなった。  車を取りに行くつもりだった河合は、そこまでの百メートルほどをまるで警戒もせず機嫌よく歩いていきながら、いろいろへんなことをしたのである。  まず路地から南の通りへ出たところで、急に立ち止まった。ばれたかと、尾行の三人は緊張したが、続いて河合は合図をするように口笛を吹いたので、これは仲間にコンタクトを取ろうとしているのだなと身構えたところが、そうではなくて河合はただ通りの向こうからやってくる野良犬にちょっかいをかけていただけだった。  なんだ、犬かと思っていたら、うわ、と言って突然くるりと身を翻《ひるがえ》した河合が、なんと自分たち三人の方へ一目散に走ってくる。  度肝を抜かれた三人が動けないでいるそのすぐ横を河合は走り抜けた。見ればその後から十数匹の野良犬の群れが追ってくるではないか。しかも犬どもは一匹残らず人懐っこい性格ではなかったようで河合の後に続こうとした三人は不幸にも怒り狂った犬の群れに襲われた。  犬の牙とよだれで、ぼろぼろでぬるぬるとなった三人は、それでもなんとか河合を見失わず、あれだけやかましかったのにまだ尾行に気づかない河合に感心しつつ、辛抱強くまたその後をつけていった。  そのうち河合は同じ道を何度か通り、ときどき立ち止まってあたりの物音に耳をすますようなことをしはじめたので、今度こそは尾行がばれたかと思ったが、これは河合が犬に追われて自分の居場所がわからなくなり、迷ってしまっているのだということがすぐに判明した。なぜわかったかというと、同じ場所を十六回目に通ったときに大きな声で、 「あ、ここはさっき一回通った」と言ったからである。  かなりあちこち歩き回ってから、見覚えのある場所に出たらしく、そこからはいくらか順調に進んだ。港に並ぶ倉庫のひとつへ近づいていく河合の後ろ姿はスキップしているようにも見えた。  やれやれここに仲間がいるのかと尾行の三人がやや緊張するのも知らず、河合は倉庫の隅にある出入り用の扉を開けようと鍵を取り出し、錠が錆びついていて開かないのでいきなり扉を蹴っ飛ばした。  腐っていたのかもともと弱い造りだったのか、河合の足は扉を突き破って中に吸い込まれた。太股まで突っ込んだ河合があわてて身を引こうとすると扉は外れ、脚がからんで河合は扉といっしょにひっくりかえる。  扉のなくなった出入口に年老いた男がひとりぽつんと立ち、ちょうど扉に手を掛けて中から開けようとしているようなポーズのまま悲しげな顔で河合を見ていた。 「またあんたか」と、その老人は言った。「あんたんとこは、もひとつ向こうの棟でしょうが」 「あー」扉から脚が抜けない河合は扉と格闘しながら「じいさん元気?」  老人に手伝ってもらってやっと立ち上がった河合は、自分のしたことに対してなんの反省もないらしく、じゃあまた、などと間抜けな挨拶をして海沿いに歩いていく。  やっと河合の行く先がわかった尾行者たちは、河合が仲間と合流する前にひとまず彼を取り押さえてしまうことにし、一気に河合との距離を詰めた。  そのとき、胸元をごそごそやっていた河合が何事か呟くのが三人の耳に届いた。 「あ、まちがえた」  次の瞬間尾行の三人が見たのは、自分たちの前へところんころん転がってくる把手のついた古い手榴弾だった。  あわてて海に飛び込んだ。  耳を聾する爆発音が港に響く。  冷たい水の中でなんとか爆発をやり過ごす。ここで河合を見失っては大変と焦ったものの、ちょうど潮が引いていたので地面はずいぶんと高いところにあり、目の前の壁はつるんとしたコンクリートで手掛かりになりそうなものはなにもない。しかもなにやらどろっとした緑色のものが付着していて、ぬるぬるだ。三人必死でじたばたし、互いの頭を踏んだり掴んだり四苦八苦したあげくやっとひとりが地面に這い上がり、あとのふたりを引きずりあげた。どうにか三人這い上がれてよかったなあ、とほっと胸を撫で下ろし、さて肝心の河合はと思った瞬間猛烈なスピードでバックしてきた巨大なトラックに轢き殺されそうになったのでわあと叫んでふたたび海へと落ちた。  海に落ちる寸前で停まったトラックはガッガとギアを鳴らして方向を変えると、尾行者三人の頭上を走り去っていく。  トラックの運転席に、大声で歌を歌う河合の笑顔が見えた。 「うれし恥ずかし明石の夜は、想い出枕の原人音頭」よいやーさあのーせー。と、わからん合の手とともに遠ざかっていった。  海の中で三人は、不思議なことに特に腹は立たなかった。  幸平と鮎は、トラックの荷台にいた。  大きなトラックで、荷台には幌がかかっている。一番後ろの部分は開けっ放しだが、そこのところにマシンガンを持ったふたりの兵士が座り込んでいるので、飛び下りて逃げるというのはできそうにない。中に明かりはなく、目の前の鮎の顔ですらはっきりとは見えないほどだ。見張りのふたりが日本人かどうかもわからない。  かなりの距離を飛んだような気がしたが、自分で感じたほどには飛んでいなかったらしく、近くの公園の大木にひっかかったところを簡単に囲まれてあっけなく逮捕されてしまった。  これからあの、気色の悪い木山大佐のところへ連れていかれるのかと思うと生きた心地もしないが、そういう不安や恐怖よりももっと驚いたのは鮎のことである。  がくがく震えながら幸平にしがみついている。  公園の高い木の上からそろそろと降りる間は、多少意識は朦朧としていたようだがまだしっかりと自分の力で動いていた。先に降りていった幸平の肩を、踏み台にするように言ってやると、躊躇なくそのとおりにしたくせに、下から自分のことを見上げてはいけないとはっきり命令さえした。どのような状況であれやはり下から見られるのはいやなのらしい。  それからたくさんの銃に囲まれても、唇をきっと結んで仁王立ちしていたのである。両足を肩幅より広く開き、腰に手を当てたその姿は頼もしくすらあった。  ところがトラックに乗せられてすぐに、幸平の顔を見つめて、それで表情が変わった。あんまりじっと見つめるので、つい幸平はとろんと眼を閉じてしまったのだが、いきなり鮎の手が髪の毛を掴んできて、ぐいっと乱暴に首を捩じ曲げられた。  そうして今度は鮎の顔が首筋に近づいてきたので、牙を突き立てられて血を吸われるのかと思い、これまた恐いとは思わずに幸平はうっとり期待したのだが、そうではなく、これは幸平の首筋に、べっとりついた血を凝視しているのだった。  どうしてこんなに血が出ているのだろうと幸平が自分の首筋を触ってみると、ほんの少し固まりかけていた血が、触れたとたんに濡れた鉄のような匂いを発した。  階段から飛ぶ直前、鮎の歯で切ったのを思い出した。  しかしこんなに血が出るとはいったいどれほど深く切ったのだろう。あまり痛くないのは、よほどひどいからにちがいない。痛いのは左側の脇腹と腰骨と腕で、右の方は無傷だと思っていたのに、実はこっちが大変なことになっていたのか。  は、と鮎がなにかを思い出したかのように息を呑むのがわかり、一瞬幸平はもう自分は死にそうなほどひどいのかとうろたえかけたのだが、そこで幸平も思い出した。  これは寺尾の血だ。  鮎の眼から、顔が洗えそうなほど大量の涙がこぼれだした。  驚いた幸平が思わず手を差し伸べると、体当たりをしようとするように鮎は幸平にしがみついてきて、それからはずっと体全体を震わせて嗚咽するばかりだった。  鮎の泣き声は見張りの若い兵士ふたりにも聞こえ、彼らは鮎と幸平が抱き合っているのを見てお互い顔を見合わせた。乱暴そうなふたりが、いやがらせをしてくるのではないかと思った幸平はちょっと暗い気分になりかけたが、彼らはなにも言わずそれきり幸平と鮎を見なかった。  この子がこんなに泣いてしまうということは、やっぱりあの寺尾は死んだと判断するのがあたりまえなのだろう。  血が出ているのは見たが、幸平には人が死ぬということがよくわからなかった。身近に人の死を見たことがない。  しかし、あんな人間離れしたものが銃で撃たれたくらいで死ぬだろうか。  あれを殺すには、銃とかナイフというようなレベルのものではなくて、アメリカ空軍とか天才科学者の発明した新兵器とかが必要なのではないかと思う。それでもだめで、似たような獣を見つけてきて市街地で戦わせるとうまくいくんではないかなあ。  銃で撃って終わりというのは、あまりにも似合わない。 『鷹弦』のある通りに入ったトラックが減速しはじめ、幸平の胸に伝わってくる鮎の嗚咽が一瞬止まった。  そう、寺尾は死んでなかった。右上腕部に貫通した弾があったが、他はすべて防弾ジャケットに突き刺さって止まっていた。被弾したショックで一時気を失っていたのを、パーカー少佐の部下がろくに確かめもせずに死んだと判断したのだ。  確かめなかったとはいえ、かなりの出血量だったから普通なら死んだと判断するのも当然で、その死を疑ってわざわざ確かめようとすれば要領の悪いやつと言われかねないところである。  ところが寺尾は生きていた。幸平が思うほどの化け物ではないが、それでも普通の人間とは違う。  彼はトレーニングの鬼であり、毎日とにかく体を鍛えつづけている。性格が馬鹿一歩手前というほど真面目だったので、一度始めてしまうと休むことが罪悪のように思えて、どんなに疲れていてもすさまじい量のトレーニング・メニューを毎日欠かしたことがなかった。こういう人はたしかにちょくちょくいる。ジョギングを始めたが最後、走らない日があるとせっかく鍛えた体がまた元に戻ってしまうのではないかという恐怖から、会社の行き帰りまで走り、日曜日なんか朝から夕方までずっと走って走りながら昼飯食うほど走りに走って今日は本当に疲れたなどとあたりまえのことを言うし、雨の日でも走りたいなどと言いだして言うだけでなくどこで見つけるのかジョギング用の雨合羽《あまがっぱ》なんかを買ってきて実際走り、風邪をひいてしまってもとりあえず黙々と走りつづけてバナナを食うのである。やたらバナナを食ってそのうえ人にもバナナを食え食えと勧める。そのうち走るだけでは足りなくなってしまって、ボーナスでやたらと高級なマウンテンバイクを購入し、あろうことか自転車ごときに名前をつけてしまったりするのである。  メアリー号、ぐらいならがまんしよう。好き好きヒロコちゃん号も、ちょっとつらいがなんとか許そう。  しかしあなた自転車の名前が「永遠の友情」。  ともだちおらんのか。  そんなことはともかく、際限なくトレーニングを積み重ねさえすれば誰でも死ににくい丈夫な体になれるかというと、それはどうか。寺尾と同じことをやれば普通一週間ぐらいで死ぬ。  寺尾はトレーニング無しでも、もともと死ににくい人なのである。そのうえトレーニングもするのでたぶん百年以上は壊れず動く。  ふらふらと立ち上がった寺尾は、非常階段が壁から離れて揺れているのを見た。なにが起こったのか覚えていなかったが、鮎と幸平の姿がどこにもないのに気づいた瞬間頭の靄《もや》が晴れた。  あちこちで起こっていた爆発騒ぎも、今はもうおさまっているようだ。  階下から人の話す声が微かに聞こえた気がした。  血はほとんど止まっている。  寺尾は酒場へ通じる階段を降りはじめた。  表にトラックが来たようだった。  トラックの方へと連行されていくとき、明らかに敵の兵士たちには油断があった。鷹野たちはたった四人であり、しかも見るからに戦闘訓練を受けていない繊細な女性も含まれている。穏やかな仕種で、ときおりチャイナドレスのスリットからすらりとした脚を覗かせる美人に対して気を抜くなと言っても、これは無理である。それでなくても鈴蘭は見る人をのんびりさせるような雰囲気を持っていた。ぼんやり見とれていると、その視線に気づいてにっこり笑ってくれたりするし、そのうえ、鈴蘭にやたらとひっつきまわる不細工な男というのが、いつも一応は質実剛健な軍人ばかりを見ている兵士たちにはちょうどいい娯楽となった。玉田の終始おどおどした情けない態度や、どことなく薄汚いイメージのあるその容姿に対する優越感などが、戦闘能力においては絶大の自信を誇る彼らを必要以上に安心させ、緊張感を奪っているようだった。  西畑は彼らが隙を見せるたびに、ぴりぴりと反応し、いつ行動を起こすのかと鷹野のようすを盗み見ていた。  パーカー少佐が護衛ふたりとともに将校用の先導車へ乗り込んでいったその直後、最大のチャンスが訪れた。鈴蘭が足元の石に躓《つまず》き、ほんの少し体のバランスを崩した。ぎくしゃくと緊張していた玉田は鈴蘭に腕を取られてこけかけた本人以上にこけかけてしまい、それを見た兵士たちは、なんと情けない男であることよと嫉妬まじりの嘲笑を浮かべ、そんな男に対して温かく接している鈴蘭の姿に、ほのぼのと見とれたのである。  今だ、と西畑は確信した。行動を起こすのは今をおいて他にない。鷹野の合図を待つまでもなかった。  まわりにいる兵士は全部で六人。西畑は自分の分担を右側の三人と見積もった。玉田が多少でも使える男なら、ひとりは奴に任せられるかもしれない。鷹野なら、三人は軽いだろう。  西畑は急激に頭を低くしながら、後ろへ一歩ステップした。右斜め後ろにいた兵士のマシンガンの下から肘を撥ね上げる。それを奪い取ると同時に体を回転させ、上半身よりもわずかに遅れて回転する左足の踵を、爆発的な遠心力のエネルギーとともに兵士のこめかみに叩き込んだ。すぐさま左側の兵士の背後へ回り込み、他からの銃撃を避けつつ眼前の兵士の後頭部を奪い取ったマシンガンの台尻でぶん殴り、  という一連の動作が西畑の脳裏には美しく描かれたのだったが、実際に行われたのは「後ろへ一歩」と「肘を撥ね上げる」だけだった。おかげで、なぜか突然勢いよくお辞儀をした拍子にマシンガンにごつんと肘が当たってしまったへんなやつ、ということになった。やられた兵士はこいつなにがしたいのだろうと不思議そうな顔をしてちょっとおどおどし、西畑が逃げようとしたとは露ほども思わなかったので、おいだいじょうぶかと西畑に手を貸したりした。  そこで西畑は鷹野の動きを援護すべく、差し出されたその手を逆に取って手首の関節を決め、相手の股間へ前蹴りを放った、という想像をしたが、手を取ったつもりが相手の握力があまりに強かったために痛くて思わず倒れそうになり、もう一方の手もそれに添えてなんとか倒れずにすんだというのが現実。  兵士はやはり西畑に敵意が見いだせなかったらしく、多少の照れを含んだ声で、 「いやいや、どういたしまして」  大失敗だった、と西畑は情けなくなったが、ふとまわりを見回して愕然となった。  動いたのは、わたくしだけでありました。  他の人々は、発作を起こしたような西畑をただじっと見ていただけなのだった。  鷹野までもが。  西畑は「失望の眼差し」と自分では思っているものの実際には蹴られたあとの犬としか見えぬ恨みがましい表情で鷹野を凝視したが、それでもまだ鷹野は西畑に気づかず、じっとあの遠い眼でなにかを見ているのだった。  いったいどうしたんだ鷹野さん。ふたり同時に動いていれば、こんなことにはならなかったのに。  いやーそれはどうかと思うぞ、というもっともな声はどこからも聞こえず、西畑はどんどん自分の想像に悲しくなっていくのだった。  しかしまだ誰ひとりとして気づいていなかったが、確実で素早く、完全に音を殺した動きが背後にあった。  最後尾を歩いていた兵士が声もなく膝を折り、その膝が地面に接触するまでの間にもうひとりが銃を奪われていた。  特殊部隊用に全長を短くした|H&K《ヘッケラー・アンド・コッホ》社製MP5サブマシンガンが寺尾の腕の中で鈍く光る。ふたり倒した。  今度は西畑も有効な動きを見せた。  さっきの気のいい兵士が寺尾の動きに注目した一瞬、兵士の腰のホルスターから拳銃を抜き取ったのである。これは狙ってそうしたわけではなく、あくまでも偶然目の前にそれがあったというだけのことだったが、見事にうまくいった。すかさず兵士から二歩ほど離れ、その背中に銃口を向ける。銃を敵に向けるときは、近づきすぎるな。鷹野に訓練された体が覚えていた。この兵士もいいやつだとは思うが、捕まればこっちは命がないのだ。そう思って、気分は悪かったが冷酷になろうと自分を追い込み銃の安全装置を解除した。けれど、撃つつもりなどまったくなかったし、撃ちたくもなかった。 「全員腹這いになれ」寺尾が鋭く言うのを聞きながら、西畑は気のいい兵士が捨てたMP5を拾い上げ、自分の肩にかける。 「悪いな」膝をついた兵士に西畑は声をかけた。  今はトラックの陰になっている将校用のメルセデスに気づかれる前に、全員を完全に武装解除してトラックを奪わなくてはならない。  ここまでくればしかし、あとは簡単なことに思われた。寺尾も西畑も、こうした局面での鷹野の能力には絶対的な信頼を寄せていたので、まさか鷹野がみすみす敵に反撃のチャンスを与えるようなことをするとは考えもしなかったのである。 「やめろ。やめて。撃たないで。だいじょうぶ。ぼく関係ない」小刻みな言葉でぶつぶつと命乞いをしているのは玉田だった。こめかみにマシンガンの銃口を押し当てられて震えあがっている。鈴蘭はそのすぐ横に立ち、玉田を励ますかのようにその腕をしっかりと掴んでいた。  ところが驚いたことに、鷹野は両手をだらりと下げた覇気のない姿で顎の下にマシンガンを突きつけられているではないか。  鷹野はまるで動いていなかった。寺尾が鷹野の方へ敵のマシンガンを転がしたというのに、それを拾い上げることすらしていなかった。そんなあからさまな隙を見逃すほど、相手はぼんくらではない。  立っている敵兵士は三人。鷹野と玉田にそれぞれひとりずつ。そして残るひとりがマシンガンを構えて寺尾と西畑に向かい合い、親指でついとヘルメットを押し上げると傲岸《ごうがん》に笑った。 「さあどうする」  どうしようもなかった。鷹野の不甲斐なさに西畑は虚脱した。寺尾はまだ状況がはっきりと把握できないようだったが、負けははっきりしていた。鷹野と西畑が動くことを前提としての寺尾の奇襲であり、鷹野がなにもしなかったのではたとえ敵兵士を躊躇なく殺すつもりだったとしても成功するはずがなかった。  西畑と寺尾は、手にした武器を捨てた。 「なぜ、武器を手に入れた最初に我々を撃たなかった?」腹這いにさせられていた兵士が、ゆっくりと立ち上がりながら寺尾に訊ねた。「あのタイミングなら、やれていたはずだが」  まっすぐ、押し返すような視線をその兵士に向けて、寺尾はそんなこともわからないのかというように言った。 「俺たちは人を救おうと戦っているのに、あんたたちを殺したんじゃなんにもならんじゃないか」  兵士は、なんだって? と一瞬呆れた顔をしたが、たちまち楽しくてしょうがないというようにくすくすと笑いだした。 「おかしな理屈だが、ぐっとくるね」  ふいに光が彼らを照らし、地面を削る轟音が響いたのはそのときだった。  河合の運転するトラックが猛烈なスピードで突進してきたのだ。 [#改ページ]    Strangers In The Night 『鷹弦』のある通りに向かう角にさしかかったとき、乗り慣れないのと古くてガタが来ているミッションのせいでギアがニュートラルへとすっぽ抜けたので、特にあわてることもなく河合はああすっぽ抜けましたなあ、などとひとり呟いて軽くブレーキを踏んだ。そのまま惰性で角を曲がりきり、シフトレバーを操作しながらさて加速しようと思ったところが、まだギアがきちんと入っていなかった。自分ではちゃんと入れたつもりだったのでアクセルは踏んでいる。これが全然加速しないものだから思い切り床まで踏み込んでしまい、あれれまだ入っておらんのですかなあとクラッチをがちゃがちゃ踏みながら、ハンドル横のシフトレバーをとんと押した。  エンジンのパワーが伝わるやトラックの後輪は白煙をあげて空転し、グリップを取り戻したとたん当然なのだが河合にとっては思いがけない加速をした。 「これは思いがけない加速だ」車体が重いのでそんなにすごい加速ではなかったが、びっくりした河合はここにきて初めてあわてふためき、アクセルを踏んでいるから走るのだという基本的なことも忘れてトラックがひとりでに走りはじめたような錯覚に陥った。 『鷹弦』の前に停めてあった玉田のトヨタ・クラウンに正面から突っ込んでいくのをただわあわあ言うだけでなにもせず、結果、クラウンをつぶしながら乗り越えて走り、次に停まっていたパーカー少佐の乗るメルセデスと壮絶な正面衝突をした。  メルセデスのフロントシートにいたふたりは、爆発的に膨らんだエアバッグのおかげで顔面の怪我を免れたが、それでも気絶する程度の衝撃は受けた。  車はどういうわけか多少浮き上がったので、後部座席にいたパーカー少佐は天井で頭を強打し、うまい具合に気絶した。  ひしゃげたメルセデスはそのまま後ろにあった軍用トラックにぶち当たり、軍用トラックの運転手はハンドルに顔を打ちつけて綺麗に気絶した。  ちょうど鷹野たちはトラックの荷台に乗り込もうとしているところで、全員が荷台に転がったが、すでに乗っていた幸平と鮎も含めてちょっと痛いぐらいのことですんだ。  ところが鷹野たちを牽制するために車の外で銃を構えていた兵士たちは全員、そのまま滑るように後ろへ下がった軍用トラックにはねられた。  全員気絶した。  それだけのことをやってのけたにしては、河合の乗るトラックの損傷は少なかった。ほとんど無傷と言っていいほどなんともない。当然のことながら、河合自身はかすり傷ひとつ負わずにぴんしゃんしていて、停まった停まったと勝手に作った歌を口ずさんでいた。暴走が止まったことだけがただ嬉しいらしい。エンストしちゃってごめんなさい、とかなんとか歌いながら、クラウンに後輪を乗り上げた恰好でエンストしてしまったトラックのエンジンをかけなおし、だめ押しをするようにクラウンの上を通ってバックした。これで玉田のトヨタ・クラウンは、ここにさっきまで洗濯機があったんですよと言われてもそうかと思うほどの残骸と化した。  敵の軍用トラックの荷台から、まず西畑が顔を出した。  通りのあちこちから、騒ぎに関係のない人が集まりはじめていた。事故の音、というのは人を呼ぶものである。次に人を呼べるのは小銭をばらまく音であるまあどうでもいいけど。 「河合さん、すごいなあ」西畑は感心して、倒れた兵士たちの武器をかき集めた。寺尾がそれを手伝って、荷台に武器を積み込むと、西畑はそのまま軍用トラックの運転席にまわる。  ドアを開けると、気絶した運転手がだらりと落ちてきたので、入れ替わるように運転席へよじ登った。軍用なのでキーはなく、セルモーターをまわすためのスイッチがあるだけだ。エンジンはすんなりとかかった。  河合は西畑の運転するトラックに気づき、すぐさま自分もトラックでその後を追った。  車があるなら、どうして取ってこいなどと言ったのだろう、と不満気である。  自分がなにをしたか、全然知らなかった。  トラックがアスファルトを離れ、砂利道に入ったなと思ってからしばらくかなりの勾配を上り、何度か大きくカーブを曲がった。 『鷹弦』の前での騒ぎから後、誰もほとんど口をきかなかった。  よくはわからないが、とりあえずは仲間の人たちが乗り込んできたのでほっとした幸平だったが、鮎は寺尾が動いているのを見るなりさっさと幸平から離れてしまった。二度と手も握ってくれなかったし、寺尾と鷹野がなにやらごそごそ話しているのに参加してしまって、こっちを見てもくれない。さっきまで髪の匂いがわかるほど密着していたというのに、いったいどういうつもりなのかと腹が立つような悲しいような心細いような、なんだかもう幸平の心は異様にナイーブである。だいたい寺尾みたいなものがちょっとやそっとで壊れるはずがないのだ。あんなのは電池替えるか蹴っ飛ばせばなんとか動くようになる類のものである。ほっとけばいいのに。なんかときどきくすくす笑ったりしているのでうんざりだ。トラックがどこへ向かっているのか誰も教えてくれないし、この先なにをさせられるのかもわからない。作戦に参加するのがどうのという話は、まだ生きているのだろうか。家には帰れるのだろうか。トイレに行きたいが、どうしたらいいんだろうか。  びっくりするような美人も乗り込んできたが、親しげにくっついているのが趣味は接待のゴルフとマージャンで東南アジア買春ツアー年二回、旅費は会社の経費で落とせるおとせるどないでもなりまんがなと言いたげなちんけなおっさんだったので、たしかに美人だったがどうでもよかった。  このおっさんだけはずっとやかましくて、ああ恐かったと百六十回くらいくりかえして言いつづけた後、車が壊れたと恨み言をこれは七十五回くらいくりかえし、突然、鮎に気づいてその美しさに驚いたのか一瞬沈黙し、しかしすぐさまなんの躊躇もなく、 「君いくつ? 可愛いねえ」  きりっと清潔な鮎を、言葉で汚されたような気がして幸平は放っておけなかった。なぜそんなに不快なのか自分でもよくわからなかったし、普段なら腹を立てても行動に起こすことはなかっただろう。でも今は生まれて初めてというほど気が立っている。よしひとこと文句を言ってやろうと立ち上がりかけたがなにに対してどのような文句を言いたいのかさっぱりわからず、自分はなにに怒っているのだろうと不思議に思っているうち、鮎がおっさんを切り捨てた。  寺尾の怪我のようすを見ながら、怒ったように鷹野に、 「なんなの? あれ」振り向きもしなかった。 「爆弾の玉田さんと、お連れの鈴蘭さんだ」鷹野が前を向いたまま無表情に言うのが幸平にも聞こえた。  玉田という、太って目つきがいやらしくて肌がどす黒く、脂ぎっているわりにはなんとなく石鹸臭そうなそのおっさんは、鮎に冷たくあしらわれても特に怒りもせず、いいんだよいいんだよというようににやにや笑うだけだった。  今はそんなにつんけんしとるけど、そのうちわしのこと好きにさせたるからな、という態度である。いったいなにをどうしたらそういう自信が湧くのか。  鮎のあまりの冷淡さに、一瞬おっさんに対して同情を寄せかけた幸平だったが、その自信ありげなようすにむかむかし、やっぱりなにか言ってやろうと思った。ふたたび立ち上がりかけたちょうどそのときトラックが停まったので、バランスを崩して運転席と荷台を隔てている壁にぶつかって痛い。 「いたー」肩と頭をぶつけて、目の前がちかちかした。物にぶつかるときというのは、どうも同じぶつかり方をくりかえしてしまうようで、肩も頭も、ついさっき大木にひっかかったときしこたまぶち当てたところだった。 「だいじょうぶ?」と、頭の後ろに温かい掌を感じ、鮎かと喜んで顔をあげるとチャイナドレスの美人だった。「ものすごい音がしたわよ」  さっきまではまったく興味がなかったのにやっぱり美人は強い。綺麗で優しい顔が心配してくれているのを見て幸平はめちゃくちゃに嬉しそうな顔をしてしまったのを自分で感じた。 「はあ。もうこんなの。全然だいじょうぶですよおあははははは」なにがおもしろいんだかこめかみから血が垂れているのにそんなことはなんでもない。 「血が出てるけど?」なにかしてあげられることはないか、と真剣に美人は考えているようだった。薄いハンカチを取り出して、幸平にくれようとする。凝った刺繍《ししゅう》が施してあるが、あまり役に立ちそうにないくらい薄い。「これ、あげるわ」そう言って幸平の傷を見るために顔を近づけてきた。もうほとんど鼻が頬にくっつきそうだ。ふわっと気が遠くなりそうなくらいいい匂いがした。 「いや、いいですいいですそんなのいいですすぐとまるんですぼくの血。もうほとんど止まって」うろたえて後ずさってまた頭を打った。「いったー」ここも二度目だ。 「気をつけなきゃなあ」と、おっさん。  おまえに言われたくないぞ、ととたんに幸平は気分が悪くなった。この女の人、なんであんなのといっしょにいるんだろうかなあ。やめてほしいなあ。 「さっ、降りておりて」きんきんした声で、鮎が言った。幸平のこめかみから流れる血に鮎は気づき、はっとしたようだったが、特になんにも言ってはくれなかった。 「お稲荷さんがない」茫然と、最初に呟いたのは寺尾だった。  火薬と、木の燃える臭いとが夜風に混ざって漂っている。二台のトラックのヘッドライトに浮かび上がった光景は、焼け跡だった。  あれだけの緊張のあと「お稲荷さん」というのは馬鹿馬鹿しいほどのどかな響きで、幸平は突発的に笑いだしそうになった。おかしいと思うと、その思いがさらにおかしさを呼んで爆笑したいという衝動が腹の中に充満した。ここで笑いだしたら最後死ぬまで笑いつづけてしまいそうな恐怖がある。わろたらあかん、となぜか関西弁で考えてしまい今度はそれでさらに笑いの波が脳の血管を膨らませた。眼が充血するのを実感する。おかしいことを考えてはいかん、と思って努力したあげく頭に浮かんだのが、やっぱり日本の警察は日本一だというどうでもいいフレーズで、どういうわけかこれはかなり衝撃的におかしかったので幸平はもうほとんど失禁しそうになりながらひたすら笑いをこらえた。わななく口を手で覆い、歯を食いしばってとりあえず他の人と同じようにあたりの景色に目を凝らす。お稲荷さんが焼けようがどうしようがどうでもよかったが、笑いをこらえていることを誰かに指摘されたら、それだけで笑いが噴出することは確実で、なんとしてもそれだけは避けなくてはいけない。  煙がまだかなり大量に漂っていて、はっきりとはわからないが、空き地のようなところにあちこち爆発によると思われる穴が開いている。空き地のまわりは夜空よりもまだ暗い透明感のない深い闇に囲まれていて、どうやらこのあたりは森林地帯のようである。空き地の向こうの、一段高くなったところにはいくつか建物があったらしい。倉庫かなにかだろうが、大雑把な巨人が鷲掴みにして持っていったみたいに、下の部分だけを残して他はなくなってしまっているのだ。 「先回りされたのか」鷹野だった。「そんな時間はなかったはずだ」いやなことを思い出した、という顔で黙り込む。  仲間のうちにスパイがいるのではないか。疑惑が鷹野を黙らせているのは笑いをこらえる幸平にもわかった。鷹野と寺尾が目を合わせた。すぐ横にいる西畑も鷹野を心配そうに見ていた。全員が同じ考えにとらわれている。  なんとか笑いの発作を抑え込んで、幸平が安心しかけたときに簡単に沈黙を破ったのはやっぱり河合だった。 「スパイがいるんですかなあ」いかんなあ、と大声で。  幸平はしゃがみこんだ。もう笑う。もうがまんできん。 「どうしたのかなあ?」と、こちらも状況に無頓着な声は玉田である。「ここの爆弾ならぼくがさっきどんぱち……」  鷹野が玉田の胸ぐらを殴るようにして掴んだ。 「なんだと?」  その怒りのすさまじさに、幸平の発作は吹っ飛んだ。自分が怒鳴られたわけでもないのに、心底恐かった。もうなんにもおかしくない。恐い。  立ち上がり、両手を膝についた中腰のまま状況を見守った。鷹野という人は、やっぱり怒るとものすごく恐い。 「なんだよ」むっとして玉田は、鷹野に対して何らかの反撃を考えたようだったが、とても勝ち目がないと悟って、わざと平気を装った。余裕ある態度をとろうとして、顔をひきつらせてしまった。「なんですか」 「これをやったのはおまえか」低く、ゆっくりした声だった。 「ああ。うん。はい。そうだけど。ここ、もしかして味方だったのかな」  ゴミでも捨てるように、鷹野は玉田を放した。 「爆薬も、ここのを使ったのか?」マシンガンを両手で抱きしめた寺尾が訊いた。怒っているのではなく、こりゃ困っちゃったなあという顔だ。 「ああ」玉田は、首筋をさすりながら「敵の倉庫だと思ったんで」 「ここはレジスタンスの倉庫だよ」もはや話す気を失って背を向けてしまった鷹野に代わり、西畑が説明した。「あっちにいっぱいあったちっさいのがアジトだったんだ。ここの連中と合流して、ここの爆薬を使って、という作戦だったんだよ」 「そんなこと言われても」知らなかったんだし。と玉田は不満そうである。自分の失敗よりも鷹野に乱暴な扱いを受けたことのほうが玉田にとっては重大らしく、鷹野の背中に粘りつくような視線を向けていた。プライドは、ものすごく高いようだった。 「座っていたほうがいいんじゃないかしら」鈴蘭が小さな声で言った。  幸平は、それが自分に対しての言葉だとわからなかった。なんとか笑いの発作から抜けだしたものの、今度はトイレに行きたくてしょうがなくなり、まわりのことに気がまわっていなかった。河合だけがなんとなくまわりの緊張感から遊離している感じだったので、その平和な雰囲気にあこがれて、知らないうちに河合ばかり見ていたのである。  スパイでなくてよかったのだーんとぶつぶつ歌う河合の声を聞きながら、トイレもなくなってしまったんだろうなあと平和な不満を抱いていた。  すると突然こめかみに、さらりとした布と温かい指が触れてきた。切なくなるような香りが幸平の胸を満たす。なんの匂いとも言いようのない優しい匂いだった。またあの人だ。 「だいじょうぶ? まだどんどん血が出てるわ」  鈴蘭はさっき幸平が座り込んだのを、怪我のせいで立っていられないのだと思ったらしい。耳元で声がして、ふと首を動かすとそこに鈴蘭の顔があった。最初見たとき、どうしてどうでもいいなどと思ったのか思い出せない。尖ったところのまるでない、柔らかな表情が幸平を見ていた。ああこういう人がお姉さんだったらなあ。毎朝優しく起こしてもらって、あれこれ言われながら朝ごはんの仕度を手伝わされたり、ときどき買い物につきあわされて、荷物持たされたり叱られたり命令されたり意地悪されたりしたいなあ。  なにを考えとるのか。 「はあ。あの」年上の美人というのは、今まであんまり興味なかったんだけどなあ。「もう、なんでも言ってください」  なにを言うとるのか。 「おいっ」と、汚い声がして幸平は幸せな気分に水を差された。玉田だった。「なにやってる。そんなのほっとけ」  そんなの。あんなのにそんなのと言われては立つ瀬がないではないか。  下品なぶさいくめ。 「ごめんね」鈴蘭は、幸平の手にハンカチを握らせると、知ってか知らずかキスでもするかのように幸平の口許というか耳というかとにかくそのあたりに唇を近づけてそう囁き、まだ子供の感覚で生きている十八歳の若者に一生残るような衝撃を与えた。そしてちょっと悲しげに微笑むと、小走りに玉田のところへ行ってしまった。  玉田が幸平を睨んでいた。  今ので一気に恋に落ちそうになって幸せいっぱいの幸平だったが、玉田の、自分のものはほんの少しだって人にはわけてやるもんかと言いたげな怒りの顔を見て、楽しい気分はさっと冷めた。  なんだか知らないが怒っていやがる。鈴蘭に向き直ると、なにやらぐずぐずと文句を言いはじめた。なんでおまえはいつもそうなんだ、とか言っている。  俺から見れば、おまえみたいなおっさんはその人に口をきいてもらえるだけで感謝しないといけないんだぞ似合いもせんのに高そうなだけの服着やがって、それのおかげでよけいにみっともないのがわからんのかおまえは知恵がないのか餌だけ欲しい原生動物か、とそこからえんえんと幸平は心の中で罵《ののし》る言葉を探し求めつづけたので、自分では気づいてなかったが思い切りいやーな顔をして、突然光を失ってしまったように見える鈴蘭と、その横で威張っている小さな太った黒い生き物を眺めていた。  鷹野が同じような顔をして鈴蘭と玉田を見ているのを幸平は知らなかったが、鮎だけは幸平と鷹野を交互に見つめ、鼻に皺を寄せて口を歪めて腕組みをして片足でどんどんと地面を踏んでいた。大変おもしろくなさそうだった。  が、突然鮎ははっとして、眼を見開いた。  そのとき鮎の眼には、鷹野が一瞬消えたように見えた。  低くアイドリングを続けるトラックのディーゼルエンジンの音が聞こえるだけだったが、鷹野にはなにか聞こえたらしい。  気づいたのは風に混ざる匂いの変化だったかもしれない。誰もなにも気づかなかったが鷹野は瞬時に反応した。  肩に下げていたサブマシンガンを暗闇に向けていた。その動作には途中がなかった。今までそこにぼんやりと人間が突っ立っていたのに、次の瞬間その空間には殺気を放つ肉食獣が出現したかのような現実離れした速さだった。  寺尾は鷹野の反応に反応したのだが、それでもほんの少し遅れただけで、ほぼ同時に同じ方向へマシンガンを向けていた。 「誰だ」  その場の全員が緊張する中、鷹野の誰何《すいか》に返ってきたのは苦しげな呻き声だった。 「撃つな」と、かろうじて聞こえた。「武器は持っていない」  森の方から、ひとりの男がゆっくりと現れた。負傷しているらしく、一歩進むたびに大きく左右に振れる。 「どうやら味方らしい」鷹野は寺尾が発砲しないよう手で制しておいて、自分がまずその男の方へと踏みだした。 「あんた、『鷹弦』の人だね」ヘッドライトの明かりが届くところまでやってきて、男はまぶしそうに顔をしかめてそう言った。この寒さの中、工員が着るような繋ぎの作業服しか着ていない。「合流は明日の予定だっただろう」 「いろいろ手違いがあってな」鷹野はまだ完全には警戒を緩めていなかったが、倒れそうになる男の脇を片手で支え、ゆっくりと地面に座らせた。「ここにいた連中はどうした」 「ああ」疲れ果てたように男はうなだれた。「見事なもんだった。逃げられないように爆発が次から次に起こって、それが外から俺たちを包囲してきたんだ。おかげでほとんど全員が負傷して動けなくなって」男は言葉につまった。 「どれだけ死んだ」 「いや。俺の知っている限りじゃ、死人は出ていない。負傷者だけだ。わざと爆発の威力を落として死なない程度に設定したんだろう。連中のやり方さ。怪我した仲間はほとんど国連病院の看護婦たちに連れていかれちまった。あいつら、なんでわかるのか知らないが怪我人が出るとどこからともなくどっと湧いてくるんだからなあ」恐ろしい連中だ、と男は首を振った。「死ぬより国連病院のほうが恐いのを知っていて、ナチのやつらはそれを利用してるんだ」 「いやあ、しかし」やらかしたのはこのおっさんですぞ、と河合は言いかけたのだが、男が現れてからずっと河合を警戒していた鷹野に眼で制され「寒いですな」  はあっ、と玉田が白い息を吐いて力を抜いた。信じられないものを見るように、河合を横目で盗み見ている。 「ここに残っているのは君だけか?」鷹野は探るような眼を男に向けた。 「わからないが、たぶんそうだろう」自分がまだ疑われているのに気づいて、男はちょっとうろたえた。「俺は、最初の爆発で飛ばされて、木の上にひっかかってたんで見つからなかったんだ」自分を囲むすべての人間にすがるような眼を向けて「いや、ほんとなんだよ信じられないかもしれないけど」  さっ、と全員の視線が幸平と鮎へ動いた。 「いや、よくあることだ」鷹野が言った。  それからしばらく沈黙が降りた。  トラックのエンジン音だけが耳に響く。ヘッドライトの光の中に埃が浮いているのを幸平はぼんやりと見ていた。  鮎がぶるっと体を震わせた。  寒いだけではなかった。 「どうします?」西畑が鷹野に訊いた。 「ここには百人近くの仲間がいた」ヘッドライトの光のせいで陰影の濃くなった鷹野の横顔が、煙の中に浮かび上がった。「ただでさえ限界だった病院に、それだけの怪我人が運び込まれたということは、もはや一刻の猶予もないということだ。それに、我々のことはすでにナチスに知られてしまった。船が来ない限り我々には生きる道がなくなったのだ」幸平さえいなければ、うまくいっていたのだが、とは言わなかった。幸平自身はそんなこと、全然気づいていないのだ。鷹野は全員の顔を見渡して「式典のある明日、ここにいる我々だけで予定通り作戦を実行する。寝ている暇はない」 「え、なんで?」と言ったのは河合だった。まだ二時すぎだから八時まで寝たら六時間は寝られますがなとぶつぶつ。 「今この瞬間から、作戦に突入したと考えてほしい」それを無視して鷹野は言い放った。しかしやはり完全には無視しきれなかったようで、ちょっと声がうわずってしまう。  作戦に突入してもいきなり状況が変わるわけではなく、あいかわらず幸平はトイレに行きたいのにどうすることもできずパンツを穿いてないのでちょっとすうすうする。他のみんなは鷹野が動くと、それにならっていろいろとやることをやりはじめたが、幸平にはすることがない。なにをしていいかわからない。小便がしたいとも言いだせず、そのへん真っ暗なんだから適当にやってしまえばいいようなものだが、鮎や美人のお姉さんがいるのでそれもできない。  二台のトラックのヘッドライトが消された。場所を移動して作戦の内容を、という声が聞こえ、レジスタンスの男を先頭にしてぞろぞろとみんなは歩きはじめた。おぼろげに人の動きは見えるのだが、さっきまでぼんやりとヘッドライトを見ていたせいで、幸平はいきなり訪れた闇に眼が慣れない。ふと気づくと、まわりの人の気配が離れていた。森の中に入っていくみたいだが、ここでも充分暗いのにまだそれより暗い闇に入っていかなくてはならないのだ。さっきからずっとほったらかされてひとりきりなのに、そんなとこに入ったらそれこそ迷ってしまってどうしようもないぞ。なんでみんな暗いのに見えるんだ。  ひとり取り残されると思って、幸平はパニックに襲われそうになったが、そのときすぐ横に誰かがいるのに気づいた。ああ、この人についていこうそうしよう。  幸平の手が覚えのある温かい感触に包まれた。 「ぐずぐずしないの」鮎だった。  思わず幸平は鮎の手を両手で強く握りしめ、心から言った。 「ずっとはなさないでね」男の台詞ではない。 「ばか」と鮎は言って手を離そうとしたが、幸平は一所懸命にその手を握って離さなかった。鮎はすぐに力を抜いて、わかった、というように幸平の手の中でとんとんと指を動かした。 「あなたの手の温《ぬく》もりが」少し離れたところから西畑の声がした。「死ぬまで私の心を離さない」  まったくそのとおりかもしれないと幸平は思った。今のこの温もりは、きっと一生忘れない。 「うーん、そんな気がする」幸平はぼさっと呟いてしまった。 「なに言ってんだか」陽気な声で鮎が囁くと、別のところで寺尾がくすくす笑った。  妙なことに、その場の雰囲気はなごやかだった。  かさかさと枯れ葉を踏む音をさせながら、一行は山の斜面を登っていく。ところどころ白く光るように見えるところは、少しだが雪が残っているらしい。鮎のおかげか、幸平はその場の人々との連帯感を感じ、理不尽な状況に置かれていることを理解しながらも、ある種のチームの一員と認めてもらっていることに漠然とした喜びを抱いた。  みんな態度にはあまり出さないが、それぞれが他のメンバーを気づかっているのが心地よかった。  けれど鈴蘭の瞳が涙に濡れていることに、気づく者はなかった。  鮎が首筋まで赤くなっていることも、誰にも知られなかった。  それから、玉田がスーツの内ポケットに手を入れ小さな電子機器のようなもののボタンを押したことも、知る者はなかった。  大量のビールでごきげんだったので、国連病院に収容されたレジスタンスの連中の中で、自分たちに起こったことをきちんと把握している者はいなかった。  ただもうひたすらに暴力的な看護婦にびびらされているばかりである。  ここの看護婦たちは、とにかくいつでもなんにでも怒りをぶちまけ、優しさや思いやりといった感情とはまったく無縁、患者が苦しむのを喜んでいるとしか思えない人間が見事にそろっているのだった。  怪我の治療は一応行われるので、ではそれでいいではないかと思いたいところだが、これがもう死んだほうがましと誰もが思うほどの苦しさ痛さで、なんとか退院にこぎつけたものは、二度とあの病院にだけは関わりたくないと口をそろえる。ただごくまれに、国連病院の看護婦が好きだという者もいた。看護婦さんに口汚く罵られながら、痛くされたり苦しい思いをさせられたりしていろいろいじめられたいのだそうだがよくわからない。わからないがなんというかもう言葉をなくすほど不気味な気がします。べつにいいけど、わからないねえ、と言いながらも、でもまったくわからないでもないよねと水を向けると、そうだなあまあちょっとその気持わかる気もするわなあ、などと言う人はもう完全に危ないところにいるので用心に越したことはない。 「えらいめにおうた」と、みすぼらしいが一応清潔なベッドの上で江井ヶ島地区のリーダーが言った。隣のベッドとの隙間は十センチほどしかない。「わしどこもなんともないのに、あっちこっちひりひりしみる薬塗りたくられて」顔も火傷しているらしいのだが、もともと真っ赤なので本人も気づいていなかった。「ものごっつ痛いわ」 「殺されたりはしませんわな」今にも泣きそうなのは西脇地区だった。「さっきの若い看護婦さんめちゃくちゃ恐い人やけど、ほんまはええ人なんですわな。わざとしとるんとちがいますわな」この人は可哀相に左腕を骨折した上に、あちこち火傷を負っていた。「わたしケツに十五本も注射されましてんけど、あれ、ちゃんと役に立つ注射なんですわな。痛いだけっちゅうのとはちがいますわな役に立つわな、そやわな」 「さあ」と江井ヶ島地区。 「さあ?」西脇地区は素っ頓狂な声をあげたところが急に動いて痛かったのかのたうちまわり「さあってどういうこと?」泣きながら言う。  各地区のリーダーがこの狭い一室に集められているのは、彼らが首謀格なので特別の治療をするとかそういうことではなくて、お稲荷さんが爆破されたときたまたま集まっていたというだけのことである。宴会が始まって、いや本来は「待機」であって「宴会」ではなかったのだがとにかく宴会が始まって三時間もたつとビールのなくなる倉庫が出てきて、他の倉庫のビールを勝手に取ってきたとか人の地区のビール盗るなとかどうせ自治会の金で買うとるんやからとかなんとか、くだらないいざこざが発生したので、どうしたものかとリーダーたちが集合していたのだ。 「さっきのどんぱちですけどな」と、大窪地区が言った。完全に無傷に見えるが一応いろいろと痛い目には遭った。病院で。「あれ、春の祭りで使われへんやろか」 「どやろね」 「鷹弦さんに頼んだら、できるんとちゃうか」 「わたしら怪我が治ったらここから出してもらえますわな。すぐ出れますわな」と西脇地区。  江井ヶ島地区は無責任に、さあ、と言いそうになったが西脇地区がすでにおろおろ泣いているのを見てあわてて真面目な顔になり、 「鷹弦さんが、どないかしてくれるんちゃうやろか」と言った。 「鷹弦さんに」と大窪地区。「緑ヶ丘でも獅子舞やるように、言うてもらわれへんかなあ」  なんでも鷹弦さんである。  結局、今回の作戦についての話題は全然出ないのであった。 「この時間は、もうテレビやってないんかな」一番入口のドアに近い高丘地区が、ベッドの横に備え付けのテレビのチャンネルをがちゃがちゃやりながら言った。頭に包帯を巻いているが、どういう怪我をしたのか本人も知らない。  どのチャンネルもノイズだけでなにも映らなかったが、ひとつだけ綺麗なカラー映像の入るチャンネルがあった。 「映画やな」 「珍しいな今頃」 「いっぺんわし、今頃の時間にチャンネルがちゃがちゃやっとったらなあ、なんや四国の方の商店街の宣伝がぼんやり映ったことあるで」 「えっ。ええなあそんなん見れて」 「別に嬉しなかったけど」 「妨害電波みたいなんやめて、よそのテレビも映るようにしてくれたらええのになあ」レジスタンスのくせに自分たちでなんとかしようという根性はないのか。 「ほら毎日昼過ぎから、ナチスの宣伝番組やっとうやろ」 「ああ『ナチスの宣伝』いうやつな」そのまんまである。 「あれの提供、榊《さかき》のくだもん屋やで」 「榊のくだもん屋いうたらあのおっさん今日いっしょに来とったやないか」 「なんでレジスタンスのおっさんが、ナチスの宣伝に金出すねん」 「あっ、このおっさん見たことある」テレビに映った外国人の顔を見て、江井ヶ島地区が叫んだ。「ローラースケート履いて、鉄の球投げよんねん」 「なんやそれ。あほちゃうか」 「で、今やっとるこの映画はなんちゅう映画やねんな」 「ちょっと待ってみ、新聞見たろ」テレビの横に置いてあった新聞を、高丘地区が広げた。『大久保町新聞』という、きわめてローカルな新聞である。「ええーっと、この時間やっとるのはと。まだ始まったばっかりみたいやな」 「なんや」 「『ミザリー』としか書いとらんけど、それやろか?」 「ふーん」  はっきりした理由はなかったが、なんとなく部屋に暗い重いいやーな雰囲気が満ちた。 「見んとこか」誰からともなくそう言いだした。 「うん、やめとこ。けそけそ」  高丘地区が大急ぎでテレビを消した。 「あ」と西脇地区が声を出した。どきっとして病室の全員が注目したが、それには気づかず「ヨシコさんに電話せな」ヨシコさんというのは、奥さんである。  動くと痛いので左腕をかばいながらゆっくりとベッドを降り、狭い隙間を爪先立ってよろよろとドアへと向かう。 「こんな夜中に起きとうだけでも恐いのに、電話なんかしとったらなにされるやわからんで」  江井ヶ島地区の警告に西脇地区がドアの前で迷ったそのとき、軋む木製のドアが力まかせに引き開けられた。  看護婦だった。 「こら」有無を言わさぬ口調で命令した。「ベッドに戻れ」 「あっ、看護婦さん」今までまったく目立たなかった気の弱そうな山門《やまかど》地区が、非常に嬉しそうに顔を輝かせた。「ぼくちょっと熱があるみたいで」頬を染めて、うっとりと看護婦を眺めている。  他の全員は犬の糞食った人でも見るように顔をしかめ、小声でひそひそと、 「変態やへんたいや」 「寝ろ」看護婦は部屋の明かりを消した。 [#改ページ]    'Round Midnight  歩いたのはほんの二、三分だった。少し山に入ったところの、木に囲まれた真っ暗な場所で、なにがあるというわけでもないだろうに鷹野がここで一応待機と言ったのである。  さっきのとこがだめで、ここがよいというその判断基準が幸平にはさっぱりだった。  焦げた木の匂いはまだ残っているが、それよりもここは松脂《まつやに》のような蚊取り線香のような、濃密な香りが強い。決していやな匂いではないが、木がこれほどまでに匂いを放つとは知らなかった。 「座ろ」鮎がそう言って幸平の手を引いた。嬉しいけど、ますますトイレに行けないと思う。地面が湿っているのではないかとちらりと思ったが、鮎が手を放さないのでしかたなくどすんと座る。やはり少し湿っているようだ。パンツを穿いてないからよくわかるのである。自慢にもならん。  空を見上げると、まっすぐの木が何本も聳え立っているのがわかった。杉だろうか。真っ暗なようで空は森より明るい。星は見えないようだけど。  ふ、と明かりが灯って突然いろんなものが見えるようになった。  鷹野たちがぼそぼそと話しながら小さな懐中電灯を点けたのである。  あるならなぜもっと早く出さないのだ。  幸平は暗闇でおびえた自分の醜態を思って、その懐中電灯に怒りを覚えた。さっさとそれで照らしてくれれば、ぼくだってすたすた歩けたんだ。  小さいくせにやけに明るい。レンズの部分を外してしまうと、蝋燭のように地面に立てることができるようになっていて、どうも遠目に見た感じだけでもただものではない懐中電灯だった。軍隊関係の人は、テレビや映画で見ていつも思うがいいものをたくさん持っているような気がする。  明かりの届く範囲に見えるのは、大木ばかりだ。  鷹野と寺尾、それに玉田の三人が地図か設計図のようなものを囲んで話をしているのが見える。河合と西畑はその向こうにいて、さっき合流してきたレジスタンスの男といっしょになにか飲んでいる。湯気がたっていて温かそうだ。鈴蘭は玉田の陰にいてよく見えない。いつのまにか、チャイナドレスの上に幸平が着ているのと同じような戦闘服を羽織っている。鷹野のものだ。怪我をしたレジスタンスの男は、どこか痛むのかほとんど動かない。怪我人ということなら寺尾も立派な怪我人なのだが、肩のあたりをバンダナで縛って保護してあるだけでこいつはもう普通に動いていた。トラックの中で、鮎がそれをやったのだ。ぼくが怪我したら鮎は介抱してくれるだろうか。  鮎の顔が横にあった。  肩が触れていることに、見えるようになって初めて気がついた。ごついジャケットのせいでわからなかったのだ。 「爆薬なしで、どうやって爆破するんだよ」はっきりと聞こえてきたのは玉田の声だ。他の人間は小さな声で話しているので、ほとんど聞き取れない。 「なければ手に入れるだけのことだ」かろうじて鷹野の声とわかった。 「手に入れるったって。あんたまさか」玉田の声はでかい。「こんなメンバーだけでなにができるんだ」 「恐いのなら帰れ」  玉田が黙り込んだ。 「検問所まで送ってやるぞ」鷹野は玉田を追い詰めるようにさらにそう言った。 「いやなやつだな、おまえは」玉田の声も低くなった。「俺はナチスにチェックされている人間だ。船でここから出る以外、行き場のないことはよくわかっているだろう」  あ、ぼくといっしょだ、と幸平は思った。好かんタイプのおっさんだとは思うが、同じ境遇の人がいるのは嬉しい。そういうものである。 「俺はわかっている。おまえはわかってないのかと思ったんだ」鷹野は冷淡な口調を崩さない。「わかっているなら泣きごと言ってないで、仕事をしろ」  間で困ったように鷹野と玉田を見比べていた寺尾が、よろしいでしょうか、と口を挟んだのをきっかけに、三人はふたたび静かな話し合いに戻った。 「おじさん、なんだかへん」ぽつりと鮎が言った。 「え?」幸平は鮎の方を向いたが、鮎はまっすぐ前を見たままだった。 「いつもは、人にあんな言い方しないわ」鮎は、ちらりと鈴蘭を見た。「あの人のせいね」 「女の人?」  鮎はじっと鈴蘭を見たまま動かなかった。幸平の質問にも答えない。 「あたし知ってるんだ」唐突に言った。またしても下水に住む妖怪の話や大男が三人で異入館を運ぶ話、これは鮎は言ってないが、とにかくそういうところへぶっとぶんじゃないかと幸平は身構えた。「パリのときだわ」出たー、と思ったが「おじさん昔、パリにいたんだって」いやいや話は飛んでいなかった。なんだつまらん。  おじさんおじさんと言っているが、鮎とあの鷹野という人とはいったいどういう関係なのだろうかと、幸平はずっと気になってしかたがなかった。でもそういうことというのは訊きにくい。でも知りたい。 「花の都パリで花の名を持つ美しい人に出会って、そして約束のとき、生涯の愛を誓ったはずの人は来なかったの」朗読でもするように、鮎はすらすらと言葉をつなげた。「それ以来おじさんは人を心から愛せないのよ」 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_185.jpg)入る] 「ねえ」ちょっと気になって幸平は言ってみた。「その話、君に教えたの、あそこにいる口髭の人じゃない?」西畑のことである。  鮎は、おや、と幸平を見て 「よくわかったわね」  やっぱり。 「なんとなくね」  西畑も、鈴蘭を見る鷹野がおかしいことに気づいていた。パリの女か、と思った。  なるほどそれなら、今までのことすべてに説明がつく。  鷹野は今、どんな気持ちでいることだろうか。西畑は、いつか鷹野に聞いたパリの話を思い出し、河合についでもらった熱い麦茶をすすりながら眼を閉じた。  十年も前の話ではない。  パリ郊外の田舎道を鷹野の運転するアルファロメオ・スパイダーが走る。助手席に身を沈め、風に長い髪をたなびかせて笑っているのは鈴蘭だ。  いやいや。  実際のところ鷹野はオープンカーを運転したことなど生まれてから一度もなかったし、鈴蘭とドライブした思い出もなかった。たぶん西畑の想像の元になっているのは鷹野の言った「髪の長い女だった」という言葉のみである。なぜアルファロメオ・スパイダーかというとフランス車のオープンカーというのを西畑は思いつけなかったので、フランスもイタリアもどっちもヨーロッパだから似たようなものかなと。想像というよりこうなるともう創造。  でも、西畑はどんどん思い出す。なにが本当かもう自分でもわからない。でも一応は実際に鷹野に聞いた話が元になっている。どだい話なんてものは、そういうものである。これを嘘だと怒る人ははっきり言って度量が狭い。知性が乏しい。  窓から凱旋門の見えるホテルのスイートルーム。ピアノの前で鷹野と鈴蘭はワインを傾けながら幸せな笑みを交わした。ピアノを弾いているのは太田じいさんだ。太田じいさんはパリに行ったことがないどころか大久保町から出たこともないのだが、そんなことは西畑にはまるで関係ない。  ふたりは初めて会ったその瞬間に、互いに相手のことを生涯をかけて愛していくべき相手だと知った。互いのすべてを知り尽くすのに、五分とかからなかった。出会った瞬間、ふたりともそれまでの人生が意味のないものだったことに気づいたのだった。ふたりの間に生まれた愛情はふたつの人格をひとつに溶け合わせ、ふたりを別の次元に運んでしまったのである。ふたりは本当の幸せがどういうものかを理解した。はいはい。  ところが約束の日に鈴蘭は来なかった。ごめんなさいとだけ書かれた手紙が、鷹野の手元に届いた。鈴蘭は鷹野の目の前から消えてしまったのだった。  なにがあったのか。  鈴蘭の愛情を疑うことはなかった。彼女なりの理由があったのだろうと思った。つらいのは彼女も同じなのだ。自分から黙って去っていくことを彼女が選んだのなら、彼女のその選択をも愛していこう。ふたりが死ぬまでお互いを思っていることだけは、確かなのだから。その愛情を幸せと感じて生きていこう。  ところが再会した彼女は男といっしょだった。それもどうにもつまらない男だった。あんな男を好きになる女を、どうして自分は愛したのか。あのときの愛情はただのまちがいだったのか。俺は自分で勝手に造り上げた幻影を愛していたに過ぎないのか。  完全に感情移入した西畑は、まるで自分のことのように胸が痛んだ。涙ぐんでしまうほどだった。  現実に鷹野と西畑が交わしたのはほんの二言三言で、それも一度だけのことである。  酒を飲みながらの会話は実のところ次のようなものだった。 「もうほんと、こいつさえいてくれたら他の女なんか見たくもないというような、そういういい女はいないもんですかねえ」 「誰にもそういうのがひとりくらいいるんだよ」と鷹野がぽつりと言った。かなり酔っていたのである。「ただ、会えないだけさ」 「鷹野さんはまだ会ってない?」 「会ったさ。パリでな」 「え。それで今は」 「さあな。髪の長い、花の名前の女だった」 「へえー、でもそういう人が見つかっただけ幸せですよね」  ふと西畑を見た鷹野は穏やかに微笑み、 「そういう考え方もあるな」  それだけ。  しかし偶然にも、西畑の想像は実際に鷹野と鈴蘭の間に起こったこととよく似ていた。ディテールの差や細部の違い、あーおんなじか、はあるものの、おおむねそのとおりだった。恋愛なんか実のところ、たいていどれも似たり寄ったりで、ものすごい体験をしたと思っているのは普通は本人だけである。本当にあのときはつらくて人間が信じられなくなったなんて、恥ずかしいので人に言うのはやめていただきたい。  だから西畑の想像の大筋は、実際に起こったことの大筋とあまり変わらなかった。そして、西畑の話を聞いた鮎が、多少の誤解をとりまぜて勝手に解釈したできごとも、大筋を幸平に語ったときには元の話に近いものとなっていた。  そういうものだ。 「でもあの女の人、どうしてあんなのといっしょにいるんだろう」幸平には、それがどうしてもわからない。 「どうにも釣り合わないよね」と鮎。「それに、おじさんとあれとじゃ比べる気にもならないわ」 「君たちにはまだ難しいかもしれない」  突然耳元で声がしたので、幸平も鮎も驚いてふたり身を寄せ合った。  西畑が、幸平の隣にいた。いつ来たんだろうか。 「男と女。その間には無限に広がる幸福と、悪魔の奸計《かんけい》とが同居している」うんうん、としたり顔。 「どういうこと?」鮎と幸平は間髪入れずに同時に訊いた。 「え」西畑はふたりの勢いにちょっとたじろいで、それでもなんとかすぐに立ち直り「愛情の深い人々はときとして、それがために不幸になることも少なくはない」 「どういうこと?」また同時に訊いた。 「あー。つまりね、たとえば。この世の宝たりうる美しき人は、ときとしてその価値をわからぬ愚かな者に惹かれることもあり」 「どういうこと?」まだ途中なのに同時に訊いた。 「え。だからつまり」まいったな。「あのさあ」急に砕けた口調になって「心の優しい人がいたらみんな大事にするでしょう? だけど馬鹿なやつはその値打ちがわからないから、たまたまその人の姿形が綺麗だからというだけの理由で、その人の気持なんか無視してどんどんあつかましく口説くわけ。するとさ、その女の人はその男のこと、他の男とはちょっと違うって思っちゃったりするんだよ」 「ああ」と納得した鮎。「でも、そんなのちょっといっしょにいれば馬鹿だってわかるじゃない。どうしてずっといっしょにいるの」 「愚かで醜いものにこそ自分が必要と考える。この世の宝にして天使のような君はかくして逃れようのない不幸にその御脚《みあし》をからめとられ、それこそが悪の狙いと気づかぬままに一生を終えるのか」  鮎と幸平は顔を見合わせた。 「わかった?」お互いに同時に訊ねて、 「ううん」と同時に首を振る。 「じゃ、わたしはこれで」無責任に、西畑はまた鷹野たちのところへ戻っていった。  わかったようなわからんような。  なんだったんだろう今のは。  しばらくふたり、手をつないだままじっと黙っていた。 「じゃあ、鷹野さんはあの女の人のことを恨んでるのかな」と幸平は深く考えもせずになんとなく口にしたのだが。 「そうじゃないと思う」鮎はものすごく敏感に反応して、きっと幸平を見た。「そうじゃないと思うよ」 「え」いや、別にどっちだっていいんだけど「そうかなあ」 「そうよ。そんなの決まってるじゃないの。よくわかんないけど」ふん、と鼻息を荒くする。怒っているのかなんなのか。  この子、あの人のことが好きなのかな、と幸平は思った。しかしわからない。それならなぜ今、ぼくの手をずっと離さず握っているのだろう。  女の子はわからない。  手を離すと、もうそれっきりになりそうで恐くて、トイレに行けない自分はよくわかる。 「うまくいくかな」鮎が、自分の膝に向かって言った。 「えっとその」顎から首筋にかけての線が綺麗だなあ、と幸平は鮎の横顔を眺めた。「大砲爆発させる作戦?」  こく、と鮎は頷いた。 「あたしね、スイスへ行くの」 「はあ」スイス。で、君の話はどこへ行くのかな、と幸平は言いそうになってやめた。茶化すには、鮎の眼の光は美しすぎた。薄いオレンジ色の明かりを反射して、鮎の瞳は濡れて輝いている。泣いているようにも見える。きつい口調で話しても、それがこっちの気持に突き刺さらないのはこの眼のせいかと幸平は気づいた。どこか幼くて、澄んでいるのだ。 「お母さんがね、スイスの病院にいるの」と言って鮎は、何度か眼を瞬かせた。「重い病気だったからお父さんがね、いっしょについてったの。ここの病院には入れられないからね」  ここの病院がひどいということは幸平も聞いていたので、理屈はなんとなくわかった。 「どうしてそのときご両親といっしょに行かなかったの?」幸平は訊ねた。習慣とはそういうものだ。あれだけいろんな目に遭っておきながら、まだこの町からは出ていきにくいのだという事実が実感できていない。  鮎は、この人なにを言っているのだろうという顔で、ふと幸平を見たが、そうかこいつはよそものだったと気づいたのか、ふたたび表情を和らげた。 「ふたり分の許可証を取るのが精一杯だったのよ。鷹野のおじさんがいろいろ手配してくれたんだけど」と、そこでまだ説明不足だということに思い当たり「お父さんとおじさんは、昔からの友達なの。それで、お母さんともなかよしで、おじさんはいい人で、いろんなことが上手で、優しい人だから、がんばっていろいろしてくれたのよ」  やっぱりこの子は、あの人のこと好きなんだな、と幸平はがっかりしながら考えた。けど別にがっかりすることはないよな、と考えなおす。この子のこと、ぼくなんとも思ってないし。  すると、鮎は軽く添えるように握っていた幸平の手をぎゅっと強く握った。  好きだなあ、と思う。 「最後に手紙をもらってから、もうすぐ半年になるの」鮎は言った。微かな声の震えに気づき、幸平はどきっとした。「お母さん、あまりよくないって書いてあった。その手紙のあと、船が全然来なくなって、なんの連絡もなくなって、こっちからも手紙送れなくて。もしお母さん、もう死んで……」  鮎は眼を閉じ、下を向いた。固く閉ざした瞼の間から涙が次々と湧き出てくる。  幸平にはなんにも言うことがなかった。大丈夫、お母さんはきっと元気になってるよ、というのも無責任な気がする。 「なにか言ってよ」鮎が幸平を見ていた。「ばか」また下を向く。鼻をすする。息を震わせる。 「えっ」困った。なんと困ることを言う女の子なのだろうか。映画なんかだと、こういうとき肩を抱いてよしよし泣くんじゃないよいいから好きなだけ泣けばいいよとかどうさせたいのかよくわからないが、とりあえずここは肩を抱こうと決心した幸平は、しかしそれがなかなか簡単にはいかないことに気づいて考え込んだ。左側にいる鮎を抱くためには左手が動かないことにはどうにもならないが、左手は鮎の手に握られているのでこれは離したくない。それならばよし、右手では、とどう考えたって無理に決まっているのになぜかできそうな気がして自分の左肩を触って後頭部を触って脇腹に手をあてて、うーんやっぱり無理かと確認し、肩を抱くのはあきらめた。さてどうしよう。 「長いことかかって計画したのに、仲間の人たちは捕まって、爆弾はなくなっちゃったのね。チャンスは明日しかなかったのに」どっと泣いて気がすんだのか、鮎はまた普通の声に戻っていた。泣いている間になにかぐっと来るようなことを言いたかったのに。幸平の個人的なチャンスは過ぎ去った。  まあしかし、女の子の考えることはさっぱりわからない。優しくしてくれるからなんとなく甘えそうな気分になると、今度はどっとこっちを頼るようなことを言う。どっちかというとどっと甘えていたほうが楽なのだが、頼られるのはそれなりに嬉しい。なんにしろ、綺麗な女の子というのはそばにいてくれるだけで、それはなかなか幸せなことである。その分なにかしてあげたいという気にはなる。いや、でも綺麗なだけでいやなやつというのもいるからなあ。鮎が綺麗なのは笑ったり泣いたりする顔が素直だから、いやすましていても綺麗なことは綺麗。いや、でもなにか言って元気づけてあげたいと思うのは、別に綺麗だとかそういうのは関係なくてこれはただの親切心というのか自然な気持ちというか。 「どうして黙ってるの?」不安そうに鮎が言った。怒っているのではなく、心細くて敏感になっているのだろう。幸平が機嫌を損ねたと思ったのかもしれない。 「いや、その」と、とりあえず微笑んで安心させてあげて、そうしながらも頭の中は猛烈な勢いで回転する。なにか言わなきゃ喜ばせるようなことだ嬉しくなるようなことだ。「なにかしてあげられること、ないかなと思って」あーっ、もひとつだった。あんまり気がきいてなかった。 「そばにいて」短くそう言うと、鮎はすました顔で前を向いてしまった。  甘える口調はなく、けっこうきびしい強い言い方だったが、幸平は居住まいを正してしまうほどどきどきした。  そわそわしてしまう。胸がぐっとなって深く息を吸わずにいられなかった。  いやしかし、なんでだろうか。ここまで頼りにされるようなことなんにもしてなくて、どっちかというと不細工なことばかり。  いやもうなんだっていい。そう言ってくれるのならなんだってしてやろう。  とはいえ、できることなんかなんにもないのも事実だった。どうやら今回の作戦というのは、だめみたいで、この失敗の責任というのはあの色黒のでぶのおっさんにある。あいつがまちがえなければ、ここにいた人たちと合流して、余裕の作戦だったわけだからな。  と、そこまで考えて幸平はじわっといやな感覚がおなかの方から上がってくるのを感じた。  ちょっと待ってみよう。  玉田が爆弾をいっぱい使ってナチスの気を散らしたのは、そうしないとすんなり鷹野さんと合流できないと考えたからだ。なぜすんなりいきそうになかったかというと、町中が警戒体制に入っていたからだ。なぜ警戒体制だったかというと、  ちょっと待ってみよう。ちょっと待ってみよう。  警戒体制というのはぼくを捕まえようとしてのことで、寺尾がかんちがいして木山大佐のところから大げさな逃げ方をしたからああいうことになってしまった。  なんだ、一番悪いのは寺尾だった。  よかったよかった。と、心から安心できないのはどうしてか。 「あのさあ」幸平は、ついに口を開いた。鮎の顔を恐々《こわごわ》上目づかいに眺める。 「なに?」幸平のつらそうな気配を感じたのか、優しく明るい表情で鮎はそう言った。どこか痛いの? と眼の高さまでしゃがんでくれる美人の幼稚園の先生みたいだ。その優しさが、かえって幸平に次の言葉を言いだしにくくする。「どうしたの?」 「うん」と幸平は口ごもって「ほら、もしぼくがここに来なかったら……」  鮎はほんの少しだが、表情を固くした。でもすぐにまた優しい顔に戻った。さっきより、もっと優しくなったような気さえする。 「最初はちょっとそれ、思ってたよ」と、鮎は笑った。「でもね、こういうのは、誰が悪いとか誰のせいとか、そういう問題じゃないからね」 「あー」やっぱりそうか。やっぱりぼくのせいか。  やっぱりもなにも、はじめっからはっきりしているのである。  幸平さえ来なければ、地雷原の突破がなかったのでもう少し街は穏やかだった。玉田は爆弾騒ぎを起こさなくても、検問所をごまかすか、もしトラブルが発生して捕まっていても寺尾の案内ですんなり鷹野に会えた。警戒体制もなく、地下を調べられることもなかった。爆弾もレジスタンスの仲間も揃っていて、予定通りに作戦を行えた。幸平が窓から顔を見せなければ、店に踏み込まれることもなく寺尾も撃たれなかった。鮎も空に舞い上がって木にひっかかったりしなくてすんだ。  なにもかもだいなしにしたのは、幸平である。  そうかあ、それで最初あんなにつんけん意地悪してたんだ。 「ごめんね」なんの抵抗もなく口から言葉が洩れていた。本当に悪いと思った。町のことがどうとか、病院や患者やレジスタンスや、そういうのは実感がなくてどうでもよかった。ただもう病気のお母さんに会いたいという鮎に対して、すまない気持でいっぱいになった。 「いいの。そりゃあたしかに、君のせいで作戦はめちゃくちゃになっちゃったよ」  ぐぎっ、と幸平は音が聞こえたかと思うほど胸が痛んで声を出しそうになった。「君のせいで」というところがとりわけこたえた。鮎は幸平の痛みを知らずに、さらに続ける。 「明日みたいなチャンスはきっともうしばらくないだろうっておじさん言ってたし、このまま突き進んでも、ここにいるだけのメンバーじゃものすごく難しいと思う」 「うー、悪かったよーほんと」なんでもするからさあ、と泣きそうになる。 「いいのよ」鮎の笑顔の奥に、いたずらっぽいものを見つけて、もしかしたらわざとぼくをいじめてるんじゃないか、と幸平はちらっと思った。「完全に望みがなくなっちゃったわけじゃないでしょ。だめかもしれないけど、誰もあきらめてないもの。それに、不運なときにはそれなりに幸せなことも、どこかに少しはあるものよ」 「そう?」いつも自分が思っているようなことを鮎が言っているのに、それには気づいてなかった。「まあぼくは、君と会えたからけっこう幸せだけど」と謝罪の意味もこめてそういうことを言ったのだったが、言ってから後悔した。しまった馬鹿だと思われるぞ。  鮎は聞こえなかったのか、しばらくぼんやりとしていた。それから、 「まあね」と小さく言った。幸平の言葉に対する返事なのか、次の話題へのとっかかりなのか判断しにくかったが、そこで鮎はまた口を閉じ、それ以上この話題はやめましょう、というように小刻みに頷くと膝に顎を載せて黙ってしまった。  もう少しきちんと謝っておきたい気がしたが、鮎がもう話したくないみたいなので幸平は黙っていた。なにかしてやりたいが、実際できることなんか本当になんにもない。しょうがないので、鮎の細く柔らかい手をほんの少しだけ強く握り、ぼんやりと鮎の横顔を眺める。  すーっと鮎が勢いよく息を吸い込んだ。また泣くのかな、と思っていると、 「なに」と、言った。どこか焦ったような声だ。幸平に言っているのではなく、見えない誰かに対して反応したみたいだった。「なに」と、また言った。 「え?」どうしたの、と幸平は鮎の視線に近づこうと頬を寄せる。 「なんなの? なんでじろじろ見るのかな?」早口で囁く。視線は遠くに向けたまま。 「はあ?」じろじろ見るとは、ぼくのことか、と気づいて「ああ」と納得しながら、でもなにを言っているのかよくわからなかった。  あ、とその表情を見て思い出した。こういうのはたしか三回目だ。子供みたいに純粋な感じがして、それで印象に残っているのだ。  唐突に優位に立ってしまった幸平は、余裕の笑みを浮かべてぽつりと言ってみた。 「あんまり綺麗だから、つい見てしまうんだよ」 「ははは、なに言ってんの」小馬鹿にしたような顔で平静を装ってはいるが、これはきっちり動揺しているのだ。「あのね、最初は幸平君は作戦に参加させると言ってたけど、あれはそうじゃなくてあたしたちといっしょにいたほうが安全だろうからそうしようと言ってたのね。おじさんがね。他の人たちに説明するのにそのほうがいいでしょ。他のレジスタンスの人に、関係ないけど守ってやってくれなんて言えないでしょ。ねえ。木がたくさんあると、そんなに寒くないよね」ここからはしばらく木の話が続く。  地下で食事を出してくれたときと、ほとんどおんなじ反応だ。  その前にも一度こういう顔を見たけど、と考えた幸平はすぐ横の鮎から微かに漂う香りに、なぜ懐かしい記憶をつつかれるような気がするのかということに思い当たり、そこで自分の考えに嬉しくなってしまってほとんど腰を浮かしながら大声で叫んでいた。 「やっぱり、人工呼吸してくれたんだ」 「ば」とだけ言って鮎は言葉を呑み込んだ。さっと幸平の手から自分の手を引き上げる。  幸平の大声に、鷹野たち全員がこっちを振り向いた。人工呼吸という言葉が聞き取れたらしく、寺尾が親指を立ててにっこりと幸平に笑顔を向ける。 「やっぱりそうか」十八歳の少年にとってこれはおおごとだ。「ありがとう」 「どういたしまして」そっぽを向いたまま、口の中でもぐもぐと鮎が言うのが聞こえた。 「ぼく」と幸平は言って、すっくと立ち上がった。「ちょっとトイレに行ってくるよ」  はー、と鮎が脱力した。  幸平を見上げ、睨みつけようとしたようだったが、幸平と目が合うと、 「まったくもう」と言って憤慨しながらも口許が笑ってしまっていた。「なに馬鹿みたいに嬉しそうな顔してんのよ」 「だって嬉しい」幸平は、嬉しくて嬉しくて、うーっと唸って身悶えし、弾けるように暗闇へと走った。  闇の中、地面近くに見えるか見えないかの小さな赤い光がひとつ浮いていたが、幸平は気づかずに光の方へ走っていった。  光はたったひとつだったが、人の気配はあたりを囲んでいる。  幸平は早く用をすませて鮎のそばに戻ろうと、そのことしか考えていなかったので、どこかで枯れ枝を踏む音がしたのにも気づかなかった。  赤い光は、夜間戦闘用の画像増幅スコープサイトシステムに電気を供給するバッテリーの、充電量を示す発光ダイオードだった。発光ダイオードなどというものがついたバッテリーを、夜間の戦闘に用いるなど馬鹿馬鹿しい限りだったが、大久保町の物資不足は軍とて例外ではなく、このバッテリーは実はソニーの古いハンディカム用を利用した手作りだった。ビニールテープで隠したつもりが兵士の腰で揺れるうち、剥がれて光が洩れていたのである。  大きく前に突き出た暗視ゴーグルのために機械人間のような形相《ぎょうそう》をした兵士は、約六万倍に増幅された光によって浮かび上がるモノクロの景色の中に、走る人影を見つけた。  こちらへ走ってくる。  発見されたか、と一瞬ぎくりとする。いや、見つかるはずがない。  アクティブ赤外線暗視スコープの場合、赤外線ビームを照射しその反射像を増幅させるため、敵に赤外線探知をされるとたちまち居所を知られることになるが、これは最新式のイメージ・インテンシフィケーション・システムだ。赤外線は利用しない。微かな光を逃さず何万倍にも増幅し、ゴーグルに画像を結ぶ。少し前までの画像増幅システムは、雲のあるときや森の中ではほとんど役に立たず、パッシブ赤外線スコープを使うことが多かった。しかしこの日本製の軍用照準器は、それまでのスコープをすべて一世代前のものにしてしまうほどの解像率を誇る。しかも特殊フィルターと先進の電子制御によって、突然の光にもブラックアウトせず、眼をやられることもない。眼の前でカメラのフラッシュを焚かれても、ほんの数秒間視界が白くなるだけなのだ。恐るべし、非武装日本。  この闇の中で、向こうからこっちが見えるはずがない。見えていないからこそ、走ってくるのだ。わかっていてわざわざ敵の中に走り込んでいく阿呆はいない。  兵士はそう判断し、静かに腹這いの姿勢をとると、ゴーグルの中に白く輝くレーザーポイントを人影に合わせた。ライフルの先端部にあるレーザーユニットがゴーグルと連動し、着弾点を正確にマーキングしてくれるのである。  ところが狙撃手になったばかりで、かっこいい最新装備にうきうきしているこの兵士は、暗視ゴーグルの倍率に関してまったく注意を払っていなかった。このサイトシステムは〇・五〜一〇の可変倍率を採用している。裸眼視よりも小さく見える倍率を持つのはゴーグルの性質上どうしても狭くなる視界を少しでも確保しようという理由からである。もちろん狙撃時や移動中には使用しない。  ところが今、倍率は〇・五だった。まさか小さく見える倍率などあるとは思っていなかったので一番端の目盛りに設定して安心していた。  人影が近づいてきて、五メートルほどまでやってきたなと彼が感じたとき実はもう目の前に迫っていた。人影はものすごい加速をした。ように見えた。視界いっぱいに少年の下半身。 「どわっ」  顔を蹴られて、背中を踏まれた。  なにかに足をとられて幸平はひっくりかえった。  あわてて起き上がり、どっちから来たかわからなくなっては大変と、明かりを探したところが今の物音を聞いて用心したのか、あるかないかくらいだった明かりがふっと消えた。  どこだどこだ。  なんにも見えないのでパニックに襲われ、ごそごそとあたりかまわず触りまくる。  なにか機械のようなものが指に触れ、どきっとした。どきっとしたついでになにかつまみをぐるりとまわす。なんだろうこれ。 「わーっ」と手の下で叫び声があがった。びっくりして幸平は跳び退いたがもっと驚いていたのが、幸平にゴーグルの倍率を一〇にされた兵士である。  いきなり眼前にぎょろぎょろした巨大な目玉がひとつ。映像はモノクロなのでよけいに気色悪い。それが自分の方を見ていた。ふと横を見ると今度は地面近くにひくひく動くへんな生物。実は幸平の手なのだが。 「ひえーっ」  自分が恐がらせているとは思わないから、幸平もなにか危険が迫っているのかと恐くなった。しかし、どこへ行こうにも見事になんにも見えない。今度は手をつないでくれる鮎もいない。  頭の後ろに、固いものが当たった。  どきっとして声をあげそうになるが、すぐに両側から脇腹にふたつ、同じようなものが押しつけられてしまって息を呑む。銃口だということはわかった。 「声を出すな」と背後から声がした。 「はい」と口に出して返事してしまう。 「出すなって」言っとるでしょうが。と急に裏返った声でぶつぶつ。 「ばけもんだあ」と、地べたの方でまたさっきの声が悲鳴をあげる。 「なに言っとるんだそいつは」 「さあ」  すると悲鳴の主は、次々にいろんなものを見たらしく、 「うわっ、みんなでっかい」自分の手を見て「わー、腫れてる」  ぼこ、と音がして悲鳴がやんだ。 「手袋ごと腫れたりするかっ」誰かが頭を殴ったらしい。  幸平の耳の近くでピシッという微かな音がした。その後に耳障りな甲高い声が小さく続く。無線のマイクだ。 「えー、二班の藤原伸介やねんけどね(藤原伸介なのですが)」 「ばかっ、コードネームを使えコードネームを」と、幸平の後ろの男は早口に怒り、はっと気づいて「名前まで言いやがって馬鹿が。せめて名字だけにするとかおまえ」 「あーそうか。はい、こちらコードネーム、ステファニー」と、低く野太い声が無線から答えた。 「了解ステファニー」と、幸平の近くの別のところでそれに答える声がする。「こちらマリリン」 「オカマバーじゃあるまいし」吐き捨てるように幸平の後ろの男が言った。この人だけはちょっとまともである。「どうした」ちょっとためらって「す、ステファニー」 「逃げられてもてんがえ(逃げられてしまったのです)」と、ステファニー。「わやじゃ(非常に困ったことです)」 「まあ大変」と、マリリン。 「おまえらちょっとは軍隊らしくしろよな」と、後ろの男。マイクに向かって「こちらエリザベス」あんたもかいな。「月組と星組は捜索を続行せよ。他は撤退し、次の情報を待つ」  幸平は後ろ手に手錠を掛けられた。  兵士の体温で温まっていたらしく、金属の手錠は冷えた手首に温かかった。事態はまったく最悪だが、ちょっと温かいのがちょっとだけ幸せ。と考えてみたが、それくらいではどうにもならなかった。逃げた、ということは鷹野たちは幸平を見捨てたのだ。  闇の中、へんな町、つかまってしまって、たったひとり。  けれどなにか、すがる部分がある気がする。手錠があったかいなどというどうでもいい小さな幸せでなく、もっと、この事態の中で気持を支えてくれるなにか。  背中の真ん中にマシンガンかなにかの銃口が強く押しつけられた。押しつけるというよりもかなりの力で突かれたので、あまりの痛さに一瞬猛烈に腹が立ったが、 「あ、ごめん」と、突いた男がすぐにあやまったので、 「あ、いえ」と、勘弁してしまった。突いたほうも、悪気はなかったらしい。  背中に銃口、後ろ手に手錠、そして両側にひとりずつ兵士がついて幸平の腕を掴んでいる。連中は互いによく見えているらしいが、幸平はまったくなんにも見えないので、両側についていてもらったほうがこけずにすむからありがたいと言えばありがたい。 「こっちだ」と、耳元で声がして、森の中を進みはじめたとたん、 「ぎゃっ」と悲鳴があがった。続いて、ご、という木と木がぶつかるような音。  殴られて気絶していたさっきの間抜けな狙撃手が、目を覚ましてふたたび巨大な光景に驚き、勢いよく跳びすさって背後の巨木に強く頭を打ちつけたのだった。この木は実際に大きかった。 「あいつどうします?」と、右側から声がして、 「ほっとけ」と、少し離れた後ろからしっかりした声が聞こえた。エリザベスである。 「あいつでしょ。このあいだ、暗視ゴーグルしたまま煙草に火を点けようとして、あわててライター放り投げたやつ」 「え」と左側の男。「もしかして兵舎裏の貯蔵庫、全焼したあれか?」 「いやいや、あれは山田さんだ。あいつがやったのはB地区の火薬庫」 「あああれか。先月は水本さんもやったんだよね。ガソリンタンクで」  しょっちゅうやっているらしい。 「馬鹿どもめ」と、エリザベスが吐き捨てた。しゅぼっ、とオイルライターを点ける音。「わっ」エリザベスはびっくりしてライターを投げ出した。  人魂《ひとだま》のような小さな火が弧を描いて飛ぶのを幸平は見た。  全員がその火に注目した。  全員が暗視ゴーグルを装着していたので、全員がまぶしくて眼を覆う。  火は枯れ葉に燃え移って、たちまち焚き火ほどの大きさの炎となった。  幸平は背中の銃口が離れ、両側の兵士が手を放したのを感じて後先考えずに逃げだした。 「止まれっ」鋭く叫ぶ声があったが、それくらいで止まるわけにはいかない。  ひゅっ、という音が耳元をかすめた。ほとんど同時に、きゅん、という音もした。弾丸が木に当たって跳ねたのだとわかった。  恐怖が喉の奥からぐいぐいとせりあがってきて、膝の力が抜けそうになる。撃ってきやがった。危ない連中だ。当たったらどうするつもりだ。  ぱん、ぱん、と情けないような乾いた音が連続する。映画と違って実にちゃちな音だ。  木が多いのでそう簡単には当たらないはずだと、どこか冷静な部分が考え、大木の陰にまわろうとどたどた走る。ところが大木の陰は、そこはもう闇で、炎の明かりは届いていなかった。うっすらとしか見えない木と木の間を走り抜けるつもりが、そこは間ではなくて真ん中のどでかい一本の黒い木だった。  弾を避けようと頭を低くしていたので、そのまま大木に頭からぶち当たってしまい、脳天がぐにゃりと曲がってしまったかのような衝撃を感じて、前後左右の感覚がなくなる。 「あはははは」つい笑ってしまった。  意識を失う直前、大木にぶつかっていく自分の後ろ姿を高いところから見た気がした。第三者の眼で見ると、そうと知らずに全力で自分を痛めつける姿というのは笑える。両手を後ろにまわしたままなので、よけいにかっこ悪い。  気を失うのは楽な道だった。つらいこと恐いことから、とりあえず逃れられる。  楽しいことだけ考えよう。そうそう。鮎だ。ああいう綺麗な子となかよくなれてよかったよかった。  なのに薄れゆく意識の中にはっきりと浮かんでしまったのは、どういうわけか小学校四年のときの担任の増田先生の出っ歯剥き出しの笑顔だった。  かんべんしてくれ。  銃声に鮎は足を止めた。 「幸平君」口の中で小さく叫ぶ。  誰かが鮎の腕を取って走りつづけるよう促した。 「必ずまた会える。今はそう信じて走るしかないんだ」西畑だった。 「トラックはあきらめよう」寺尾の声がした。 「なんにも見えないぞ」玉田の泣き声だ。走り慣れていないので、もう息切れを起こしていた。「みんな見えるのか。おい、鈴蘭、すずらんどこだ。ねえ鈴ちゃん」  闇の中を走りながら、鈴蘭は答えなかった。  鈴蘭の手は鷹野の腕を掴んでいた。 「離すなよ」前を向いたまま、鷹野は呟いた。  鈴蘭は頷いたが、それは誰にも見えなかった。 [#改ページ]    Think  明け方に一度目が覚めて、トイレに行きたくてしょうがなかったのでそのまま眠っていたかったがしぶしぶベッドから出た。起きてしまうのはなんとなく悲しい気がして、すぐにまた眠りに戻れるようわざと眼をあんまり開けずに半分寝たままの状態を保ちつつ、トイレの扉へ向かったのだが、そっちにトイレはなく、ああぼくはこれ寝ぼけてるんだなとへらへら笑いながらトイレを探し、なんとか用を足すことができた。  歌を歌ったような気もする。  用を足しながら夢を見たのか「ものすごく大量に勢いのいい小便をした」と誰かに自慢している自分の姿を覚えている。「一時間くらいごうごう出っぱなしで足は疲れるわ便器は割れるわ」  どうやってまた寝たのかは覚えていない。  とてつもない夢ばかり見た気がするのだが、それもほとんど覚えていない。  曇った冬の朝は暗く、寒く、毛布は黴《かび》臭く、緩やかに覚醒していく幸平の頭脳は、今日は早く起きなくてはならないようななにか用事があっただろうかと考えた。  枕元にいつもあるはずの目覚まし時計がない。枕の向きと窓の位置関係がいつもとちがう。  ここは自分の部屋ではない。  そうだ、アルバイトだ。今日は起きてアルバイトに行かなくてはならない。いや、そうじゃない、ここはアルバイト先の宿舎だ。どうもいつもと感じがちがうと思った。  体のあちこちが痛い。  特に頭が痛い。  ちょっと血が出たみたいで髪の毛にごわごわするところがあるけど、気のせいだと思う。  動くと寒い。  薄い毛布を首の回りに固く巻きつけ、横を向いた体を丸めた。  なぜ自分のではないごつい戦闘服を着たまま寝ているのでしょうか。  いやないやな、思い出したくないいやな記憶がじわじわと胸の奥から湧きだしてきて、吐き気のような圧迫感に襲われた。  もう一度、寝よう。  まだ起きなくてもいい。アルバイトなんかやめよう。もう大学も決まったんだから寝てたってかまわない。それにまだ暗い。朝はまだ来ない。もう来ない。ずっと寝ていたい。  がちゃがちゃと鍵を開ける音が聞こえ、それから重い鉄の扉が勢いよく開けられるどかんという音がした。  が、知らん顔をすることにした。  まだ寝てるみたいだね、とか言ってそのまま行ってしまってくれないかと期待したのだが、案の定だめだった。 「起きろ」固く冷たい声がしたかと思うと、返事をする間もなくつかつかという靴音がベッドのそばまでやってきて、容赦のない力で無理矢理ベッドから引きずり下ろされた。これだけされればはっきり目が覚めてもいいようなものだが、どうもまだ少し眠くて、そのせいかあまり恐いともなんとも思わない。膝がバネにでもなったみたいにふわふわと上下する。なんとなく楽しい。 「歩け」命令を下しているのは軍服に身を固めた大男で、部下らしいあとのふたりがこの男のことを恐れているのが幸平にもわかった。三人ともどうやら日本人らしいが、大男の表情には人間らしいものがまるで感じられない。鷲の紋章がついた帽子の陰からガラス玉みたいな眼で幸平を見ていた。  ふたりがかりでやっと立っている幸平の、皺の寄った野戦服をちらりと見てほんの少し眼を細めはしたもののなにも言わない。くるりと体を回転させて背を向けると、かっかっと編み上げブーツの踵をコンクリートの床に叩きつけながら歩きはじめた。  寺尾もそうだが、どうしてこうロボットみたいなやつばっかりいるんだろう。  もしかすると本当にロボットで、ここでひとこと「止まれ」と言ったらそのとたんぴたっと止まって「はい、ご主人様」とか言わないだろうか。「飛べ」と言ったらブーツから火が出て飛んだりして。膝からミサイルが飛び出たり、指先から光線が出て宇宙人をやっつけたり、寺尾とこいつと、あともうひとりくらい似たやつがいて三人で合体してもっと大きくてもっと強いテラオンダーVかなんかになってめちゃくちゃ強いんだから政治的な知恵さえあれば地球規模で役に立つだろうになぜかいつも同じ小学生の女の子ひとりを助けるためだけに必死こいて戦ったりするのだ。ありがとうテラオンダーV。  止まれテラオンダーブラック、と言いたい馬鹿な欲求と戦いながら、両脇をこれもまた無表情な兵士ふたりに抱えられ、歩くというよりもぶらさげられていくという状態で幸平は部屋を出た。  見覚えのある廊下だった。  この町に来て最初に連れてこられたあの建物の、地下だ。  階段を登りはじめたのを感じたが、途中から意識が霧に包まれた。  がく、と膝が折れそうになって、ふと気づくともう部屋の中にいた。やっぱりちょっと変だ。頭がはっきりしない。眠いというのとはちがう。  またあの高い天井だ。朝の光のせいで、夜よりずっと高く見える。 「ハイル・イノウエッ」ロボット兵士が、いきなり右手を挙げてそう叫んだので、幸平はその声のでかさに驚いてずっこけ、あわてて逃げだそうとした。がっしりと両脇を支えられているので鳥の真似でもするみたいに両手を広げたまま、力のない脚で二三歩空を掻く。  暖炉近くのテーブルで、木山大佐が豪華な朝食を取っていた。  ちらりと幸平たちの方を見ると、簡単に片手を挙げてロボット兵士に応える。 「薬はまだ効いているのか?」と、食事に戻った。 「そのようでありますっ!」さっきよりもまだ大きな声で、兵士が怒鳴った。幸平はまた逃げようと無駄に動いたが、今度の馬鹿声は大佐も予測してなかったようで、驚いた大佐は高圧電流に感電したみたいに両手を挙げてびりびり震えながらナイフとフォークを放り出した。  腕に白い布をかけた若い兵士が部屋の隅からつかつかと歩み寄り、落ちたそれらを拾うと、すぐに別の兵士がやってきて木山大佐の前に新しいフォークとナイフを置く。 「ばかもの。怒鳴らんでも聞こえるわ」大佐は食事をやめ、襟元にひっかけていたナプキンで口を拭うとゆっくり立ち上がった。  若い兵士ふたりが、あっというまにテーブルごと食事の用意を片づけて、奥の部屋へと消える。  ふんぞりかえり、勝ち誇った顔で木山大佐は幸平を眺め、胸をそらして今まであったはずのテーブルに手をつこうとしたがもうなかったので、ちょっとこけそうになった。おう、でんどるふんけ、とかなんとか呟いて首を振る。ドイツ語だろうか。たぶんまだ食べるつもりだったのだろう。 「堀田幸平君」と言って、木山大佐は幸平を見た。「わたしがわかるかね?」見えないガラスを拭くような仕種をして、幸平の顔を覗き込む。  幸平は、懐かしい顔に会った気がして一瞬嬉しいと感じ、そう感じた自分の精神におびえた。薬がどうとか言っていた。そうか薬を飲まされるか注射されるかしたんだ。それで、へんな考えが次々と頭に浮かぶ。ちょっとつつかれると、とんでもない反応をしでかしそうな恐さがある。手足の動きが自分の意思どおりにならない。  幸平はまだ多少ぼんやりする頭の、ぼんやりのほうへ身をまかせることにした。なにかをきちんと考えようとすると、全身をむず痒《がゆ》いような不快感が襲い、吐き気とともに頭の奥ががんがんした。ぼんやりへらへらすると、ふわっと楽になる。 「わかんなーい」と言ってみたら、意識しないところで勝手に体がくねくねと科《しな》を作った。「けっけっけ」自分でも信じられないような笑い声である。 「なんだ、まだかなり残ってるな」木山大佐はそう言って、幸平の眼をじっと見ながら近寄ってくると、いきなり幸平の腹に拳を叩き込んだ。  痛いというよりも苦しかった。息が詰まり、脂汗が出た。 「おまえたちは、もういい」眼を白黒させている幸平を満足気に見下ろし、木山大佐は言った。「用ができたら呼ぶ」  脇から兵士の手が離れ、幸平は力無く毛足の長い絨毯の上に崩れ落ちた。意識が少しはっきりしたものになった気がしたが、それでもまだ霧のかかったような部分がある。幸平は薬に感謝した。これから先のことを、まともに想像したら恐くて死んでしまう。ぼうっとしていてよかった。  かつ、と音を立ててブーツの踵を合わせ、三人が出ていった。  部屋にふたりきりになっても、大佐はしばらく動かなかった。また殴られるかと幸平は身構えたが、やがて大佐は幸平から離れ、初めて見たときと同じ机の前に座った。 「君はもう、なんの役にも立たない」穏やかな声で話しはじめた。「我々にとって、という意味だが、君はもう誰の役にも立てないよ。我々はもう、君たちの作戦の全貌を掴んでいる。すでに我が軍屈指の精鋭部隊は、君の仲間がのこのことやってくるのを待ち構えているのだ」  なにを言っているのか。床に寝て腹を押さえた恰好で、幸平は最初にここへ来たときから今まで起こったことは本当のことだったのだろうかと考えていた。昨夜だったのだ、ここへ来たのは。ずいぶん時間がたったような気がするが、まだ半日とたっていない。寺尾や鮎や鷹野に会ったのは薬の創りだした幻想で、実はずっとここで寝ていたのではないか。  鮎なんか、本当はいないのではないか。実在の女の子としては、あまりにも美しすぎる気がする。いかにも普段の自分が理想として思い描きそうな女の子だ。  幸平は床から木山大佐を見上げた。どんよりと暗い空が、大佐の後ろの窓から見えた。 「嘘だと思うかね。もっとも、薬のせいで頭は働かないだろうがね」幸平が理解していようといまいと、木山大佐にとってはどっちでもいいようだった。とにかく、ねちねちと幸平をいたぶることができれば、それでいいのである。「君たちの狙いは、我が軍のレーダーコントロールガンだろう。あれを破壊して船を呼ぶのだ。この町から出るために。自由のためにね」芝居がかった言い方をして、大佐はせせら笑った。 「家に帰りたいだけなんだ」勝手に口が喋っていた。「自由な生活に戻りたい」 「それが自由かね。え? 帰れば自由になるのかね?」大佐の表情が険しくなった。元々薄い色の瞳がさらに透明に近づき、どことなく狂気を帯びた。「いいか、自由に生きるなんてことは不可能なんだ。うわべだけ自由に見せかけても、結局はなにかに縛られる。金や他人に縛られるんだ。なぜ子供に勉強させる? よりよい人間に育てるためなんかじゃないことはみんな知っている。本当に賢い人間になるより、賢いと人に認めてもらえればいい。そのためのノウハウを覚えているのさ。知識でその身を飾っても中身はからっぽだ。金さえ手に入ればそれでいいんだ。誰もかもが自分の損得だけを基準にして生きている。それが自由か。そんな馬鹿どもがうじゃうじゃと自分の意見を言うことが自由なのか。きちんとした指導者が正しい意見をひとつ出せば、それですむじゃないか。それこそ理想だと、気がつかんかね」 「うーん」幸平は身を起こし、絨毯の上に胡座をかいて考え込んだ。なるほどなあという気もするのだった。人が熱弁をふるうと、一応納得してしまうのはいつものことだが、今のはけっこう説得力があったと思う。「なるほど」けど、そんなに言うほどみんな馬鹿ばっかりだろうか。 「いまごろ理解しても手遅れだ」木山大佐は自分の言葉の効果に満足したのか、嬉しそうな笑顔を作った。「君たちは我々に反抗しようとしたし、それに君はわたしのことを殴っただろう。あれは許せない」 「いや、あれはぼくじゃないよ」ぼんやりと答える。友達と普通の会話をしているような気安さである。一度にいろいろ考えることができないのだ。 「嘘をつくな。殴ったじゃないか。わたしは許せない。だから君には死んでもらう」さらりとものすごいことを言う。 「はあ」 「それから、鷹野、西畑、河合に、あとなんといったかな、他のメンバーも全員死んでもらう。君といっしょにいた女の子もだ。我々に逆らった人間が生きていては総統閣下に申し訳が立たん。わたしのメンツが立たん」 「総統って、井上という人?」ふと気になったので幸平は訊いた。どんよりした頭では躊躇もできない。 「ばかもの。総統といえばヒトラー総統に決まっておる。よく聞け我々はイノウエ・ナチスなどではない。ノイエ・ナチスだ。それをこの町の阿呆どもは勝手にイノウエ井上とかんちがいしおって」くそったれ、と小さく呟いて歯をぎりぎり鳴らした。「昔っからあんまりみんなが言うもんで、通り名になってしまったのだ。兵隊たちまでがハイル・イノウエなどとぬかしておる。井上などという人物はどこにもおらんのだばかったれどもが」こめかみに太く血管が浮き出ている。破裂寸前という形相の大佐が机の陰から氷屋さんが使うような大きな鉤を出してきたので幸平は震えあがった。黒く鈍く光る鉤の先は尖っていて、幸平は曲芸をする象が、同じようなもので眉間を傷だらけにされながら歩いていたのを思い出した。あんなものでなぶり殺しにするつもりかと、気分が悪くなる。薬が効いていても本当に恐いときは恐いのだ。 「もうすぐ、君の仲間は要塞へやってくるはずだよ」木山大佐は顔を歪めたまま、鉤を握りしめて幸平の方へと近づいてきた。  元々少し朦朧としていたところへ強烈な恐怖が加わって、幸平は視界が歪むほどおびえた。逃げようと本能は叫ぶのだが、体は動かない。  大佐は鉤を肩の高さまで振り上げると、ちらりと幸平を見下ろした。  たまらず幸平は眼を閉じた。  木山大佐は幸平を通り越して扉の方へ歩いていく。あれれと思った幸平がどきどきしながら振り返ってみると、大佐は鉤を扉の横にある小さな高窓にひっかけ、少し開いていた窓を閉めただけだった。すたすたと机のところへ戻って、鉤をしまった。 「どうも部屋が温もらんと思った」そう言って大佐は無表情に幸平を見た。 「はーっ」と、幸平はほっとしてため息をついた。ややこしいことをしないでもらいたい。 「そう落胆することはない」木山大佐は幸平のため息の理由をかんちがいした。「君たちの作戦とやらはこっちに筒抜けだったんだよ」 「どうやって……」そのときふと、河合の声が脳裏に蘇った。スパイがいるんですかなあ。「玉田?」まっさきにその名が浮かんだ。 「ほう。よくわかったな。彼は爆破のエキスパートだが、情報部員としてのキャリアのほうが長いのだよ」  特になにも感じなかった。なにもかもが現実から遊離していてどうでもよかった。また一瞬意識が途絶えたような気もした。話の順序がわからなくなって幸平はとにかくなんでもいいから言わなくていけないというへんな考えにとらわれた。誰もかもが自分の損得を基準に生きている。それはちがうと思う。 「親切な人もたくさんいる」 「は?」なにを言っとるクスリボケめが、と大佐は取り合わない。机の引き出しのひとつを開け、薄い弁当箱のようなものを取り出した。「結局は自分が満足したいから人に親切にするのだ」 「でも、親切にされると嬉しい」嬉しい、という自分の言葉に反応して笑いそうになった。「へへ」笑ってしまった。 「ばかこけ」と、大佐は急に下品な言い方をした。地方の人にはこういうことがときどきある。 「他人に気を許すなど阿呆のすることだ。そんなことだから、こんなことになる」 「どんなことに?」大佐の口調になにかどきりとするものを感じて、幸平は急にしゃきっとした。  大佐はにやりと笑って手に持った物を幸平に見せた。  小さなアンプルと注射器。 「これは昨日の夜君に使用したのと同じものだ。ちょうど、致死量ぎりぎりのところを、今から注射してやろう」 「と、どうなるのかな?」明るくしていれば、不幸は寄ってこないと、誰か言っていなかったか。「けけけけけ」なんだ今の笑い方は。自分の声と思えない。 「少しだと体が動かなくなって、それでもけっこう気分はいいようなんだけどね。たくさん打つとそりゃもう苦しんでねえ。自分から、殺してほしくなるらしいんだよ。君の体には昨日の分が残っているようだから、死ぬかどうか微妙なあたりをさまようことになるだろうねえ。これで死ななかったら、また他のやり方を考えよう。君にはぜひともたくさん苦しんでほしい」  がんばって学業にはげんでほしい、という校長先生みたいな口調で木山大佐はそう言って、心から嬉しそうに笑った。  逃げようにも、幸平の体はゆっくりとしか動かない。 「おかしい」草むらの中で、鷹野が呟いた。「警備が少なすぎる」小さな谷を挟んで向こう側に、要塞内部へ通じる扉を見下ろすことができる。山の斜面に食い込むようにして設置された頑丈そうな鉄の扉は、ふたりの歩兵に守られているだけだ。非常事態に備えて要塞には十数の避難経路が設けられているが、その中で最も森の奥深くにあるこの入口は、要塞の心臓部ともいうべきコンピュータルームから遠いせいもあって、警備の少なさを鷹野は期待したのだった。  たしかにこの要塞にはコンピュータによるセキュリティシステムもあるという話だが、それでもたったふたりというのはいくらなんでも少なすぎるし、資料による情報とも食い違っていた。 「ありがたいことで」河合は真剣にそう言った。「早くすませて、帰って寝ましょう」いやもう眠くて眠くて、とぶつぶつ言っているが、一番よく寝たのはこの男である。玉田もよく寝ていたが、河合のほうが偉い。奇襲を免がれてから夜通し移動していたので、実際にはほとんど眠る時間などなかったにもかかわらず、位置を確認するためにほんの一瞬止まっただけでも、河合はその時間を無駄にせず眠っていたのだ。眠ったままでもみんなといっしょに歩ける、と言ったほうが正しいかもしれない。 「帰る場所なんかありませんよ河合さん」西畑が怪訝な顔をした。「ここを爆破して船に乗るか、捕まるかですよ。言わば前門の虎……」後門の狼、と続けようとしたが河合がさえぎった。 「ああ、そうかそうか。前門の虎、習わぬ経を読む」 「そりゃ門前の小僧です」 「ああ、象か」  本当ならものすごくせっぱつまった大変な状況なのだろうが、こいつらのおかげでまるで緊迫感がない。なんとなく、どうなったところで結局大してひどいことにはならないような、楽観的な気分に支配される。別にこの作戦、失敗してもいいか、とふと考えている自分に鷹野は驚いた。  もっと頭を明晰に、作戦に集中しなくてはならない。  それなのに、どうしても別のいろいろなことが頭をよぎっていく。たとえこの作戦で命を落とそうとも、ここの施設だけは破壊しようと決意しているというのに、どうしても集中しきれない。  鮎と鈴蘭は、別のところに待たせておきたかった。いっしょに行動しても足手まといなだけで、彼女たちにとっても危険すぎる。鷹野はそう主張した。  しかしまたしてもあの玉田が、鈴蘭といっしょでないといやだと言ったのだ。鈴蘭は行くと言い、それならあたしもと当然鮎は引き下がらない。どこかに隠れていても危険は同じだと言うのだが、鷹野は女連れで戦いに臨むということがどうにも納得できなかった。  それにしてもあの玉田という男。鈴蘭はなぜあんな男といるのだ。 「昔からの知り合いなの。パリで弦司さんと会うよりも、もっと前から」鈴蘭はそう言った。「たしかに弦司さんとは、まるでちがうタイプの人だわ」要塞の近くまで来て他のみんなが仮眠に入ったとき、鈴蘭と少しだけ話をすることができた。ひどいのがくっついてきたものだ、と言った鷹野に鈴蘭はそう答えたのだった。「弦司さんはひとりでも生きていける人だから」 「君が、俺をそうしたんだ。人間は最後はひとりだと、君に教えられたんだ。人の愛情など、もろいものだと教えられたんだ」 「わたしは、弦司さんといっしょにいたかったわ」 「じゃあなぜ来なかった」 「ねえ弦司さん。わたしのこと、この世で一番わかってくれるのはあなただと思うの」闇の中で、鈴蘭の表情はほとんど見えなかったが、声が微かに震えているのはわかった。「弦司さんがこの世にいると思うだけで、わたしは幸せ。それでいいの」  鷹野はなにも言えなかった。おまえはそれでいいかも知れないけど、俺はどうなるんだ俺は。俺はおまえといっしょにいたかったぞ。というようなことが言いたくてたまらなかったが、やっぱり言えなかった。 「わたしきっと」日の出が近づいていたのか、木にもたれた鈴蘭の顔が白くはっきりと見えた。「死ぬときには、弦司さんのこと思って死ぬわ」鈴蘭は、チャイナドレスの上に着ている大きな戦闘服の、おなかのあたりを両手で摘んでじっと見つめ、それから顔を上げて鷹野を見た。にっこり笑ったが、眼からはとめどなく涙が流れていた。「温かいわ。ありがとう」  行ってしまった。  鷹野はそれから眠らなかった。  玉田と鈴蘭の間になにがあったかは知らない。しかし、鈴蘭の言いたいことは理解できた。  鈴蘭は、玉田が自分を必要としているのを無視できなかったのだ。自分がいなければ潰れてしまうのが見えている男を放って、好きな男のところへ行くことができなかった。ひとりを不幸にして、そのうえで自分が幸せになるということが許せなかったのだろう。同じひとりを不幸にするのなら、自分も幸せをあきらめようと。それに、自分の好きな男は、ひとりでもなんとか生きていけるだけの強い人間だと信じた。  ところが、そんなに強くなかったんだな。鷹野は自嘲して首を振った。  鈴蘭の性格をよく知っているだけに、気持も手に取るようにわかった。その性格を愛しただけに、玉田を選んだ鈴蘭を憎めなかった。 「よけいにつらいじゃないか」つい、口から言葉が洩れていた。自分の声に驚き、我に返るとすぐ横に河合がいた。 「まったくですなあ」と、とりあえず相槌を打ってはいるが、これは全然なんにも考えてないなとわかったので気にする必要はなかった。意味などどうでもよく、なんでもいいから話を合わせているだけなのだ。「これはつらい」 「愛情よりも同情や恐怖、暴力や物欲のほうが力を持ってしまうのがこの世の中なのかもしれませんね」当然これは西畑である。昨夜からなんとなくうずうずしているようすだった。やっと言えたぞと満足気。鷹野の反応をうかがっている。  すると別のところからぽつりと声がした。 「はたしてそれが愛情と呼べるのだろうか。本物の愛情はそんなに弱いものなのだろうか」昨夜合流したレジスタンスの男だった。ぼさっとした顔で、河合と西畑の後ろで膝を抱えていたのに。  鷹野も河合も驚いたが、一番驚いたのは西畑だった。でも驚いたのは一瞬で、すぐにその顔は喜びに輝いた。きらりと眼を光らせて朗々と、 「この世には、本物の愛情など存在しないのかもしれないね」大袈裟にかぶりを振って「少なくともわたしはそれを見たことがない」 「人生は本来、孤独で淋しいものなのさ」澱《よど》みなく、レジスタンスの男は答えた。今や鷹野と河合はテニスの試合を見るギャラリーのように、ふたりのやりとりに注目している。「幸せとは、ごくたまに人生の瞬間に訪れるきまぐれな旅人にすぎない」言っていることは大仰だが、淡々と無表情に話す。  西畑の方はというと、こっちはもうどんどん芝居がかってきた。 「いつまでもいてくれればいいと誰もが思うが、それは儚くも愚かな願い」  すぐにレジスタンスの男が棒読み口調で、 「淋しくない人とは実は最も淋しい人なんだ。なぜなら彼の人生には輝いた瞬間がなかった」  ふたりが黙った。まだ続くのかネタが切れたのかよくわからなかった。 「あの」と河合がごく普通の世間話をするような口調で西畑に訊ねた。「彼って誰です?」 「どうします、突入しますか」いつのまにか鷹野の横にきていた寺尾が言った。信頼しきった眼で鷹野を見ている。今の西畑たちの会話は聞いてなかったようだ。  女のことを考え、ぼんやりとしていた自分を鷹野は恥じた。今は作戦に没頭しよう。突入のタイミングをどうするか。考えても、だめなものはだめだ。鈴蘭が選んだことなら、もう俺にはどうしようもない。愛情は俺にあるといったって、結局他の男のところに行ったんなら愛情がないのと同じじゃないか。 「なあ?」と、河合に同意を求めてしまった。 「まったくです」すかさず河合は同意した。ふだんはいらいらすることもあるが、こういうときはなんとなく嬉しいので助かる。「彼は淋しくて歯抜けのまぬけ」 「なんだって?」相手をしてしまった。するべきではなかった。 「ですからまあ、歯が抜けて淋しい馬鹿がいて」西畑の言った儚くも愚か、という言葉だけが印象に残ったらしい。「これがなかなか家に居つかんのですなあ」歯がないのではなくて儚いのだと、説明しそうになってそれがどれだけ無駄かということに鷹野は思い至った。 「なるほどそうか。よくわかった」ほっとこう。  作戦だ作戦だ。爆破のことだけ考えろ。  本当ならば、この位置まで侵入することさえ困難だったはずだ。なぜすんなり来ることができたのか。ひとりの敵と会うこともなく、金網には電流が流れておらず、犬もいない。  レジスタンスが密かに集めた資料によると、入口には歩哨ふたりの他、入口上部の機銃台座にひとり、左右にひとつずつある見張り台にも数名の兵士が交代で二十四時間ついているはずだった。なぜ、たったふたりなのか。新兵器の完成記念式典だとはいえ、人数を減らすことは考えられない。  まるで入ってこいと誘っているようではないか。  こちらの情報が洩れているとしたら。これが罠だとしたら。  玉田か? あいつが来てからすべてが狂っているのではないか?  いや待て。嫉妬が判断を狂わせてはいないか。鈴蘭といることで、あの男を必要以上に悪く考えているのではないか。  しかし、レジスタンスのアジトを破壊したのはあいつだ。爆薬を使い切ってしまったのもあいつだ。森で奇襲を喰らったのも考えてみれば不思議だ。トラックがつけられていたのかと思ったが、それにしてはタイミングがずれている。誰かが位置を教えたとしたら、ちょうどあれくらいで敵が来たとしても辻褄があうではないか。こいつは来たとき俺の名前をまちがえた。オセロットなどとわけのわからないコードネームを出した。  鷹野は、鈴蘭をまるで所有物のようにして自分の横に座らせている玉田を見た。  射るような鷹野の視線に気づき、玉田はおまえなんか恐くないぞと強がってみせようと、わざとらしく背伸びをした。スーツのジャケットがはだけ、内ポケットが見えた。  あれはまちがいなく無線機のアンテナ部分だ。  かっときた。 「おい」敵陣にいることも忘れ、鷹野はずかずかと玉田に突進した。 「な、なんだよ」鷹野の形相に恐れをなした玉田は、背伸びを途中で止めると尻をついて後ずさりする。 「これはなんだ」鷹野は、玉田の内ポケットから厚めの手帳ほどの機械を取り出した。小型の携帯電話に似ていた。 「え」と、うろたえてから玉田は「け、けえ、携帯電話。ですが」 「うん。やっぱりそうか」と強く西畑が頷いた。玉田がスパイだと、西畑も認めたのかと鷹野はちょっと心強く思いかけたのだがそうではなかった。「ここじゃ携帯の電波なんか入るわけないのに、しょっちゅう携帯を使う理由はひとつ。時計代わりにしているからです」 「だから?」その場の全員が西畑に注目した。 「腕に金のロレックスをしているのに携帯に頼らなければならないのは、それはそのロレックスがパッチモンだというなによりの証拠」最初見たときから怪しいと思ったんだとぶつぶつ。 「そうなのか?」ただの携帯電話なのか、と鷹野は訊いたのだが、 「じ、実は中国製のパッチモンで道ばたの外国人から一万円で……」そう玉田は白状した。 「誰がそんなことを訊いた」本当にただの携帯電話なのだろうか。俺は、勝手な思い込みでいやな奴だとはいえ仲間に疑いをかけたのか。 「えと、あの」玉田が恐る恐る。 「なんだ」鷹野は本当に怒っていた。玉田の胸ぐらを掴んで引きずりあげる。すさまじい腕力だった。 「おじさん」鮎が泣きそうな声を出した。「やめて」  玉田はああありがとうという眼で鮎を見て、鷹野も鮎を見ようとした。先に鈴蘭の姿が目に入った。ただ悲しそうだった。  自分はこの醜い男以下かもしれない、という考えが脳をかすめた。怒りが消えていく。 「あの、こここここれ壊れててですね」もはや虚勢を張ることもできずに、玉田は一気に早口でいろいろ説明しはじめた。すると手に持っていた携帯電話から、短いアンテナがひょこっと飛びだす。「ほらこうやってしょっちゅう勝手にアンテナが飛びだしてくるからそのたびにいちいちしまってやらないとほっとくとどういうわけか勝手に電源入ってプープー言いだすし」おろおろと玉田がボタンを押すと、出たときと同じ速さでアンテナはひょこっと中に収まった。「ももももう捨てますすてますからこんなの」 「どうしたんですか」今も少し眠っていた河合がのんびりと首を伸ばす。 「いや」言ったものかどうかと、鷹野は迷った。こいつはスパイかもしれないと思う自分がいやらしい気がした。 「そいつがスパイかなあってことでしょうか」ずばっと河合は言った。「たしかにわからんことはあります」 「なんだ?」ああまた河合の相手をしてしまったと、鷹野はちょっと後悔したが今回の河合はなかなかしっかりしていた。 「タマタマさんは爆弾のエキスパートというお話ですが、わたしが最新式対戦車地雷と同形の魔法瓶から緑茶を飲んでいるとき、変わった水筒だな、としか言わなかった。対戦車地雷だとわからなかったんです」これです、と腰に吊ってある丸く平べったい缶のようなものを揺すってみせた。直径十センチほどの円柱形で、高さは三センチぐらい。茶色く着色されていて『※[#「凪」の「止」に代えて「百」、第3水準1-14-57]月堂ゴーフル』と書いてある。 「ねえ、そりゃ誰が見たってゴーフルの缶ですよ。地雷にゃ見えない」西畑が言った。 「ゴーフルって炭酸せんべいにクリーム挟んだあれですか」と寺尾。 「でも、イノウエ・ナチスの対戦車地雷は、ゴーフルの缶を使ってるんですよ」河合が不満そうなみんなに不満そうに答える。「リサイクルということで」 「いや。そうなの? いや、でも、もしそうでも」西畑が混乱して「だから、結論は?」 「断言しますがタマタマは怪しい」河合が断言した。  怪しい、というようなあやふやなことを断言したところでしかたがないのだが、河合は得意である。 「その人はスパイなんかじゃないわ」  全員が声の方を見た。鈴蘭だった。 「鈴ちゃん」玉田が泣きそうな声をあげる。 「玉ちゃんは、人を陥れるようなことを絶対にしない人よ」諭すような口調でそう言いながら、鈴蘭は鷹野をじっと見ていた。  玉ちゃん、という響きに、その場の人々は一瞬奇妙なおかしさを感じたのだったが、鈴蘭の表情は真剣そのもので、もちろん誰ひとりとして笑ったりはしなかった。  鷹野はなにも言わずに玉田を突き放すと、全員に背を向けた。  パーカー少佐は要塞内部のモニターを通して、鷹野たちがごちゃごちゃやっているのを眺めていた。要塞の警備は鷹野たちが思っている以上に厳重で、文句なく過剰といえるものだった。不必要な機材や人材を際限なくつぎこんで、警備という名目の怠惰《たいだ》な任務を兵士たちに与え、無駄飯を食わせつづけているのである。そうすることによって、要塞の維持費を大きくし、町の経済効果を高めるというのがイノウエ・ナチス上層部の考えだった。  森の中に設置される隠しカメラの数も馬鹿馬鹿しいほどで、おおよそ四畳半にひとつの割合で森の大部分に設置されていた。こんなに多いと、モニターの数もそれだけ増えるのでかえって侵入者を発見しにくくしてしまうのだが、予算審議会の決定によると来年度はさらにカメラの数を増やすということになっている。複雑になるだけでなんのいいこともないが、カメラやモニターなどの機材の購入、設置工事費、増員されるモニターチェック要員の人件費など、金が動けばそれだけ関係者が儲かるのだった。 「あいつら、なにやっとるんだ」甲高い声で、パーカー少佐が怒った。 「内輪もめみたいですね」と、モニターチェック係のひとりがのんびりと言う。 「中に入ってきたら、とっつかまえてやろうと罠を張ったのに、入ってこんのではなんともしょうがない」 「どうします?」 「まあ、もうちょっと待ってみよう。別に急ぐ必要もないしな」少佐は胸のポケットから煙草を取り出して、ブックマッチをちぎらずに擦って火を点けた。『鷹弦』と書かれたマッチを眺め「客として行く機会は、とうとうなかったな」と呟く。 「連中、収容所送りですか?」自分も煙草を出したモニターチェック係は、気になるからというよりもただ話題が欲しくて訊いてみた。 「いや」とパーカー少佐は表情を曇らせて小さく首を振った。「式典の後ここで殺すそうだ」 「え」モニターチェック係は煙草に近づけたオイルライターを止めた。「珍しいですね。殺しちまうなんて。人口が減るのに」 「大佐がね。意地になってて」パーカー少佐は、自分の煙草に噎せて苦しそうな咳をした。自分の咳に驚いた。まるで老人の咳だった。「ゆうべ、エリザベス分隊に捕まった少年は、大佐自ら処刑したそうだよ」  モニターには、女もふたり映っている。なんとか、女だけでも助けられないものか。  パーカー少佐は鷹野の店で見た鈴蘭の微笑みを思い出し、記憶の中のその微笑みにつられて微笑んだ。  若いとき、あんな風に微笑んでくれる人がそばにいたなら、今頃こんな仕事をすることもなかったにちがいない。 「あ、連中動きますよ」  鷹野たちが、要塞の入口へ向かって移動を始めるのが見えた。 「よし」パーカー少佐は、急いで煙草を消すと、モニター室の入口付近に待機していた自分の部下を振り返った。「全員、配置につけ」  彼らは要塞内にある爆薬を利用するつもりらしいが、すでに爆薬庫には兵士を待機させてある。万が一爆薬を手に入れたとしても、あの少人数では要塞の心臓部に近づくことすらできないだろう。  圧倒的な勝利を確信して、パーカー少佐はこの日何度目かの複雑な思いを味わった。  どうしても自分の若い頃と鷹野の姿を重ね合わせてしまうのだ。  くだらない連中のために働く今の自分を、あの頃のわたしが見たらなんと言うだろうか。 [#改ページ]    Don't Stop Me Now  木山大佐の持つ注射器が、幸平の首筋に今まさに刺さろうかという瞬間、扉がどかんと音をたてた。ノックだとわかるまでの一瞬、木山大佐はびくりと固まり、それから入れと言ったものか放っておいたものかと思案した。  ところがノックをしたほうは相手の返事を待つつもりなどなかったようで、ばーん、という感じででかい扉は両側に開き、それと同時に入ってきたロボット兵士のすさまじい大声が部屋中に響き渡った。 「ハイル・イノウエッ!」  扉は反動でまた勢いよく閉じた。  例によってびっくりした幸平はじたばた逃げようとあがいたが、それより大変なのは木山大佐のほうで、あわわとなった拍子に幸平の肩を掴んでいた自分の左手の甲に、注射針を突き刺してしまっていた。  刺さっただけならまだよかったのに、そこへさして馬鹿声兵士がさらに大きな馬鹿声で、 「報告でありますっ」と叫んだものだから、驚きに追い打ちをかけられた大佐は眼を見開いて自分の手元を見つめているにもかかわらず、うううと震えながらすでに親指をあてがっていた注射器を三分の一ほど押し込んだ。 「ば、ばかものっ」あわてて大佐は針を抜いたがもう遅い。どうかなさいましたかなどととぼけたことを言いながら駆け寄ってきた馬鹿兵士に向かって、腹立ちまぎれに手にした注射器を投げつけた。薬は即効性だったようで怒りながらも大佐は「つつっつつっ」と含み笑いを始める。  投げつけられた兵士のほうは、胸に突き刺さった万年筆ほどの注射器をいぶかしげに見下ろして、なんだろうこれはというようにごくっと首を傾げた。指で摘んでゆっくり抜き取るというデリケートな作業にまでは総身に知恵がまわりかね、刺さっているのでとにかく抜きましょうと大きな掌で注射器全体を掴むことによって残りの薬を全部おのが体内に注入した。それから抜いたが、もう遅いのである。 「わはは」もう効いてきた。  楽しそうになってしまったふたりを前に、やはり薬の効いている幸平はしばらくいっしょに楽しく笑っていた。 「あはははは」それからやっとこれではいけないと気がついて、ゆっくりとだが立ち上がった。大佐と大きな兵士は床に座り込んで、ときどき寝ころんだりして笑っている。ふたりとも眠りたいのを必死でこらえているみたいに、眼がとろんとなって光がなかった。  逃げよう。  立ってしまうと少し気分はすっきりし、逃げる方法を考えなくてはいけないなと思う程度には頭が働いた。  なにかないかと部屋の中を見渡す。木山大佐の机の引き出しを開けていくが、役に立ちそうな物はなかった。そもそもどういうものが役に立つか、よくわからない。  机の上に書類を入れるための小さなファイル・キャビネットがあった。 『極秘』とはっきり書いてある。こういうこと、わざわざ書かなくていいような気もするのだが、なにせ地下室に地下室と書いてしまうセンスの人々だから書くのである。  開けてみると一番手前に『出町許可証』と書かれた薄い箱があった。その奥は『極秘書類』と書いてあり、これが『拾弐』まであって、さらにその奥には『二重帳簿』というのまである。  まあなにかに役立つかと、幸平は許可証をもらっていくことにした。面倒なので箱ごともらう。  許可証にはサインがいるのかな、と思って中を見たら、前もって全部サインしてくれていた。  ありがたいことである。ざっと二百枚ぐらいはある。  それから他になにかないかと部屋を見渡し、扉近くにコート掛けがあるのに気づいた。そこで幸平はいいことを思いついた。脱出するのにはこれしかない。  五分後、幸平は鮎に借りた服の上から、木山大佐の軍服を重ねて着ていた。ちょっと大きいが大丈夫。着てみて思うが、本当に重い。ここまでいろいろつけなくてもいいだろうに。  靴を置いていくのはいやだったので、ナイキのスニーカーの上からロボット馬鹿声兵士のブーツを履いてみたらちょうどだった。めちゃくちゃでかい足だ。八十センチくらいあるそんなにないそんなにないあひるじゃないんだから。  服を脱がしたり、ブーツを脱がしたりしても、もう大佐もでかい兵士もほとんど動かず、ときどきへらへらと笑うだけだった。笑われると幸平もついいっしょに笑ってしまうので、えへへえ? などと笑っているふたりの服やら靴を、にこにこしながら少年が脱がしている、というのは見ようによってはこれからなにかものすごくいいことを始めるのかな、という感じである。どことなく倒錯した雰囲気さえ漂う。  出町許可証の箱を小脇に抱え、机の上にあった木山大佐の重い帽子をかぶると、幸平は自分の思いつきに感心した。これはものすごく賢いのではあるまいか。  いくら軍服を着ていても、木山大佐とは顔が全然違うのだから、ばれるに決まっていると考えるのが普通だが、そこまでは考えがおよばなかった。薬のせいばかりではないかもしれない。  コート掛けから革のコートを取って袖を通す。ちょっと大きいが下にたくさん着ているので窮屈なくらいである。  扉の前まで来て、外へ出る前に服装に乱れがないか確認した。靴をふたつ重ねて履いているせいでいつもより少し脚が長い気がする。これからちょいちょいやってみようかとちょっと思う。  そこで、コートの胸ポケットにサングラスが入っているのに気づいた。マッカーサーみたいなやつである。これはいいやとかけてみる。大丈夫。見事に木山大佐そっくりだ。くるりと回れ右をすると右手を高く挙げ、 「出る、イノウエッ」  嬉しそうに、わっはっはと笑って部屋を出た。  どっちに行っていいかいきなりわからない。  廊下をこちらに向かって歩いてくる兵士がひとり、幸平に気づいた。  顔を合わせたくないので、そいつに背を向け、逃げるように逆の方向へと歩きだす。このまま進むとどこへいくのだろうか。 「おい」と後ろから声がかけられた。  走って逃げよう、と思ったのだが依然として足の感覚があやふやで走るなど到底できそうになかった。しかたがないので立ち止まり、帽子で顔を隠すようにしてゆっくりと兵士の方を向いた。  は、と息を呑む気配がして、兵士はいきなり右手を挙げた。 「ハイル・イノウエ」挙げたまま固まる。幸平の方は見ず、あさっての方向を向いて片手を挙げているのだ。そのままほっておくとずっと手を挙げているようだったので、どのくらい我慢できるか見てみたいと思ったのだが、そんなこともしていられないのでひょい、と手を挙げてやった。するとさっと手を下ろして「失礼しました。大佐殿」たぶんこの服のどこかに「大佐のマーク」が付いているのだな、と思いながら幸平は鷹揚《おうよう》に頷いた。兵士は気をつけの姿勢でやはり幸平の方は見ないで「どちらに行かれるのでありますか」 「え。あっち」と、ろくに考えもせずに今行こうとしていた方を指す。 「厨房に御用でありますか」特に不思議とも思わなかったようである。 「いや」台所に行ってもしょうがない。えーと。「どこにしようかな」声に出して考えてしまったのだが、自分では気づいていないのだった。 「要塞の式典に行かれるのでは?」と、遠慮がちに兵士が言った。 「ああ」そうだ。行かなきゃ。「当たり」 「車はこちらであります」前に立って、歩いてくれる。  そのまま歩いてくれればよかったのだが、廊下の曲がり角にさしかかるたび、やっぱりなにか気になるのか、ちらちらと幸平の方を確認するようなことをする。きっちり見られたらそれまでだぞ、とまたしてもぎくしゃくと頭を動かしかけた兵士に向かって幸平は小さな声で、 「ハイル・イノウエ」と、囁いてみた。  効果はてきめんで、その言葉を聞くなり条件反射のように兵士は右手を挙げて真正面を見るのだった。途中、廊下に立っている兵士に会ったり、向こうからくるのとすれ違ったりしたが、そのたびに「ハイル・イノウエ」と言いさえすれば、みんなよそを向いて手を挙げるので、誰にも気づかれず車のところまで行くことができた。馬鹿なしきたりだと思う。  巨大なメルセデス・ベンツの後部座席に案内してもらい、ドアまで開けてもらい、敬礼までしてもらった。案内してくれた兵士は、くるりと綺麗な回れ右をして去っていった。最後まで、直視されることはなかった。  わっはっは、と笑いたい気分を運転手の手前なんとか抑えようとしたところ、車が発進するや突然今までの高揚感がどこかへ吹き飛び、悲観的な気分に襲われた。  薬が切れたのだ。ハイな感覚に浸っていた反動は、恐ろしく陰気なものだった。  どうせいつかはばれる。どうせ殺される。どうせ死ぬ。どうせだめなんだから。なにしたっておんなじ。  なにか大きなミスをしている気がして、はたと気づいた。木山大佐は揉み上げが長い。 「しまった。揉み上げを忘れた」つい声に出ていた。 「えっ」運転手が驚いてバックミラーを覗き込む。気づかれたか、と幸平は身を固くしたがこの若い運転手はちょっと抜けていた。「取りに戻りますか?」  一瞬言葉を失ったが、幸平はなんとか取り繕った。 「いや、いい」  ほっとしたものの、頭が割れるように痛んだ。薬が抜けて体の動きは多少軽くなった気がするが、長距離を泳いだあとのように、動きそのものは軽くなっても、芯の部分で疲れているのだ。気分が悪い。  後ろをこっそり見ると、護衛なのかもう一台ごついセダンがついてきている。軍人ばかり五人ほど乗っているようだ。  もしかしてもうばれているのではないか。  いや、そんなはずはない。あれはただのお付きの連中だ。たぶんそうだ。ばれていたら車を停められるはずだ。  けれど、気分は悪くなる一方で、幸平はぼんやりと窓の外を眺めた。  外を流れる風景はとても日本のものとは思えない。明るい光の中で町を見るのは初めてだったが、いやもうなんというかここはへんな町だ。  建物はけっこう密集しているが、どれも見事にちぐはぐである。それほど高いビルというのはなく、あってもせいぜい五階建てぐらい。オフィス街にあるようなびかぴかしたビルは見当たらず、いかにも石で造ったという趣のものが多かった。  そういう近代西洋風の建築の中に、ときどき純和風の民家があったりする。  薄汚れた古い土蔵があったかと思うと、今度は日本のどこの商店街でも見かけるような普通の魚屋が見え、次のビルの陰には恐ろしく時代を感じさせる銭湯があった。  ちぐはぐではあったが、色調をわざと揃えているのか町全体の雰囲気は落ち着いている。美しいとさえ思う。  そんなはずはないのだが、どうも昔一度見たことがあるような気がする町並だった。  しかしとにかくやたらと酒場が多い。そしてどういうわけか、酒場に限らずほとんどの看板はどれもがたいてい漢字か平仮名で書かれていて、和風の建物というのは数からするとそんなに多くはないのに、この町はどこから眺めても日本の町だった。  ごちゃごちゃしていながら清潔な感じがする。清楚と言ってもいい。  木造二階建ての古いアパートから地味な着物を着た女の人が出てきて立ち止まり、幸平の乗った車が通り過ぎるのを眺めていた。  唇が少しだけ微笑んでいる。  日本というのも悪くない。  景色を眺めていると、いくぶん落ち着いてきた。  いやまあしかしよく出てこられたものだと、まだ胸はどきどきしている。  薬でラリってなければ絶対できないことだったなと思う。  さあ、どうやって逃げようか。  この運転手さえごまかせば、とりあえず逃げられるのではないか。けど逃げたって大久保町の中なのだ。町の外へは出られない。木山大佐にまた捕まってしまう。いや待ていや待て。この車ごと検問所を出るというのはどうだ。ふと脇を見ると、書類の箱。そうだ。出町許可証だってあるではないか。そうだそう思って盗んできたのだ。  出られるぞ!  その幸福感たるや、尻が浮くかと思うほどだった。  帰れる。家でごろごろできる。大学へ行ける。アルバイトして、今度はきちんとした車を買おう。 「やったあ」前の座席の背もたれを殴る。  バックミラーに運転手の眼が映った。 「ごきげんですね」と、運転手は言った。 「あ、いやいや」ハイル・イノウエをやってこっちを見ないように仕向けようかとも思ったが、運転中にそういうことされるのもなあ、と考えなおす。 「今日発表になる新兵器って、どういうものなんですか?」運転手は、さも普通の会話のようにさらりと言ってみたようだが、緊張は隠せていなかった。それが聞きたくてうずうずしていたらしい。 「さあ。わたしも知らんのだ」努めて木山大佐っぽい話し方をしてみたのだが、うまくいかない。なにかわけのわからないことも言っておったなと思い出して「おう、でんどるふんけ」 「そんなはずはないでしょう」運転手は不満そうな声を出した。「どうせすぐわかるんだから教えてくださいよ」 「知らんものは知らん」どうしよう。突っ込まれるとやばいぞ。後ろを振り返って見られたら、にせものがばれる。 「そうもったいぶらなくてもいいでしょう?」幸平では威厳がないのか、運転手も図に乗ってどんどんなれなれしくなってくる。「教えてくださいよ」 「知らん」 「まあたまた」ちょうど車は街はずれにさしかかり、赤信号にひっかかった。運転手は、ハンドルに両手を載せたまま、幸平の方を振り返ろうとする。 「ハイル・イノウエ」  運転手はあわてて右手を挙げ、 「ハッ。うー」  天井で突き指をした。  信号が変わり、痛みのせいか無口になった運転手はふたたび車を走らせる。  逃げるなら、早いとこなんとかしなくては。要塞に着いてしまっては、やっかいなことになる。  鷹野や鮎のことももちろん気になったが、だからといってなにをしてやれるということもない。助けられるものなら助けたいが、そんなことは不可能だ。どう考えたって無理だと思う。ずっと大佐になりすましていられるわけではないし、ばれればぼくだって捕まってしまう。  ぼくはこのまま逃げるのが一番いいのだ。二度とこんな町に来ることもない。  逃げよう逃げよう。  他に方法はない。  なんにもない。  しかし幸平はなにも言わずに、将校用メルセデスの後部座席にいた。  逃げるほうが楽だし賢い選択だということはわかっているのに、どういうわけか幸平はこのまま町を出るのがいやだった。まだ頭がぼけているのかもしれないが、もっとここにいたいと思った。  逃げるつもりなら、まっさきに運転手にそう言っていただろうということは自分が一番わかっていた。要塞の式典に行くのではないかとあの兵士に言われたとき、すでに行くつもりだったのだ。  馬鹿なことをするな、と警告する部分が頭のどこかにあったが、幸平はやはり要塞に行きたかった。鮎のところへ行きたかった。  ここで逃げたら、もう会えない。  このまま帰ったら、きっと一生気持悪い。  誰もが自分の損得だけを基準に生きている、とヘルベルト木山は言った。そうかもしれないが、そんなに単純に片づけられない。人と人との繋がりはもっと不思議なものだと幸平は思った。  みんなぼくに親切だった。  そのころ木山大佐は鍛え上げた軍人の精神力でもって立ち上がっていた。  堀田幸平に対する怒りで、体が震えだしそうだった。 「へっへへへへへへ」怒っているのだが、薬のせいで笑ってしまうのだった。笑う自分に腹が立ち、さらに怒るのだが「はっはっは」やっぱり笑ってしまうのだった。  ちくしょう。  声のでかい大きい兵士は、ぐっすり眠っている。  下着姿のヘルベルト・フォン・ブラウフィッチュ木山幹男大佐は動かない体を無理矢理動かし、どう見てもふざけているとしか思えないようなおかしな歩き方で、ゆっくりと電話に向かった。太極拳に似ていた。  鷹野は、深く考える余裕をまったくなくしていた。  鈴蘭はあの玉田という男のことが昔から本気で好きで、自分はいっときの気まぐれだったのではないか、というようなどうにも女々《めめ》しいことばかりが頭の中に渦巻いた。  どうでもいい。玉田がスパイでないというのなら、罠もあるまい。  警備が少ない今が、突入するチャンスだと考えるべきだ。  一気に入口までの距離を詰め、寺尾と眼で合図を交わした。  のんびりと立っている歩哨の死角へと回り込む。  寺尾が枯れ枝を踏んだ。怪我のせいか。この大事な局面で信じられないようなミスだ。  息をひそめて、動きを止める。  歩哨の動きに変化はない。  おかしい。と、鷹野の中で囁く声があった。なにか気になる。  鈴蘭が言うのなら、玉田はスパイではないのだ。突き進めばいい。鈴蘭までもが俺を騙すというのなら、騙されて死んでやる。  鮎や、他の仲間のことを思うと胸が痛んだ。こんないいかげんな感覚で、仲間を危険にさらしていいものか。  しかし、問題はないのだ。  寺尾と目を合わせ、小さく頷く。  前進を再開した。  歩哨の背後に迫ったそのとき、寺尾がはっとしたように鷹野を見た。  鷹野も全身で敵の存在を感じていた。  これは罠だ。  あと一歩にまで近づいていた歩哨が、突然こちらを振り返る。腰に構えられているサブマシンガンの安全装置が解除されているのに鷹野は気づいた。  重く唸るモーターの音が森に響きわたり、鉄の扉がスライドして開くと、内部から武装した敵戦闘員が流れるように跳びだしてきた。  たちまち取り囲まれてしまった。  やはり待ち伏せていたのだ。  戦闘員の間から、小柄な将校が現れた。 「あっけないね、鷹野君」甲高い声でそう言うと、パーカー少佐は悲しげに首を振った。「もう少し、楽しませてくれるかと思っていたが」  銃を捨てた鷹野は、脱力した眼で鈴蘭を振り返った。  鈴蘭は最初から俺を裏切っていたのか。いや、そうではない。  スパイはたしかにいた。  レジスタンスだと言って、お稲荷さんの広場で合流してきた男。  西畑にも負けない詩人。  そいつは、すまんなあというように笑いながら、鷹野に銃を向けていた。  疑うことを忘れていた。この男のことを深く考えなかった。最初は警戒していたのだ。なのに、すっかり忘れていた。  すべては俺の責任だ。 「田畑《たばた》」と、パーカー少佐がスパイの男に声をかけた。「ごくろうだった」  どうも、と笑う田畑に少佐は冷ややかな眼をちらりと向けただけだったが、田畑は悪びれずに鷹野たちを振り返って言った。西畑と話していたときとはまるで別人のような、快活な声だった。 「あのな、言っといてやるけどなあ。お稲荷さんのとこ、ドンパチやったのは俺だからね。そこの太った黒いあんたね、あんなやり方じゃ、全然だめだよ。全部あとで俺が直してやったんだ。だから、ああいううまい具合に爆発したのね」そこで田畑は鷹野に向かって「あのさあ、どうしてそんなやつ仲間にしたの。だめだよあれじゃあ。爆弾のことなんか、なんにもわかってないんだからさあ。俺いっしょにいていらいらしちゃったよほんと」 「俺よりは役に立つさ」鷹野は言った。  要塞というとなにかものすごくごつくて陰気臭くて恐ろしげな建物を想像するが、大久保町の要塞は、見た目からして非常に明るい。山を切り開いて造った要塞までの道は、きちんとアスファルト舗装された広い二車線道路で、目的地が軍事施設であることさえ気にしなければなかなか楽しいドライブウェイである。  要塞の表玄関は全面ガラスの自動ドアで、空調のことを考慮して二重になっている。玄関前には大きなフェニックスの植え込みがあり、車はそのまわりをぐるりと回って客を降ろしたり乗せたりできるのである。そこを通り過ぎた建物の向こうには、収容数千台以上という広大な駐車場があり、ここにそんなにたくさん人が集まることなど一度もなかったので、ラジコンカーを走らせて遊ぶ人々の溜まり場になっていたり、隅の方にはスケートボードやBMXを楽しむ少年たちのためのジャンプ台やランプがいつのまにか設置されていたりする。  入口の自動ドアを抜けるとそこは三階吹き抜けのロビーとなっていて「レーダーコントロールガンができるまで」という写真パネルと模型の展示や、記念バッジや飲み物、軽食などを揃えた売店もある。レーダーコントロールガンTシャツ、レーダーコントロールガンキャップ、レーダーコントロールガンステッカー、レーダーコントロールガンキーホルダー、レーダーコントロールガン下じき、レーダーコントロールガン缶ペンケース、レーダーコントロールガンクリアファイル、レーダーコントロールガン巾着《きんちゃく》の他、なんの関係もないと思うのだがじゅんこ、とか、ふみこ、といった女の子の名前が書いてあるパンツなどもこの売店には置いてある。こういうあほらしいものを旅先で見かけるにつけどこのボケナスがこんなもん買うのかと呆れるのだが、どこにでも置いてあるところを見ると、けっこう売れているのかもしれない。買うかなあ。  ロビーに入った幸平は、乾燥した温かい空気と静かに流れるBGMに包まれて、思わず足を止めてしまった。  ここは本当に「要塞」なのだろうか。  幸平が止まると、後ろからついてくる五人の護衛兵士も止まった。幸平が、あたりを物珍しそうに眺めると、五人も同じようにあたりを眺めまわす。誰かを待っていると思ったらしい。  受付と書かれたカウンターの奥にいた神経質そうな男が、幸平たちに気づき、わざとらしい笑みを浮かべながらいそいそとやってきた。軍人ではないらしく鼠色のスーツを着ている。いかにも市町村の役場の人という感じで、真面目が服を着ているような男だった。 「これは大佐殿。お早いお着きで」  幸平は鼻が痒くなったふりをして口許を掌で隠し、なにを言っていいのかわからないので、口の中でもにゃもにゃと適当に声を出した。 「はあ式典の用意でしたら、もう二階の方に整っておりますが」顔は笑っているが、緊張のせいで鼻から眼にかけての皺がひくひくと痙攣している。大佐の機嫌を損ねては大変だと思っているのに、なにを言っているのかわからないので困っているのだ。  しかし幸平もここからどうしたらいいのか全然わからない。鮎や鷹野たちを捜したかったが、まったく何も思いつかなかった。案内係が幸平の次の言葉を待っているみたいなので、しかたなくまた適当に口を開く。 「新兵器うぬぬぬん」 「あ、式典の部屋をご覧になりますか」今のはわかったぞ、とほっとしたように言って係の男は幸平の横について歩きだした。「どうぞこちらへ」  よくわかったなあ。わかったというのか、勝手に解釈したというのか。  ロビーを斜めに突っ切り、鉄製の螺旋階段を上がる。  階段中央は丸く太い柱が天井から床までを貫いている。そしてその柱には子供が描いたレーダーコントロールガンの絵が何枚か貼ってあって階段を上がりながら順に絵を見ていけるようにしてあった。写生大会でもあったのだろう、とても軍事施設とは思えないのどかさである。  階段の途中から、案内係の男は幸平が脇に抱える箱に何度かららちら眼をやった。階段を上がり切ったところでついに我慢ができなくなったのか、 「出町許可証ですね」と、言った。 「うん」しまった、普通の声で返事をしてしまったと思ったが男はそんなことにはまるで気づいたようすはない。言いだしにくそうにしていたが、勇気を奮い立たせるように息を深く吸うと小さな声で、 「実はその。もしよろしければ、一枚、いただけないかと」幸平が、え? というように首を動かしたのを睨まれたとかんちがいしたのか突然早口になった。「いやその別に町に不満とかそのようなわけでは決してそのただちょっともしかしたら出てみてもいいかなあみたいなそういう気持でその」  ああ、この許可証が欲しいと言ってるのか。 「よし、あげよう」幸平は一枚取り出すと、案内係の男にやった。 「え、ほんとですか」あ、ありがたきしあわせ、などと芝居がかった喜び方をするので、一枚でいいの? と訊くとできたらもう一枚ということで、結局二枚やることになった。でも平気だ、まだまだたくさんある。  幸平は気づかなかったが、背後にいる五人の護衛兵士たちが互いに顔を見合わせていた。なにやら小声で相談をはじめたようすである。  やがてひとりがみんなを代表して幸平に声をかけた。 「大佐。あの」 「む」下を向いたままで少しだけ振り返る。帽子がでかいから顔は見えないはずだ。けれど、どうしたのだろう。あんまり気前よく許可証をやったので、にせものだとばれたのだろうか。 「あの、よかったらその。ぼくらにも、許可証いただけないでしょうか」 「は?」ぼくら、というのが似合わない気がしたが声は若い。幸平とそれほど歳は違わないのではないか。ばれたのではないとわかってほっとした幸平は「一枚ずつでいいのかな」 「は」と、ものすごく喜ぶ。 「あのもしよろしければ、ぼくは二枚」と、別の兵士が言った。 「あ、おれも二枚」と言った兵士に、おみよちゃんの分だな、などとひとりがひやかす。  じゃまくさくなったのと、顔を見られたくないのとで幸平は箱を差し出して、 「好きなだけ取りなよ」  でも、みんな遠慮深くて三人は一枚ずつで、あとのふたりが二枚ずつ取っただけだった。  案内係は驚いたような顔をしていたが、兵士たちがみんなスキップでもしそうなくらい嬉しそうになったので、その笑顔に参加した。  そのまましばらく楽しげに廊下を進み、ホテルの宴会場みたいなドアの前で案内係が立ち止まった。 「こちらでございます」と、ドアを開けてくれる。  普段は会議にも使うのだろうが、今は式典用の準備がされている。  中に入った幸平が見たのは、ずらりと並んだ革張りの椅子と、その前にしつらえられた小さなステージ。それからリボンのかかったボタンのついた装置。そしてさらにその上の、 『自爆装置完成記念式典』と書かれた看板だった。  無数のモニター画面に似たような映像が並んでいる、セキュリティルームで電話が鳴った。 「はい」  ぼさーっとしていたモニターチェックのひとりが、眠たげな声で電話に出る。 「はあ、大佐ならさきほど到着されたという報告が。え?」突然の緊張した声に、同室の他のメンバーも電話の方を振り向いた。「はい。はい。はい。了解しました」  いったん電話を切り、またすぐにかけなおす。 「パーカー少佐に至急連絡。敵兵が大佐に化けて侵入した模様。くりかえす……」  別の電話が鳴りはじめた。  部屋中に動きが満ちた。  キーボードを叩く軽やかな音と、小さな電子音とが入り乱れる。 「外部扉セキュリティロック緊急作動」  合成音声が静かにそう告げると、続いて肉声があちこちから飛んだ。 「Aブロック外部扉施錠完了」 「B・Cブロック外部扉施錠済みです」 「Dブロック外部扉施錠完了」 「Aブロックは全扉を施錠せよ」 「Aブロック全扉施錠します」 「自爆装置?」思わず幸平は呟いていた。  森に設置された無数のモニターと同じようなことが行われたのである。つまり、自爆装置などというものは別に必要ないのだが、設置すれば莫大な金が動くこととなり、町の経済効果が上がるということだ。いろんな人に仕事が増えて、いろんな人が金儲けできる。上層部の人間は、施工業者などからのリベートで潤うという仕掛けである。 「なにか、ご不審な点でも?」と、案内係が心配そうな声を出した。 「いや。いいんだけどね」もちろん幸平は、大久保町の事情など知らない。自分の町でしょっちゅう道路工事があっても、工事があるなあ邪魔だなあと思うだけで、その工事が本当に必要なのかどうかとか、工事をすることで誰が得をしているのかというようなことは考えたことはなかった。  しかし自爆装置である。馬鹿なものを作ったものだ。落ち着け落ち着けと幸平は自分に言い聞かせた。大佐はきっと全部知っているはずだ。ここで迂闊なことを訊ねたら、にせものなのがばれる。けれど、自爆装置だぞ自爆装置。これさえ作動させれば、自爆するのだ。たぶんそうだ。  興奮のあまり、手が震えた。  そのとき、かち、と背後の扉で音がした。  誰か来たのかと思ったが、誰も来ない。  それから護衛のひとり、さきほどみんなを代表した大男が急に耳を押さえて下を向いた。無線連絡がイヤフォンに入ったのだ。 「たしかにここにおられるが」と、上目づかいに幸平をちらりと見た。  ばれたか。 「いや、わかった。ここにいる。了解」 「どうかなさいましたか」案内係がすかさず訊ねた。ミスをしてはいけないという気持から、もうどんなことでも気になるのである。気の小さい人というのはいるもので、こういう人に社内旅行の幹事なんかやらせると旅行に行くまで飯もろくに食えずに血を吐いたりして五キロぐらい痩せて、帰りのバスではへべれけに酔っておいおい泣いて、それに同情した若いだけのOLとできてしまってとんでもない目に遭うのである。 「いや」それだけ言うと、護衛の代表男は幸平をじっと見た。それから「大佐、揉み上げはどうなさったんですか」 「えーと」ばれたみたいだな。「家に忘れてきた」  護衛たちが顔を見合わせた。やっぱりだめかな。  代表男は眼を細めると、低い声で言った。 「サングラスを取っていただけませんか」 「ははは」幸平は無意味に笑ってじりじりと動いたが、代表男がつかつかと歩み寄ってきたのでいきなり駆けだした。  逃げたのではなく、簡易ステージの前にあるボタンが目的だった。  あれさえ押せば、なんとかなるのだ。たとえ捕まったってこの要塞はなくなる。  幸平がなにをしようとしているのかに気づいて、護衛の代表男も走りだした。 「あの大佐はにせものだっ」と、叫ぶ。他の四人も、えっと驚いてその後を追った。案内係の男は、こういうことにまったく慣れていなかったので、完全に浮き足立ってとりあえずみんなの後を走った。  それほど大きな部屋ではない。追いつかれる前に、ボタンに手が届いた。 「動くな」と、幸平は言った。  サングラスを外して放り投げる。  他のみんなは、固唾《かたず》を飲んで凝固した。  幸平は自分がこれからやろうとしていることを実感して、恍惚となった。これを押せば、要塞は吹っ飛ぶのだ。  逃げる時間は、あるのだろうか。  押すなりどかんということはまずあるまい。ノストロモ号のときだって、あと何分です、とかしつこく言ってくれていたからな。解除装置とかあるんだろうか。 「えーい」ややこしい。知ったことか。  幸平はボタンを押し込んだ。  ずん、という低い音が式典会場内に響き、幸平も、護衛の五人も案内係も、耳を澄まして虚空を眺めた。すぐに爆発が起こるのだろうかと思った瞬間、華やかなファンファーレがスピーカーから大音響で流れ、幸平の真上にあったくす玉が割れた。 『祝・自爆装置完成』という垂れ幕とともに、紙吹雪や風船やリボンがわんさか落ちてきた。  ファンファーレは軽やかに続く。  ちっとも嬉しくないぞ。  幸平の押したボタンは自爆装置のスイッチではなく、ただ式典のときくす玉を割るためだけのものだったのである。  護衛の五人が、どっと跳びかかってきた。  そりゃそうだわな、いくら完成記念とはいえ、式典で自爆装置を作動させるわけがないもんなあ。と、幸平は今さら気づいて情けなくなった。ちくしょうあと一歩まで来ていたのに。 「あの、あの、どうしたんでしょう。どうしたんでしょう」すっかりうろたえてしまった案内係は、ごつい兵士が五人がかりでひとりを、それも大佐を押さえつけるという異常な事態に直面し、冷静な判断力を完全に失った。  どうしたらよいのでしょう、と嘆きながら案内係は、男六人が折り重なっているのをわざと見ないようにして割れてしまったくす玉を見上げ、どうしよう責任取らなきゃいけない。このボタンは自爆装置じゃないんだよね、自爆のほうはね別の部屋なんだよね、とぶつぶつ言いながらステージ上手《かみて》に置かれた司会者用の小さなテーブルの下からテレビのリモコンのようなものを取り出して、幸平たちにかざして見せた。 「くす玉とか、今からやり直してたんじゃ間に合いませんよどうしたらいいんですか。わたしの責任になるんですよ」眼が虚ろで、どこを見ているのかわからない。「いいですか、自爆装置はこっちなんです。コンピュータルームからの操作の他に、緊急事態に備えて一応リモコンも五台用意されておりましてただいまここに一台を持ってきておりますこれがそうです不肖わたくし山口《やまぐち》が僭越ながらご説明を」式典で説明する役目だったようで、覚えていた文章を暗誦する。山口さんというらしい。「ここを押せばいいのですが、もちろん今は押せません」と、これは軽い冗談のつもりらしい。  が、押してしまった。  たちまち、けたたましい電子音が要塞内に響きわたった。 [#改ページ]    Countdown To Love  怪鳥の叫び声のような、耳障りな甲高い音が短くくりかえされる中、地面の奥深いところで低く静かに胎動するものがあった。  セキュリティルームの全員が手を止め、見えないなにかを捜し求めて天井や壁に視線をさまよわせる。ひとりはキーボードの横に置いたスタイロフォームのカップの中で、冷えたコーヒーが木の年輪のような波を作っているのに気づいた。 「自爆装置の点火、分、前です」しゃっくりしながら話しているみたいな、途切れ途切れのアナウンスがスピーカーから流れた。「自爆装置を解除する場合は、分以内に、および、の、を押してください」 「なんだって?」 「自爆装置だと」 「そんなもんあったのか」 「今の合成音声、なんか可愛い声だったなあ」 「うん、ぞくぞくするー」 「で、どうしたらいいんだ?」口々にいろんなことを言っていると、合成音声のアナウンスが「建物内にいる人は、すみやかに退避してください」  全員、 「はい」と同時に答えると、どっと出口に殺到した。  セキュリティロックの解除もせずに。 「自爆装置の点火、分、前です」  ごつい男たちと折り重なったまま、幸平はその声を聞いた。あまりの成り行きにみんな脱力して、ただもうそこに重なって横たわっているだけだった。 「自爆装置を解除する場合は、分以内に、および、の、を押してください」  なにを言っとるのかよくわからん。  まだ点火はしていないらしい。けれど、さっきあの山口さんがリモコンのスイッチを入れたとたん、けたたましいサイレンといっしょに地下の方で機械が動きはじめるような音がしたのはたしかだ。  スイッチを入れた当の本人は、体の前に突き出したリモコンと幸平たちの塊とをかわりばんこに凝視しながら他はまったくの無表情なのに口だけ大きく開け、 「あー。あー」 「おいっ」幸平の真上で、誰かが叫んだ。「このパオーパオーは止められんのか」  パオーパオーというのはサイレンのことらしいが、もちろんサイレンさえ止めればいいかというとそうではなくて、自爆装置を止めろと言っているわけである。 「あの、あの、不肖わたくし山口が僭越ながらご説明申し上げます」 「はっはっは」おもしろかった。けど幸平しか笑わなかった。 「そもそも自爆装置を作動させる予定はなかったので、その、なかったのであの、解除までの有効有効有効時間のせせ設定とかとか、ばっ。ばばばばっばっばっばっ場所設定なんかもあのまだ。まだ。と言いますか。その。言いますか?」知らないよ。そんなこと訊いてどうする。 「おー」と、誰かが相手をした。「言うんじゃねえか?」答えてどうする。 「なにを言っとるんだ」と、別の声。たぶんあの代表の兄ちゃんだろう、と幸平は思った。「つまりあれか。設定してないから、肝心の時間や場所のことを言ってくれんのか」 「ああきっとそうです。そうですわ」今ごろなにか重大なことに気づいたらしく、大きく眼を見開いて「ああこりゃ大変だ。待ってくださいよ待ってくださいよ」そこで深々と息を吸い込んで「解除までの時間設定と解除方法の設定をしていないということはですよ。していないっということはですよ」  ごくり、と唾を飲んで幸平たちをじっと見た。  それからおもむろに口を開き、 「いったいどうなるんでしょうね」  がく、と幸平の上で五人分の体重が増えた。 「建物内にいる人は、すみやかに退避してください」と、女性の声。 「逃げろって言ってるよ」幸平は、上に載っている人々に言った。「いいかげんにどいてくれないかなあ」 「ああ、すまんすまん」  立ち上がって幸平は大佐の軍服を脱いだ。でかいブーツも脱ぐと、ものすごく身軽になった気がする。 「さあ逃げよう」と、幸平は明るく機嫌よく言ったのだが、他のみんなは逃げようとしない。「どうしたの?」 「そりゃ逃げるんだけどな」と、代表男が言った。「おまえ敵だろうが。いっしょに逃げてどうするんだ。それに、俺たちには任務がある。責任がある。解除の可能性があるのなら、解除するよう努力せねばならんのだ」 「あー、わたくしのせきにんが」芝居がかった口調で頭を抱えたのは気の小さな山口さんである。 「逃げちゃえばいいんじゃない?」あ、と幸平は足元に落ちていた出町許可証の箱を拾い上げた。「ここがなくなれば、船が来るんでしょ?」 「あーいいなあなんかおまえ気楽で」と代表。 「自爆装置の点火、分、前です。解除する場合は、分以内に、およ」突然途切れて、また同じ調子の声が別のことを言った。「点火システムが作動します。自爆装置の解除はできません」 「ほら、できないって」幸平が急《せ》かすと、 「そうだな、逃げるかな」  逃げよう逃げよう、とあとの四人も強く何度も頷いた。  幸平は、よかった、と頷いて扉へ突進した。  ところが鍵が掛かっていて開かない。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、十分、です」  他の扉も試したが、やっぱり開かなかった。  自爆装置だと? パーカー少佐は歯ぎしりをしながら地下の廊下を走った。  極秘に新兵器を開発するというからいったいどういうことかと思っていたら自爆装置とは。なるほど極秘にでもしなければ、そこらじゅうから猛反対を喰らって大変なことになっていたはずだ。  逃げまどう兵士や町職員が、前方から血相を変えて走ってくるが、少佐はひとり流れに逆らって奥へと走る。  上層部の連中にはなんの理念もないのだ。やつらの頭の中には目先の利益と保身しかない。使い方もわからない大砲を造ったかと思うと、今度は自爆装置か。金儲けのためとはいえ、無意味をやるにもほどがあるぞ。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、九分、です」  点火システムが作動してから爆発までの時間は、他の設定の有無にかかわらず最初から決まっていたのだろうか。それとも、その部分だけ誰かが設定したのだろうか。  しかしそんなことはもうどうでもよかった。  レジスタンスのひとりが大佐に化けて要塞内に潜入したという報告を受けたが、それももはやどうでもいい。なんにしろこの要塞は吹っ飛んでしまうのだ。  少佐はさらに走った。前から走ってくる者はもうほとんどいなくなった。みんなすでに逃げたのだろう。奥に残っているのは少佐みずから監禁した鷹野たちだけにちがいない。他の誰かが気づいて、彼らを避難させていればそれでいいのだが。  放っておけばいいことかもしれなかったが、どうしてもそれはできなかった。我々に損害を与えようと画策していたことは事実なのだから、大佐が彼らを殺すというのならそれはしかたがあるまい。止める手立ではない。敵は敵だ。しかし、監禁したまま見殺しにするというのはできなかった。大佐に引き渡すところまでが、任務なのだ。軍人であるかぎり、途中で任務を放り出すのは許されない。  息が苦しくて、脚からも力が抜けそうになる。この前最後に走ったのは、ずいぶん昔のことだ。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、八分、です」  人気のなくなった廊下にけたたましいサイレンが鳴り響いているが、すでに耳に慣れてしまってほとんど気にならなかった。  最初は異常なことでも、その中にいれば人はすぐに慣れてしまうのだ。それがいいことなのかどうなのか。  鷹野たちを入れた部屋のスチールドアにたどりつき、電子ロックのスリットにIDカードを差し込んでスライドさせた。  プンという軽やかな電子音が鳴ったが、錠は開かなかった。  データの読み取りがうまくいかないのかと、何度かスライドさせるがやはり開かない。  故障ではなかった。にせの大佐が潜入したというので、そいつを逃がさないための緊急セキュリティロックだ。なぜ解除されていないのだ。  これでは、要塞内に閉じ込められている人間がまだあちこちにいるのかもしれない。  いやそれよりも、外部扉にセキュリティロックがかかっていれば、全員が閉じ込められていることになる。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、七分、です」  しかしまさかそんなことが。  少佐は、扉を強く叩いた。 「おい、まだ誰かいるかっ」  中から扉を叩き返す音が聞こえた。 「いるぞっ。開けてくれっ」  外から扉を叩く音に寺尾が叫び返した。  閉じ込められてから、鷹野たちはずっと脱出方法を考えていたが、どうにもならなかった。監禁されているという事実を除けば、ここは豪華な部屋だった。ホテルのスイートルームといっても通るほどの造りで、武器や脱出の道具になりそうなもの以外なら、たいていのものが揃っていた。  せっかくの部屋だったが、ただ逃げる方法だけを探していた彼らにとってそれら豪華な設備はなんの意味もなかった。  どこにも逃げ道はなかった。 「扉から離れろ」外からの声は言った。特徴のある甲高い声は、パーカー少佐だとすぐにわかる。  扉を撃つのだとわかった全員がその場所から離れると同時にマシンガンが連射され、ロックの部分は目茶苦茶になった。  外から蹴られた扉は弾けるように開き、あたりには硝煙の匂いが立ち込めた。 「早く。こっちだ」少佐は、首を傾けて中の者を促した。他のみんなが飛び出ていく中、鷹野だけがひとりまだ立っている。「なにをしている、早くしろ」 「どうして助けてくれる」暗い眼でパーカー少佐を睨む。「どうせ殺すんだろう」  いつもどこか飄々《ひょうひょう》としたところがある鷹野の表情に、言いようのない重い影を見た少佐はぎくりとして、動きを止めた。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、六分、です」  はっ、と我に返って少佐は怒鳴った。 「捕虜は正しく扱う。それだけだ」鷹野の腕を掴んで引き寄せる。「来いっ。無駄に死ぬな」  護衛の巨体五人分と、彼らに比べるとかなり華奢な幸平と町職員の山口さんのふたりを合わせた七人分がぶつかっても、扉はなかなか開かなかった。ここは鷹野たちが監禁された部屋に比べるともともとそう頑丈な造りではなかったので、たしかに押せばなんとかなりそうな雰囲気ではあった。しかし七人分ぶつかるといっても、全員が同時にどんと当たるということはほとんど不可能で、何度かやるうちに馬鹿馬鹿しいことをやっているような気もしてくるのだった。けれど一分おきにお姉さんの声が爆発するぞするぞと脅すので、やめられないのである。 「よし、もう一回」  どかん。と四人がぶつかって。  ばらばら、と残りがぶつかる。 「痛いいたい」と、山口さんが弱音を吐く。 「弱音を吐くな」と護衛の代表。「次は開く」なにを根拠にそういうことを言うのか。  幸平はしかし、それを信じた。そんなことにでもすがりついていないと、しゃがんで泣きそうだ。 「よしもう一回」  どかん。 「うわあ」ばらばら。  開いた。  なんでも信じてみるものである。 「こっちだあ」と、いきなり先頭に立って勢いがよくなったのはあの気の小さい不肖わたくし山口さんだった。「俺につづけ」  しかし、走るのは一番遅かったので、あっというまに最後尾になった。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、五分、です」  螺旋階段を駆け降り一階のロビーに出ると、受付カウンターの奥の廊下から走り出てくる鮎の姿が見えた。  そのとたん腹の底に溜まっていた重苦しい痛みが、ふわりと温かい安堵の溜息に変わるのを感じ、幸平は自分がどれほど鮎のことを心配していたのか思い知った。  ロビーには逃げようとする人のほとんどが集まっているらしく、かなりの人数がそこにいたが、それでも鮎の姿は目立っていた。 「幸平君っ」ほとんど同時に鮎のほうも幸平に気づき、駆け寄ってくる。 「……っ」なんと呼びかけていいかわからない。えーとと思っているうちにロビー中央まで来てしまい、もう鮎は目の前だ。  鮎は必死の形相で、なんとなく怒っているようにさえ見えるのだが、その姿はやっぱり綺麗で可愛くて、見ているだけで幸平の中からあらゆる恐怖を消し去ってくれた。  どん、と鮎はぶつかってきて幸平の体に手をまわす。胸に顔を押しつけられて、幸平は抱きしめたものかどうか迷った。 「後にしろあとに」耳元で怒鳴られた。寺尾だった。鮎は離れず、いっそう強くしがみついてくる。 「あ」どうしたもんかなと、どぎまぎとうろたえて振り返れば、寺尾の顔は笑っていた。うまくやれよ、とでも言いたげに顔の前で拳骨を作る。  幸平は、勇気を出して鮎の体をぎゅっと抱くと、その耳元に口を近づけた。 「よしよし。可愛いぞ」 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_274.jpg)入る]  もう安心だ、と思った。 「少佐っ」と、武装した若い兵士がひとり駆け寄ってきた。  小柄な軍人がその前に立つ。そのときゃっと、幸平は鷹野たちが全員揃っていることに気がついた。よかった、みんな無事だ。助かった。なんだかしらないがうまいこといったみたいだ。と安心したのだが若い兵士はえらいことを告げた。 「外部への扉すべてがロックされています」 「えーっ」と叫んだのは、山口さんだった。叫びはしなかったものの気持は幸平も同じである。ここまで来て逃げられないとは、なんと理不尽な。 「やはりそうか」とパーカー少佐は眼を細めた。くだらない仕事を長年続けて学んだことはこれだ。悪い予感は的中する。  玄関に通じる扉はガラスの自動ドアが粉々に砕け散っていて、その外側に重そうな鉄のシャッターが下りていた。パーカー少佐の部下たちが、溶接で使うようなバーナーでそれを焼き切ろうとしていたが、今のところ切断できている部分はまだ十センチもなく、人間が出られるようにするには、あと三年くらいかかりそうだった。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、四分、です」無情な声がそう告げる。 「セキュリティルームの方に、数名が行っておりますがどういうわけか解除できないようです。少佐。このままでは」大きくて強そうな軍人が、小さくて歳をとった将校に頼りきっているのを見て、幸平は感心した。ヘルベルト木山とちがってこの人はきっといい人だ。と、大した根拠もなく確信する。 「あっ、あっ、あのっあのっ」と、息も絶え絶えという声を出して近づいてきたのは例の山口さんで「緊急セキュリティロックを解除するには、メインのコンピュータのほうで解除の指令出すか、そこの電源を切るかしないといけないわけで、セキュリティの連中だけではどうにもその」と、そこまで慣れ親しんだ説明口調だったのに突然自分の状況を把握してしまったらしく「あーああーあ、もう間に合わない。どうしましょう」 「メインのコンピュータというのは?」と少佐が勢い込んで訊ねた。 「あの、その」はあ、はあ、と泣きながら「ここの、中枢を司《つかさど》るスーパーコンピュータでその設計には諸外国の……」なにを思ったかどうでもいい説明を始めた。 「場所だっ」怒鳴るとやはり少佐の迫力はものすごかった。 「あ、その、そこの廊下をずっと突き当たって、右に折れてそのまままっすぐ行けば、書いてありますがその」 「すぐに行きます」少佐の部下が敬礼をして、回れ右をした。 「待て」と、少佐は言った。「わたしが行く。君はセキュリティルームに行った連中を呼び戻せ」 「しかし」  それを無視して少佐は山口さんに、 「電源を切ればいいんだな」 「はあ、そうですが」もう、間に合わないかと。と、口の中でもごもご言った。 「少佐、自分が行きます」いかにも熱血漢、という感じの青年だった。幸平は、そこにいる人々の勇気に感動していた。ぼくは絶対行きたくない。 「君は、これから他にまだやることがたくさんある」ぽん、と肩を叩いた。「ここは年寄りにまかせろ」 「ところがですねえ」と、山口さんがまた口を挟んだ。「コンピュータの電源を切るにはスイッチがふたつあってですね 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、四分三十秒です」                わーっ」と山口さんは驚いて、三十秒おきになったんか。そやけどもうあかん逃げる時間がないとぶつぶつ言ってからまた、えらいことを言った。「ふたつのスイッチは離れていて、それを同時に切らないといかんわけです。誤作動防止のために」 「ということは」と、少佐。 「ひとりではできないのです」さあどうしますか、というように少佐と部下を眺める。 「では、ごいっしょします」と、部下が言うのをさえぎったのは鷹野だった。 「俺が行くよ。どうせ捕虜なんだ」  え、と驚く寺尾や西畑を手で制して鷹野は微笑んだ。  少佐は鷹野を見て微かに頷くと、やはり微笑んだ。ふたりはどことなく似ていた。 「君は止めても無駄だな」嬉しそうに、そう言った。 「少佐っ!」部下の若者には納得がいかないようだった。 「いかん。これは命令だ」  しばらく若者は悲しそうな顔で少佐を見つめていたが、決心がついたのか直立して敬礼をした。さきほどの敬礼よりも、ずっと力強い敬礼だった。 「ご無事で」 「他の者によろしく伝えてくれ」少佐は、軽く答礼をすると背を向けた。 「鷹野さん……」と寺尾がどうしていいかわからない、というようすで呟いた。  鷹野は、寺尾、西畑、河合、鮎と幸平、を順に眺め、それから鈴蘭と玉田に軽く手を振った。 「おじさんっ」幸平から離れて鮎が叫んだ。「死んじゃいや」 「誰かがやらないと、全員死ぬんだ」鮎にそう言うと、鷹野は幸平に頷きかけた。  幸平は鷹野に頷き返し、そっと鮎の手を取った。その手に力はない。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、四分です」 「行くぞ」パーカー少佐が駆けだす。  鷹野が続こうとすると、鈴蘭もそれを追うように駆けだした。鷹野の背中に顔をぶつけるようにして抱きつき、 「弦司さん。あたし。やっぱり……」 「後悔するな。君の選んだことなら、その選択も君の一部だ」鷹野は前を向いたまま静かに言った。「俺も死ぬときはおまえのことを考えてやる」  鈴蘭を振り切って、鷹野は走っていった。  玉田はぼんやりと、そのやりとりを眺めていた。  西畑が鷹野の言葉を継いで言った。 「すべてを愛するというのは、そういうことだ……」  走りながら鷹野は振り返った。 「そう。それ」  鷹野とパーカー少佐が行ってしまってから、しばらく誰も口をきかなかった。けたたましいサイレンが鳴り響いているというのに、静寂はたしかに存在した。  間に合わないかもしれない。絶望が着々とロビーを覆っていった。  パーカー少佐の部下たちは、それでもあきらめずにシャッターを焼き切ることに専念していた。 「大丈夫だ。三分あれば、充分に逃げられる」と、てきぱきと動いている兵士のうちのひとりが叫んだ。 「自爆装置の点火システムが作動しました。爆破まであと、二分三十秒です」  ロックはまだ解除されない。 「二分でも、一分でもなんとかなる。あきらめるなあ」ほとんど自分に言い聞かせているのではないか。兵士は両手を高く挙げて、明かり取りの窓が並んだ天井に向かって叫んでいる。「まだなんとかなるぞお」 「そうだ、あきらめるんじゃない」と、彼らを手伝ってガスのボンベを運んでいる寺尾が言った。真面目な人は最後まで真面目。敵とはいえ昨日まではいっしょにいた連中なので、違和感なく溶け込んでいた。それに死を目前にしたこの状況の中では、敵も味方も関係のない強い連帯感に包まれる。 「まあしかし、これで船はどんどん来るようになりますよね」と、西畑。幸平たちはもはやすることもなく、出口付近の床に輪を描いて座っていた。「一応成功した」 「爆破まであと、二分です」  また沈黙が降りた。  二分やそこらで、逃げられるものだろうか。建物から出たとしても、爆発に巻き込まれたらそれまでだ。  なにやらごそごそとやっていた河合が、小さな湯飲みをずらりと床に並べ、嬉しそうに言った。 「まあ、一服しましょう」  この大きな手榴弾型魔法瓶には、こうして多人数でのティーパーティもできるようカップが収納されていましてね、という河合の説明を聞きながら床に座り込んだみんなで、お茶を飲んで一服することにした。 「爆破まであと、一分三十秒です」  妙に落ち着いた雰囲気が流れ、このまま実は爆発なんかないのではないか、と幸平は思いながら熱いお茶をすすった。これ、麦茶ですか、と訊こうとした瞬間。  今まで鳴り響いていたサイレンが急に止まった。  うるさいのに慣れていたもので、この突然の静けさは耳にこたえた。 「爆破まであと、一分です」これが最後だ、と言わんばかりにはっきりとそれは聞こえた。  その場の全員が凍りついた。  ピーンという電子音とともに、ゆっくりとシャッターが上がっていった。他のところでも、開いたぞと叫ぶ声がした。ぎりぎりだったが、鷹野とパーカー少佐はやることをやったのだ。  あわてて逃げだしていく人も多かったが、そのままじっとしていた人もけっこういた。もう逃げる時間がない。  がん、と重い金属がぶつかる機械的な音がした。スイッチが入ったのだ。  あと一分と言ったわりには、ちょっと早いのではないかと幸平は感じ、そういえばビデオの録画予約のときも実際録画が始まるよりちょっと早めにスイッチが入るもんなと、どうでもいいような納得をした。  爆発が起こった。 [#改ページ]    The World Is Waiting For The Sunrise  ぞろぞろと玄関前に出てきた人々は、なにが起こったのかよくわかっていなかった。  なんだかへんにあっけない爆発でしたなあ。などと言っている人がいるかと思うとえ、爆発なんかあったんですか、と言うのんびりした人もいる。  幸平たちもわけがわからず、ただ玄関前の植え込みのところでぼんやりとしていたのだが、そこへ鷹野とパーカー少佐がきょとんとした顔でやってきた。 「なんだかみんな無事みたいだね」と、鷹野が言う。 「はあ」と、誰もが力のない返事をして特に再会を喜ぶでもなくぼうっとしていた。あれほど悲壮な別れをしてしまうと、五分ほどで無事再会というのはちょっとなんというか言葉をなくすのである。鮎でさえ、ああよかったと呟いたもののどう対処していいかわからず、ぼおっと鷹野を眺めているだけだった。  一番困った顔をしているのは寺尾で、やはりこういう展開にはついていきにくい性格らしく、どういう顔をしていいかわからずなにを言っていいかわからず、眉間に皺をわざとらしく寄せて口を尖らせてふーっと息を吐いたりした。  ただ鈴蘭だけは心から嬉しそうな顔で、もう鷹野ばかりを見ている。見ているだけでなく、きゃーっとか叫んで鷹野に抱きついたりもする。 「よかった。弦司さん。よかったね。ね。弦司さん。弦司さん」  鷹野は子供みたいに喜ぶ鈴蘭に抱きつかれて、やはり嬉しそうに笑った。 「えほん」とパーカー少佐が咳払いをした。「つまりな」と元々甲高い声を裏返らせてしまってちょっとうろたえ「つまり」と言いなおす。「自爆装置というので要塞全部が爆発すると思ったのがまちがいだったのだ」 「まちがい?」西畑が、やはり他のみんなとおんなじようにぼやんとした顔で訊ねた。 「上に展望台があるんだけど」と首に鈴蘭をぶら下げた鷹野が言った。「そこへ行くと、よくわかるよ」  ぞろぞろ行くことにした。パーカー少佐と山口さんもついてきた。 「ははあ」と最初に声を出したのは河合だった。「なるほど」  展望台というのは要塞の屋上のことで、ここからだとすぐ下にレーダーコントロールガンの前半分ほどを見下ろすことができるのだった。もちろん海もよく見える。  今、見えるのはもともと大砲が二基設置されていたはずの台座だけである。  そしてちょっと身を乗り出してみると、絶壁の下の田圃《たんぼ》や畑の中に、さっきまでレーダーコントロールガンだったものの残骸が、あちこち散らばっているのが見えた。 「お百姓さんが怒るだろうなあ」また河合が言った。それから、ふと気づいた顔をして、なにかと思ったら「こんな冬でも、いろんな作物が育っているんですねえ」と、教育テレビのようなことを言って感心する。 「ぼんって、大砲ふたつがね。飛びだして破裂したんじゃないかと思うんだ」と、鷹野が説明した。説明されなくても見ればだいたいわかるし、だいたい鷹野自身その瞬間を見ていたわけではないので特に説得力もないのだが、みんな他にすることもないので、へえとかははあとか適当な相槌を打つ。鈴蘭は落ち着いたのか鷹野から離れ、といって玉田のところへ行くこともせずにうんうんと頷いている。 「少佐と」と鷹野は言って少佐に何度も小刻みに頷きかける。「ね」うんうんうん。  少佐も別に悪いことをしたわけではないのになんとなく後ろめたいような気分でいっしょに頷いて、 「爆発のあと、ここへ来て見たんだよ」うんうん。 「まあでも、よかった。うん。みんな無事だし、大砲は壊れたし」終わりよければすべてよしですよ、となんとかきちんとしたことを言いたい寺尾が無理矢理まとめようとしたが、不満なのは西畑だ。 「いやしかし、なんというか」こういうあっけない幕切れはなあ。なんかなあ、いいのかなあ。美しくないなあ。 「なんというかですなあ」非常に嬉しそうに河合が真似をした。特に残念そうではない。  はっと寺尾が動いた。  銃声がした。 「よし」と西畑は頷いた。「いいぞ」 「なにが」と河合。  ほぼ同時に展望台の向こうの端の方でちゅいーんと弾が跳ねる間抜けな音がした。  銃声だということはわかったが、なんとなく緊迫感がない。誰もいないところに向けて撃ったらしいというのもすぐわかったので、寺尾以外のみんなは、なにやってんだろうかとのんびり振り返った。  下着姿の木山大佐が、拳銃を構えて展望台入口に立っていた。その後ろに、パーカー少佐の部下たちが、どうしたものかという顔で控えている。  木山大佐はいかにも悪党という笑い方で、にんまり笑うと、そこまでしなくてもいいのにと思うほど膝を高くゆっくりあげて、ぐんにゃーぐんにゃーと歩いた。 「やっと見つけた」下着姿なのだが、ブーツだけはきちんと履いているのでとてもへんだ。「はあーっくしよおおーいっ」そりゃ寒いだろうなと思う。しかし薬のせいか全体に動きがおっとりしているとはいえ、こういう場合くしゃみまでがゆっくりになるものだろうか。どうだろうか。実際なっていたけど。「おまえら、全員死刑だ。ここで、殺してやる。少佐、そこをどけ」  そして木山大佐はにやーっと笑って、笑いはじめるとそもそもなんで笑ったのかということがどうでもよくなり、どんどんおかしくなってしまって、 「けけけけけ」と笑った。まだかなり薬が残っているようだった。「おう」と笑った自分に驚いたのか、ぶるっと震えて真顔に戻る。「どけ、少佐。こいつらは敵だぞ。レーラーコンロロールガンを」言えてない。「爆破しやがった。わしの服、返せ」  いきなり幸平に向かって発砲したが、狙いはまったく定まらず、まるっきり見当はずれなところを撃つ。また続けて二発撃ったが、二発とも空へ飛んでいった。手に力がないので、引鉄を引こうとすると拳銃はへんな方を向き、撃ったときは撃ったときで、その反動を抑えられないので銃口が上を向いてしまうのだ。 「あたらない」  言わなくてもみんなわかっていることをわざわざ呟いて、それでもあきらめずになんとか幸平に狙いをつけようとするのだが、きびきびと動くということが全然できず、やはり太極拳のような仕種でぬたーっと手足を動かした。  パーカー少佐はつかつかと歩み出ると速く動けない木山大佐の真横へ回り、朝食のパンでも取るみたいに大佐の拳銃を取り上げた。 「あー」と大佐。抗議の声を上げているのである。  パーカー少佐は展望台入口のところで、困った顔をしている部下のひとりに大佐の銃を手渡した。 「レジスタンスのスパイが、大佐に化けてこの要塞に潜入したという報告があった」うお? と、なんとものんびりした驚き方をしている大佐を指さし「ここを破壊したのは、たぶんこの男だ。逮捕しろ」 「ばかもの。わしゃ本物だ」と、大佐は胸を張る。 「誰が信じるかな?」少佐は木山大佐の間近まで迫って、下からその顔を見上げた。「軍服がなければどうにもならんような男を、本物とは言わん」連れていけ、と鋭く部下に命令した。  この場合、軍服がどうとかそういう問題ではなくて薬のせいでおかしくなっていたんだから、と幸平はほんの少しだが木山大佐に同情した。 「いいんですかね。少佐」木山大佐が連れていかれてしまうと、鷹野が困ったもんだという顔をした。「どうせそのうちばれますよ」 「さあ、どうなるかね。とりあえず君たちが逃げる時間は稼げるだろう?」少佐は海を眺めてそう言った。 「まあね」鷹野は考え込んだ。「あとはこれからどうやって逃げるための資金を調達するかだ」 「店はナチスの連中が没収してしまっているからな」と、言って少佐はまるでもう自分がナチスの一員ではないようなつもりで話していることに気づいた。鷹野もそれを感じたようで、ふとふたり顔を見合わせて眉を上げる。 「どうです、いっしょにやりませんか。もうひと暴れ」 「党本部の金庫から金を盗むとか言うんじゃないだろうね」まさかなあと笑いかけて、え、と止まった。鷹野が眼を細めてうっすらと笑っていたからだ。すぐ横では、やる気満々でどことなく嬉しそうな寺尾がやはり少佐を見てにやりと笑う。少佐は呆れ顔で「とんでもないやつらに巻き込まれたものだ」  そうか、これで終わりというわけではないのか。と、幸平はもう家に帰れるのかと安心しかけていたのに、ちょっとがっかりした。ちょっとしかがっかりしないのは、たぶん鮎のことがあるからだと思う。できるだけ長い間鮎とはいっしょにいたい。鮎がスイスに行ってしまえば、もう会えないかもしれない。 「どうしたの?」鮎は無邪気な笑顔を幸平に向けた。 「うん。いや、みんないい人だなと思って」いずれは鮎と別れなければならないのだと思うと、その顔を見るのが腹立たしかった。なにに腹が立つのかよくわからなかったが、とにかくよそを向いて、他の人たちを見た。  みんなこれからどうするんだろう。みんなスイスへ行くんだろうか。  鈴蘭と玉田は、と見ると鈴蘭は海を眺めて楽しそうだが、玉田のほうはみんなから少し離れたところにひとり手持ちぶさたに立っていて、なにやら真剣に考えているようすだった。 「あ」幸平は木山大佐が言っていたことを思い出して、どきりとした。「ちょっと待っててね」鮎にそう言うと、鷹野と少佐のところへ歩いていく。 「おう。どうした」鷹野が幸平に気づいた。 「あの、木山大佐が」と、幸平は下を向いて囁いた。「玉田さんはスパイだと言ってましたけど」パーカー少佐の視線が気になった。ものすごく凝視されているのを視界の端に感じる。裸の美人が突然目の前に来たっ、というような見つめ方だ。ホモかな。  ああ、いやちがうぞ玉田じゃなくて田畑というのをまちがえたんじゃないか、などと鷹野が説明してくれているのにそれに集中できない。なんでこのおっさんはこんなにじろじろ怒ったみたいにぼくのことを見ているのだろうか。恐いくらいだ。まあとにかく玉田がスパイでないならそれでいいんで。 「ああ、じゃあまあ、そういうことで。じゃぼくはこれで」なんとなくへんなことを言いながらとにかくこの少佐という人から離れようとしたのだが、いきなり二の腕をぐわっと掴まれた。 「君っ」うわー、なんなんだこの人、恐いぞちょっと。 「はい」と固まってしまう。 「それ、いったい……」と、少佐が見ていたのは幸平が脇に抱えている書類入れの箱だった。 「あっ」そうか、これか。「いや。その盗むつもりはなくてその。木山大佐が薬でぼくのこと」どう言い逃れようか。 「すごい」少佐は幸平の手から箱をそっと受け取ると、出町許可証を一枚一枚改めた。「全部本物だ」 「おまえこれどうしたんだ」鷹野も箱を覗き込んで、それから少佐と寺尾と三人で顔を見合わせる。  じわーっと三人とも同時に同じペースでその顔に笑いを浮かべ、まったく同時に爆笑した。 「わっはっはっはっ。やったぞ幸平」鷹野に思い切り背中を殴られて息が詰まった。「これだけあれば、ここにいる全員が一生暮らせちゃうぞ」またわっはっはと笑う。 「え?」幸平にはまだどういうことかわからなかった。 「わかってないなおまえ」笑いながら少佐が言った。さっきは「君」なんて言ってたくせにもう「おまえ」になっている。「この町でなにが高価かと言って、これよりすごいものがあると思うか」 「本部襲撃はなしだ。すぐにも船に乗れる」鷹野が言った。「余った金は病院に寄付しよう」 「あーっ」と海の方を指さして、鮎が叫んだ。 「あーっ、ほんと」と同じように明るく可愛い声で叫んだのは鈴蘭である。なんとなく、来たときよりも若くなったような感じがする。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_292.jpg)入る]  鮎と鈴蘭が指さしているのは海の向こう、淡路島の陰からおぼろげに見える船だった。 「船だ。もう来たの? さっき大砲なくなったばかりなのに?」幸平は納得できない。「そんな無茶な」 「毎日近所は通ってるのよ。だからすぐ来たの。そういうものなの」と、鮎は嬉しそうだ。 「そういうものなの?」と言いながら幸平はまあたまたま一隻通りかかったやつがいたんだろうとなんの気なしにまた船が来る方を眺めたのだが、眼下に広がるその光景に、いくらなんでもこれは嘘だろうと、呆れてしまった。  一隻や二隻ではなかったのである。  何十隻という船が船団を組んでこちらへやってくる。最後尾の方は水平線の向こうから次々と現れて、その数には限りがないようだった。 「よし、木山大佐がいつ出てくるかわからんからな」鷹野が宣言した。「今すぐ出発の準備だ」 [#改ページ]    Hit The Road Jack 「船が来た」カウンターに向かってテキーラを飲んでいた男が、誰に言うともなく呟いた。無表情だったのだが、さらにひとこと「やっと来た」と付けくわえ、自分の言葉に感激したのか、はっと息を吸いこんで一瞬後にはみるみる表情を崩して泣きだした。 「ずぎゅうう」両手で持ったグラスを胸の前に抱えたまま、顔をくしゃくしゃにしてがっくんがっくん号泣する。 「お、あぶないぞ」そばにいた者は、いっせいにその筋肉質の男から離れた。 「あいつ、出来心で七人殺してるらしいからな」 「この町ではまだ殺してないんだそうだが、怪我人はたくさんいる」そう言っている背の高い男は、首と左手にギプスを嵌めていた。どちらのギプスも明らかに病院のものではない。首の方は「岩本青果店」と書いてあるし、腕のギプスは材料にどうやら子供用紙粘土を使っているらしく赤青黄白の四色が複雑に入り交じっていて、まあ綺麗といえば綺麗。みっともないといえばそれまで。  泣き上戸の筋肉質の男のまわりには、完全に誰もいなくなって、号泣はやがてひくひくと穏やかな嬉し泣きへと変化していったので、ああやっとおさまったと、みんな一安心だった。  バンドは静かにドリーム・ア・リトル・ドリーム・フォー・ミーを演奏していて、お祭りムードの中にもどことなく落ち着いた雰囲気。と、ここまではよかった。  トイレに行こうと立ち上がったひとりの男が、真っ昼間から飲みすぎたのかぐらりとよろめいてすぐ隣のテーブルに手をついたところが、このテーブルは天板が台に載せてあるだけといういいかげんなものだったので、天板は跳ね上がってビールや焼き鳥を天井近くまでふっとばした。  飛び上がったビール瓶はたまたま入ってきてすぐの客の後頭部を直撃し、痛かったのでその客は怒って振り返るとたまたま背後にいた関係のない客をためらうことなく殴った。殴られた男は後ろ向きによろめいて、この騒ぎにまったく無頓着だった別のテーブルに背中から突っ込んだ。  カードゲームのテーブルである。  突っ込んできた男のせいでテーブルが粉々に壊れてしまったというのに、カードゲームに熱中していた男たちはそれぞれ手持ちのカードを睨んだまま動かない。 「よし」とひとりが顔を上げ、テーブルがないことに気づいてまたかという顔をした。今までテーブルがあったあたりの宙を撫でるようなことをして「俺のチップがない」  やがて、まったく別のところで関係のない喧嘩が自然発生した。  酒場は大乱闘に突入した。  バンドのホーンセクションが立ち上がり、華やかなイントロへ突入する。曲はエニシング・ゴーズ。毎日二三回はやっている。  乱闘はさらに激化し、店内のあらゆるものが破壊されていくが大丈夫。この店は関係ない。  港に停泊中の船は大小取り混ぜておおよそ五十を数え、沖には着岸を待つ船が続々とやって来ていた。  すでに到着した船からは種々雑多な人々が大久保町の地に降り立ち、また今まで不足していたありとあらゆる物資の荷揚げ作業があちこちで行われている。町は活気を取り戻しつつあった。  出会いと別れ、旅立つ者と辿り着いた者とが、万感の思いを秘めて港に佇んでいる。  人間は誰もひとしく旅人であり、旅の終点に人は幸福がなんであるのかを知るのだ。  などと考えているのは西畑である。  人と物でごったがえす港を河合とふたり、ぶらぶらと歩いている。  彼はこれから鷹野たちといっしょにスイスへ向かうのだが、そのあと、河合とふたりでトルコへ行ってみようかという話になっていた。そのあとどうするかということはまったく決めていなかった。とりあえずカッパドキアという遺跡を昔から見たかったのだが、河合のほうはというと西畑が口にした「カッパドキア」という言葉の響きが気に入って、ただそれだけでいっしょに行くらしい。 「そりゃあなんといってもカッパドキア」と歌うように言って、上機嫌である。鷹野の店はナチスが閉鎖してしまっていて戻れないので、こつこつ集めた魔法瓶のコレクションをあきらめなくてはならなくなったというのに、それについてはさほど気にしていないようで、どこで見つけたのかさっそく新しい魔法瓶を買ってきていた。  鷹野、寺尾、パーカー少佐の三人は、スイスに行くなら山にでも登ろうかと相談していた。金がなくなったらなにか仕事が必要だが、この三人なら私立探偵かなんかがいいのではないかなどと言って笑っている。本気なのかどうなのか。  玉田は大久保町に残ってレジスタンス活動に参加するという。 「もうやけくそさ」と、玉田は言った。「とりあえずしばらく飲んだくれるんだ」 「ごめんね玉ちゃん」ベージュのワンピースに水色のコートという恰好に着替えた鈴蘭が泣きながらあやまった。 「いいさ」玉田ははにかんで、ちょっと左右に体を揺らした。「今まで鈴ちゃんにはいっぱいいろいろしてもらったからね。感謝してる」  鷹野はなにも言わずに玉田の前に立つと、右手を差し出した。  その手をしっかりと握りながら、玉田は鷹野を見上げ、 「あんたを殴ってやりたいよ」と言って笑った。 「俺も最初、あんたを殴りたかった」鷹野も笑っていた。 「また今度な。会えたらな」軽く手を振って、玉田は背を向けた。「さっそく一杯やってくるよ。ここは酒場が多くていいや」  煙草を取り出し、元気なくうなだれたまま口にくわえる。すっとその前にマッチを差し出したのはいつのまにかやってきていた西畑だった。ブックマッチを、ちぎらないまま擦る。  ぼっと音をたててブックマッチ全体が燃え上がった。 「うわっ」あわてて西畑はマッチを放り出した。玉田の煙草は燃えてしまって半分くらいの長さになっていたが、それでも火は点いた。 「ありがとう」と、玉田。 「最初の一杯は、俺がおごるよ」西畑は熱かった手をあわただしく振りながら言った。 「もうすぐ船が出るんじゃないのかい?」玉田は驚いた。 「まだ少し、時間はあるさ」 「あ、わたしも行く」河合もついていった。河合は西畑が好きなんだなあ、と雑踏に紛れる三人の後ろ姿をぼんやり眺めていた鷹野の腕に、鈴蘭の細い腕が絡まってきた。  船を見送りにきていた背の高い黒人青年が、鷹野を見つけて声をかけようとしたが、互いに見つめ合う鷹野と鈴蘭を見て人ちがいということに気づき、やあと出かかった言葉を呑み込んだ。微笑んで、大きな肩をすくめる。 「お幸せに」  踊るように軽快なステップで歩み去る黒人青年のコートが風に煽られると、腰に吊られたリボルバーが冬の陽射しにきらりと光った。  ほんの少しの時間ではあったが、船が出るまでの間を幸平は鮎とふたりきりで過ごした。  スイスへは行かないと言った幸平に鮎は、 「そう」と言っただけだった。  いっしょに行くわけにはいかないのだと、鮎に話しながらも幸平はずっと迷っていた。  船がもう出るという、このときになってもまだ迷っている。  けれど迷ったところでしかたがないということもわかっていた。大学も決まってこれからというときに、スイスなんかに行ってしまったのでは将来めちゃくちゃだ。いっしょに探偵やろうなんて冗談ではない。ぼくには無理だ。  ちょっとだけスイスへいっしょについていって、すぐに帰ってくるというのも考えたのだが、行けば帰りたくなくなるのが自分でよくわかっていた。鮎や、その他ここで知り合った気持のいい人たちとこれ以上親しくなったら、普通の暮らしに戻ることなんか絶対にできない。  帰るしかなかった。  鷹野と鈴蘭、鮎と、それから寺尾とパーカー少佐が見送りにきてくれていた。河合と西畑は、まだ戻っていない。彼らは幸平がいっしょにスイスへ行くものと思っているのだった。  目の前にはみすぼらしい小さな汽船が停泊している。これに乗れば家に帰れるのだ。 『青木フェリー乗り場行き』と書いてあった。あれはアオキではなくオオギと読むのだと、鮎が教えてくれた。神戸より少し東に行ったところで、大久保町からだと一時間ほどだという。スイス行きよりもこっちのほうが先に出るのだ。 「やっぱり、帰るのね」鮎はそれほど淋しそうでも悲しそうでもなかった。「手紙書くね」  うん、と声もなく頷いて、幸平は思い出したように洋服屋の紙袋を鮎に差し出した。 「これ、ありがとう。洗ってないけど」借りた服が一式入っている。今着ている服は鮎といっしょに買った。これがいいあれがいいと、鮎が選んでくれたのだ。 「よかったらあげるわ。セーターはあたしが編んだのよ。手作りよ」 「いいの?」そのあとなにを言っていいのかわからない。「ありがとう」 「あたしが心をこめて編んだんだからね。幸平君のために」 「え、だって」ぼくと会う前に、もうできてたじゃないかと言おうとしたのだが、鮎は急に顔をくしゃくしゃにして、泣くのかと思ったらくるりと背を向けて走っていってしまった。  それで終わりだった。 [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_301.jpg)入る]  もう会えないのだ。  よっぽど、ぼくもやっぱりスイスに行こうと言いそうだったのだが、よくよく考えてみれば鮎と知り合ったのは昨日のことなのだ。この場の雰囲気に負けて、人生を棒に振っていいものか。  いやしかし。とまだ迷う。 「おい、そこの兄ちゃん乗るのか?」船から、真っ赤に日焼けした顔のいかにも粗暴そうな男が怒鳴った。この船の乗務員らしい。寺尾の巨体に気づいても臆することなく、乗るなら早くしろよとぞんざいに畳みかける。 「あ、はい」と、返事をしたものの、どうしようかなあ。 「いっしょに来ればいいのに」と、鈴蘭が優しく声をかけてくれた。「楽しいわよ」 「彼には、彼の人生があるのさ」鷹野が言った。「しかしな、鮎みたいな娘はちょっといないと思うぞ」 「人との出会いというのは、じっと待っていてどうなるというものではないんだよ」と、ダウンジャケットにジーンズという恰好で、別人のようになったパーカー少佐がそう言った。「空から恋人が降ってくるわけじゃない。勇気と努力が必要なんだ」  突然向こうの方できんきんした女の声がした。 「素敵な彼が欲しいって神様にお祈りしてたら、この人が空から降ってきたのよ」 「え?」と全員が振り返る。  幸平も見た。きんきん喋る美人の横で、にやけているのはボブだった。ついに本当の名前はわからなかったが、彼も幸せそうでなにより。  幸平は知らなかったがボブの隣で笑っているのは、昨晩『鷹弦』で酔いつぶれていた赤いドレスの女である。今は地味な服装なのに、酒場にいたときよりもずっと明るく若々しく見えた。 「うん、まあ、そういう風に、うまく出会うこともあるかもしれんが、な。まあ普通はその」パーカー少佐はちょっと困って「あの野郎、作戦途中で女の所へ飛んでいくとはけしからん」 「おいっ、乗るなら早くしろって言ってるだろ。乗らねえのかおまえ」粗野な声がふたたび幸平を急かした。 「じゃあ」と、迷いはあったが、いかつい声に怒鳴られて、その勢いで幸平はタラップに足をかけた。切符を手渡すと赤ら顔の乗務員は、おうガキのくせに特等か、と憎々しげに呟いて、かっかと笑う。  幸平が乗り込むと、男はタラップを片付けて船縁《ふなべり》の階段を上がっていった。この船は操縦からなにからあの男がひとりでやっているのかもしれないな、というようなことをちょっと考えながら、幸平はタラップのなくなった場所をしばらく眺めていた。もう本当に、帰るしかなくなってしまった。  河合と西畑が走ってくるのが見えた。酒場の窓から船に乗る幸平に気づき、驚いて飛びだしてきたらしい。なにか叫びながら懸命に手を振っている。その後ろからどたどたとついてくるのは、不肖わたくし山口さんと護衛の五人だ。彼らもこの町から出ていくのだ。たとえここへまた来たとしても、もう会うことはない。  ぐらりと足元が揺れた。  なんの躊躇もなかった。船は岸を離れ、ゆっくりとその場で方向を変える。  鮎の姿を探したが、どこにも見えなかった。  仲間が遠ざかっていく。  手紙を書く、と鮎は言ったが、書いてくれないような気がした。  幸平はゆっくりと船尾へと移動していく。港を見失うのが恐かった。  スイスへ行く船はどれだろうかと見てみたが、外国行きの船はどれも似ていて、わからない。  あんなに帰りたいと願っていたのに、帰ろうとしている今はちっとも嬉しいことなんかなかった。  小さくて汚いくせにやけに速い船だ。  鷹野たちはもう顔が判別できないくらいに小さい。  結局鮎は見えなかったが、それでも幸平は探しつづけた。せっかくの特等席にも座りたいとは思わなかった。  港が遠く霞んでしまい、人も船もはっきりと見えないほどになったとき、幸平は町の上に覆いかぶさるようにして聳え立っている絶壁と、その中ほどにぽっかりとあいた大砲の台座を見つけた。  幸平は船に乗って初めて嬉しいことを見つけた。  あれをやったのはぼくたちだ。  そのまま三十分ほど、幸平はそこにいた。冷たい潮風のおかげで頬も耳もほとんど感覚がなくなってしまっているのに気づく。  そのまま船室へは向かわずに、乗務員以外立入禁止と書かれた階段を登った。  一等船室と書かれた方では酒盛りが始まっているようで、ひどくにぎやかだった。バンドの人たちまでいるらしい。エンジンの騒音に混ざって「旅立てジャック」が聞こえてきた。この曲は好きだからよく知っている。  乗務員室、と書かれた扉を開けた。  さっきの粗野の塊が舵を取っていた。こいつが船長か。いや、やっぱりこのおっさんひとりなんだ。まいったなあ、話の通じそうな相手ではない。 「なんだ」幸平に気づいておっさんは怒鳴った。船のエンジンが目茶苦茶にうるさいので、怒鳴ってもはっきり聞き取れないほどだ。「勝手に入って来るな」 「あの」 「なんだ。用か」 「はああの」と、幸平は一所懸命に大きな声で言うのだが、自分でもよく聞こえない。  それでも船長はさすがに慣れているのか、幸平の言ったことがわかったようだった。 「スイス行きの船を探して、追いつけってか?」本当にそういう馬鹿なことを言ったのか? と大声で確認する。 「そうです」 「あーっ?」 「そうですっ」  なんだこいつ、という顔でおっさんは幸平を眺めていた。しばらく微動だにしなかた。危ない人だと思われたようだった。 「それ…………って…………のか?」今度はおっさんの声が聞こえない。 「はあ?」 「それはおまえにとって、ものすごく大事なことなのか? って、訊いてんだっ」  ぽかん、と幸平は言われたことを理解するのに二秒かかった。 「そうです」と頷く。「人生がかかってるんだ」思い切り叫んでいた。 「わかった」おっさんは力強く言うと、幸平の胸をどんと殴った。「まかせとけ」  船はゆっくりと向きを変えた。 [#改ページ] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_308.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_309.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_310.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_311.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_312.jpg)入る] [#挿絵(img-dengeki/IsBurnAtOkubo_313.jpg)入る] [#改丁]  新作ストーリー  ドクター・モヘーの島  THE ISLAND OF DR. MOHEH [#改丁]  信じがたい失策の結果敵の猛追を受け、文字通り崖っぷちもはや絶体絶命。鈍く曇った空に銃声が響くと同時に右肩が熱く爆《は》ぜ、勢いにつんのめったところ足下の岩が崩れた。真っ逆さまに海へと落下していくその恐怖の瞬間、わあと叫んだ自分の声に目が覚めた。  やれやれ夢かとほっとしたのも束の間、見知らぬ天井と肩の疼痛《とうつう》によって今の悪夢は実際我が身に起きたことだったのだと吹石《ふきいし》雄作《ゆうさく》は思い出した。  ここは病院だろうか。殺風景だが部屋は明るくベッドは清潔である。負傷した肩には包帯が巻かれており、何者かの手によって救出されたことはまちがいないが、被弾した状況から考えて今なお敵地にある可能性は高かった。身に着けているのは患者着のみで、全身に装備していた武器類はすべてなくなっている。たとえ荒波にもまれその大半が流されたとしても人工皮膚の下に仕込んだ特殊ツールまでもが自然になくなるとは考えられず、これはつまり雄作を武装解除したプロフェッショナルがいるということである。  おそらく尋問、あるいは拷問によって情報を引き出すため生かしておいたのだろうと雄作は考えた。  誰かがやってくる前に逃げ出すことは可能だろうかと、痛む肩に負担をかけないよう半身を起こそうとしたが、首から右肩にかけてがベッドに固定されているらしく動かせない。無理に引きはがそうとすると脳天突き抜ける激痛が走った。  手足は拘束せず自由にさせておき、しかし逃げようと動けば耐えがたい痛みに襲われる悪趣味な仕掛けかと気づき雄作は暗澹《あんたん》たる気持ちになった。このような手の込んだ仕掛けをわざわざ施す相手は本物のサディストに決まっているからである。  どうやら事態は最悪のようだと軽く溜息を吐き、なにか役に立ちそうなものはないかと雄作が首を巡らせた瞬間、それを見計らったかのように部屋の扉が開いた。 「動けないでしょう」入ってきた中年男が、笑い混じりの口調で言った。「無理に動かさないほうがいいですよ」  薄汚れた白衣を着たその男の顔には大きな傷があった。ベッドに近づいてくると笑顔で雄作を覗き込み、大きなハサミのような器具をしゃきしゃきと動かしてみせるとさらに嬉しそうに微笑んだ。 「う」なにをされるのかと身を強張《こわば》らせた雄作にはかまわず、白衣の男は雄作に覆《おお》い被《かぶ》さるようにして無造作になにかを切り始める。雄作の頭の後ろでざくざくという音が何度かした。 「すみませんね、えっちゃんがこれやったもんで」 「えっちゃん?」状況を把握するまで一切口は開くまいと考えていた雄作だったが、あまりに牧歌的な男の口調に思わず反応してしまっていた。 「はあ、なんていうかほんと雑な子でねー」これで動けるかなと呟《つぶや》いて「あんたの肩に包帯するときベッドのここんとこといっしょに巻いちゃって」ここんとこ、というのはベッドの背もたれのパイプのことのようだった。 「誰が雑なんですか」扉の方から今度は女の声がした。「どうせ動かないんだし、まあいいかって言ったのは先生でしょうに」 「あー」そうだったかなーと男は言ってから雄作の背中にそっと手を添え「大丈夫ですか」と体を起こす手伝いをしてくれた。  肩の圧迫感がなくなり痛みが和らいでいた。なんのことはない、固定されていたためいちいち体を動かすたび痛んでいただけのことらしい。 「あの、あなたがたは?」気を許したわけではなかったが、まるで敵意の感じられない相手に拍子抜けしながら雄作は訊ねた。 「あー」と白衣の男が言おうとしたとたん女の方が先に口を開いた。 「ども」軽く敬礼するようなことをしながら「そこのモヘー先生の弟子で秋野《あきの》絵津《えつ》です。こんちは」二十歳ぐらいだろうか、ナース服ではなく白衣を着ている。化粧気はなく髪の毛も適当に後ろでまとめているだけだったが驚くような美人である。 「わたしは河合《かわい》といいます」モヘー先生と呼ばれた男はそして、にこにこ笑いながら雄作にとってなにより驚愕すべきことを口にした。「この島で、ナチスの兵器開発をやらせてもらってます」  国連事務総長直下の秘密組織に属する諜報員吹石雄作がこのような日本の片田舎にやってきた目的は、ここ明石市《あかしし》大久保町《おおくぼちょう》を占領しているナチスのテロ活動を探ることであり、もっとも重要な任務として命じられたのはその兵器開発の実態解明であった。  ナチス本部に潜入し上級将校の個室に内部資料を発見したまではよかったが、あまりにもずさんな資料内容に呆れ果て放心し、うっかり将校がいることに気づかず隣の部屋への扉を開けてしまうという失態の結果追われる身となった。  銃撃され海に落ちた雄作は、大久保町|江井ヶ島《えいがしま》沖にある名前もないこの小さな島へと漂着し、ワカメを採りにきたばあさんに発見されたのである。  この島でナチスの兵器開発が行われているのであれば、大失敗だとあきらめかけていた今回の任務を無事|全《まっと》うすることも可能なわけで、雄作としてはこの偶然を喜ぶべきではあったが、ただ河合たちが雄作の正体をどこまで知っていて、なにを考えているのかさっぱりわからないのが問題だった。  これまでのところ河合も絵津も雄作に実に親切で、なにか企《たくら》んでいるようなそぶりはまったくない。怪我の理由や海に落ちた原因などなにも覚えていないという雄作の言葉をまるで疑っていないばかりか、無理にあれこれ訊ねて怪我に障《さわ》ってはいけないと気遣い、雄作の身の上に関しての質問は一切してこなかった。  しかしこれほどまでに無条件な好意はかえって不自然である。いつなにを仕掛けてくるのだろうかと雄作の神経は終始張りつめていた。  彼らの笑顔には必ず裏の顔があるはずなのだ。  ここからは互いに腹の探り合いをすることになるはずだった。 「裏の角?」肉を口に運びかけていた河合がびっくりして言った。「あんなとこで互いに肌をまさぐりあったんですか」っへー。さらに驚いて「誰と」 「えっ」知らぬうちに考えを声に出して言っていたと気づき雄作は狼狽《ろうばい》した。 「ばっ、馬鹿じゃないの」絵津が爆発的に顔を赤くした。「なにそれ。馬鹿じゃないの、ばっばっばっ」馬鹿じゃないの。 「あっ、いやその」まさぐったりはしてなくて。  ばっばばばばと言いつつ唾をとばしていた絵津が今度は機関銃のようにだだだだと叫んだ。だだだだ「だってずぶ濡れだったし怪我してたし脱がすしかなかったしべっつに見ようと思って見たわけじゃないしそっそりや少しは触ったかもしれないけど知らないよままままままさぐるってなにそれ」なにそれ。 「なにそれって言われても」うーんと首を傾《かし》げて考えてから、河合は絵津の顔の前で指をぐねぐねと複雑に動かしてみせた。「つまり体の様々な部位をこう、いじくりまわすというか」真剣である。 「へんな手つきしないでくださいっ」変態かーっと目を見開いた絵津が握りしめたフォークの柄でテーブルをどんどんと叩いた。「あたしそんなことしてません!」 「えっ、えっちゃんがまさぐりあったの?」 「ちがいますっ」 「牛と?」 「だれがじゃっ」 「あのー、なんで牛が出てくるんですか」あっけにとられて思わず雄作は口を挟んでいた。気を緩めてはいけないとわかっていながら、こうやってつい話に入ってしまうことがこれまでにも何度かあった。これも彼らの作戦のうちかもしれないと思い雄作はぎくりとする。 「だって、裏の角って牛小屋のとこでしょ」ちがうの? 「えらいにぎやかやなあ」ほれワカメのおかわりと大きな器を抱えたばあさんが食堂に入ってきたので、うわまたワカメの酢の物かいくらなんでもそんなにワカメぽっかり食べられませんよなに言うとんのや体にええのにと話題が一瞬にして大量のワカメに関するものへとシフトしたので雄作はほっとした。  雄作がこの島に流されてきてから数日が経っていた。  島に住んでいるのは河合、絵津とそれからワカメばかり採ってくるばあさんの三人のみで、河合が『研究所』絵津が『お屋敷』ばあさんが『工場《こうば》』とそれぞれ違った言い方で呼ぶこの施設内に暮らしているということだった。もちろん嘘だろう。雄作の出方を観察しているに違いなかった。  施設は酒造工場だったものを改造したらしく、煉瓦《れんが》造りの重厚な建物である。絵津の趣味なのか家具や装飾品などには家庭的な雰囲気があるものの、あちこちにハーケンクロイツが飾られており、ここがナチスの施設であることを静かに主張していた。  たった三人、しかもばあさんと小娘を含む三人でナチスの兵器開発というような大仕事ができるはずもなく、なぜそんなわかりきった嘘を吐くのかと相手の意図を図《はか》りかねた雄作は、なんとか歩けるようになり初めていっしょの食卓に誘われたとき探りを入れるため皮肉交じりに「三人で兵器開発なんてすごいですね」と言ってみたのだが、河合はいやいやと言って笑いちょっと自慢げな顔をした。 「いやいや、兵器開発をやっているのは私ひとりです」  河合が言うには、絵津の父親はナチス将校で、ナチス上層部による研究所視察の際、父親に連れられてやってきた絵津が河合の研究に興味を持ち、そのまま居着いてしまっただけということであった。  さらにばあさんは老舗酒造会社社長の一人娘で、河合がここに来る前からこの建物で暮らしているというのだが、いずれにしてもどういう意味があるのかわからない嘘ばかりだった。  絵津とばあさんのふたりで雄作の怪我を治療したという話も明らかに不自然だった。ふたりとも医療の経験などはまったくなく、これまで何度か怪我をした鳥や狸を助けてやったことがあるというだけなのである。絵津が言うように「そのへんの薬を適当に選んで塗ったり打ったりしているだけ」でどうにかなるほど雄作の怪我は軽くない。  彼ら三人とも本来の姿を隠そうとしているのはまちがいなく、おそらくは三人以外にもナチスの関係者がこの島には存在しているのだろうと雄作は疑っていた。 「ほれ、あんたもこれもっと食べなはれ」ばあさんが雄作の皿にワカメをどっと盛った。「ワカメ食べたらそんな怪我ぱぱっと治るで」 「はあ」拷問が始まったのだろうかと雄作は身構えた。おそらくすでに彼ら三人は自分の正体を知っているのだろう。親切な態度を装い、断ったり食べ残したりしにくい精神状況に追い込んだ上で大量のワカメの酢の物を食べさせるという、これは拷問の一種なのだ。どう考えても量が多すぎる。 「無理して食べなくていいよ」絵津が言った。「まだ体弱ってるんだから」 「そうそう」河合も心配そうに頷《うなず》いた。「ワカメの酢の物で怪我が治るわけがない」 「あんたら、わしが邪魔なんやな」ばあさんが拗《す》ねた。わしと聞こえるがあたしと言っているのかもしれなかった。「今日かて、熱があって体ふらふらやのにわざわざワカメ採ってきたったのに」見た目めちゃくちゃ元気そうである。 「なんか他に採れなかったの? カニとかウニとかイセエビとかさ」ワカメの代わりにしてはずいぶん贅沢なことを河合は言った。 「このごろはタン族の子ぉらもワカメ残しよるし」ばあさんは下を向いてぶつぶつ言った。絵津の大雑把な説明によるとタン族というのは島に住む猿みたいなものらしく、ときどき食べ物をもらいにここへやってくるという話だった。「ああしんど。熱もあるしわし、癌とちゃうやろか」たぶんもう死ぬんやわとばあさんは元気よく溜息を吐いた。 「熱があるの?」絵津が腰を浮かせた。「じゃあ部屋で寝てたほうが」 「そんなに邪魔にせんかてええがな」ぶいっとさらに拗ねて「もうワカメ食べんでよろし」わしが食べるとワカメの酢の物とともに食堂を出ていこうとする。 「あ」拷問ではなかったのかと安心し、なんとなく悪いことをしたような気もして雄作は声をかけた。「あの、おばあさん」 「ルンダス!」ばあさんは一瞬立ち止まって雄作を振り返ると、滅びの呪文のような言葉を残して出ていってしまった。 「いいのいいの」雄作の困った顔を見て絵津が笑った。「いつものことだから」  あまりにも緊張感がなく、敵地に潜入しているというよりこれではお盆に里帰りしたような雰囲気ではないかと雄作は、この未知の駆け引きを恐れた。  同僚にさえ気を許すことができない日々を過ごす諜報員を混乱させるには、たしかにもっとも効果的な作戦かもしれない。  これは侮《あなど》れない、彼らはどこまで知っているのだろう。  そのとき絵津が言った。 「ケーキ焼いたんだけど、雄作君食べる?」お腹《なか》は大丈夫?  雄作の背筋を恐怖が駆け上った。  今回の潜入に際して雄作はアメリカ国籍のデヴィッド・メイヤーという偽名を用いている。本名を示すものなどどこにもなかったはずなのだ。  なぜ雄作の名を知っているのだろうか。 「ちょっとがんばってモンブラン作ってみたんだけど」絵津がさらに言った。「たいへんだったんだよもう大騒ぎ」 「えっ」さらに不意を突かれ雄作は驚愕を隠せなかった。このミッションに入る二週間前まで、雄作は極左によるフランス大統領暗殺計画を阻止するためフランス警察および陸軍とともにモンブラン山頂を目指しイタリア国境近くまで逃げ込んだテロ組織と激しい戦闘を繰り広げていたのである。  なるほどやはり思ったとおりこのほのぼの家庭的な雰囲気は俺を油断させ、こうした心理攻撃を効果的にするための作戦か。 「痛いの?」絵津の表情が変わった。 「へ、部屋に戻ったほうがいいんじゃないか」河合もあわてておろおろしはじめる。  本当に雄作の身を案じているようにしか見えないのが、かえって恐ろしかった。 「いえ、大丈夫です」徹底的に訓練された諜報部員だけにしか持ち得ない超人的精神力で雄作は笑顔をつくることに成功した。兵器開発の実態を見極めるまで、この心理攻撃を耐えきるしかない。  河合と絵津が楽しそうに雑談するのに話を合わせながらコーヒーとケーキを食べた。河合の発言はすべて謎に満ちていてその本心はまったく読むことができなかった。絵津に笑顔を向けられると、一点の曇りもない無邪気な瞳に引き込まれそうになった。  各国政府要人の裏をかき大国を動かし、任務に徹した冷淡な計算のみでハリウッドのトップ女優をも籠絡《ろうらく》してきた雄作ではあったが、河合と絵津には底知れないものを感じるのだった。  なにかと細かく身の回りの世話を焼いてくれる絵津に怯《おび》えながら風呂にも入り、頭も洗ってもらった。傷口を消毒してもらい包帯も巻いてもらい、あてがわれている部屋に戻ればシーツも枕カバーも替えられており、ベッドに入るのを手伝ってもらい明日の晩ご飯にはなにが食べたいかと訊かれた。なんでもいいと答えるより先にあたし春巻きが得意というのでではぜひ春巻きが食べてみたいと言うと絵津は輝くように微笑んだ。 「じゃあ、なにかあったら言ってね。夜中でもいいから」おやすみ、と言って扉を閉めようとする絵津を雄作は無意識に呼び止めていた。 「なに?」 「いや、なんかいろいろ世話になっちゃって」そんなことを言うつもりはまったくなかった。雄作は自分の中で起こっていることがなんであるのかわからず対処方法もわからなかった。 「へへ」形のいい鼻に皺を寄せて絵津は笑った。「いいってことよ」  このミッションは、相当困難なものになると思った。  我が身を守るためであればたとえ身内であれ躊躇《ちゅうちょ》なく犠牲にできる精神力こそが雄作の最大の武器である。  敵はそれを崩そうとしている。  その夜、雄作は一睡もできなかった。  翌朝、朝ごはんにしましょうと絵津に呼ばれ食堂に行くとテーブルに制服姿のナチス将校がいたので雄作は声をあげそうになった。  絵津に気づいた将校はいそいそと立ち上がり笑顔を浮かべかけたが、絵津が雄作の体を抱くようにして支えているのを見たとたん不機嫌な顔となって雄作をじろじろと眺めた。 「やーおはよう、雄作君」河合はいきなり発生した不穏な空気をいっさい気にせずにこにこしている。気づいていないようにも見えた。「怪我の具合はどう?」 「おはようございます」俺を引き渡すつもりなのだろうか、あるいは新たな心理攻撃かと訝《いぶか》りながらも雄作は笑顔を返した。 「かなりいいみたい」椅子にかける雄作を支えながら絵津が河合に答えた。雄作に向けられる絵津の笑みを、若く背の高い将校は複雑な顔で見つめていた。絵津に好意を持っているのが丸わかりだった。 「ええとね」と河合が雄作に将校を紹介した。「彼は研究所の視察に来た、ええーと」忘れているようだった。 「木井手《きいで》です。木井手中尉」どこかわざとらしい声で将校はそう言った。「どうぞそのまま」と、立ち上がりかけた雄作を制してやはりわざとらしく笑う。  もはや隠す必要はあるまいと雄作は吹石ですと名乗り握手に応じた。そうしながらすでに雄作は木井手中尉というこの男が雄作に対して不信感を抱いているものの、なんの情報も持っていないことを見て取っていた。河合や絵津と違って、非常にわかりやすい人物だった。態度がぎこちないのは絵津の目を意識しているだけのことであろうとやや安心しかけたところ中尉が言った。 「どうされたんですか、その肩は」 「え」 「数日前、住吉神社横の崖から海に落ちた者がいると聞きましたが、まさかあなたではないでしょうなあ」あははと笑った。  非常にわかりやすい男という印象は、これもまた雄作の油断を誘うための演技なのだろうか。もしそうだとするとこの男、河合以上にやっかいかもしれない。  河合が雄作のことをどのように紹介するのか、それによって答え方を考えなくてはなるまいと河合の出方を窺《うかが》ったが、雄作の緊張をよそに河合は嬉しそうに全然関係ないことを言った。 「バルトークだよね、木井手中尉って」 「は?」木井手中尉はまったくわけがわからないという顔をした。 「あーちがったコダーイだな」そうだそうだ。「木井手中尉」 「は、なんでありますか」さらにわけがわからず中尉は助けを求めるように絵津と雄作を見た。 「プロコフィエフですよ」気が抜けたと同時に河合のかんちがいに気づき雄作は思わず笑ってしまっていた。「キージェ中尉はプロコフィエフです」 「あー」そうだったかなと河合は納得して、嬉しそうにうんうんと何度も頷いた。 「なんのことでしょうか」木井手中尉が突っ立ったままきょとんとして訊ねた。「わたしがクロコなんですって?」 「すごいね雄作君!」絵津が裏返った声で叫んだ。「今モヘー先生の言ったことわかったの?」 「はあ」なんとなく。 「どういうことなの?」木井手中尉は今度は絵津に訊いたが絵津はあたりまえのように首を横に振る。 「あたしは全然わからないよ。ふつうわからないんだよ」 「で」どういうことなの、と中尉はしかたなく雄作に訊こうとしたのだが、そのとき食堂の裏口がゆっくりと開きひとりの子供が入ってきた。  雄作の目には一瞬子供と見えたそれはしかし、全身が細く長い茶色の毛に覆われた猿のような生き物だった。  タン族よ、と絵津が雄作に声を出さずに言った。  猿にしてはかなり知恵があると聞いていたとおり、蔓草《つるくさ》かなにかで編んだ腰蓑《こしみの》のようなものを身に着けており、手には変わった形に細工された短い槍を握っている。雄《おす》だな、と雄作は思った。  タン族の雄は部屋にいる人間を完全に無視してずかずかテーブルに近づくと、未だ混乱状態にある木井手中尉の前からパンを取った。 「あっ、なにをする」けっこう食い意地の張った人のようで、木井手中尉は跳び上がって怒った。「俺のだぞっ」  あっ、と河合も絵津も声をあげそうになったが遅かった。  タン族の雄は自分を怒鳴りつけた木井手中尉を凝視したまましばらく固まり、それから耳をつんざくような悲鳴を上げたかと思うと中尉のブーツに向かってべべっと巨大な痰《たん》を吐きつけ、一目散に部屋から飛び出していった。 「わ、きたねっ」 「しらないよー」と絵津が言った。「あれタン族だよ」 「タン族」木井手中尉は首を傾げた。「痰を吐くからタン族ですか」そんなわけはないかと呟いたが河合は深く頷いた。 「そのとおり」痰を吐くからタン族ですあなた知らなかったんですか。「彼らは、自分たちが人間からは見えない存在だと信じているんです」  だからタン族が現れても見えないふりをしなくてはいけないと雄作は絵津から聞いていた。普段はおとなしく無害なタン族だが、自分の姿を見ることができるとわかった相手に対しては攻撃的になるのだという。 「雄作君は大丈夫? 目合わさなかった?」絵津がまたどう見ても本心から心配している瞳で雄作の目を覗き込んだ。 「うん、えっちゃんに教えてもらってたからね」えっちゃん、と呼んだ自分に驚いていた。驚きのあまり絵津から目を離せなくなった結果誰の目から見ても、仲のよいふたりが目と目を合わせて互いに微笑みを交わしているとしか見えない形となっていたが雄作はそれには気づかなかった。自分が微笑んでいることにも気づいていなかった。 「ふん、あんな猿などどうでもよろしい」木井手中尉は痰を吐く猿より雄作のほうが邪魔であると強く思ったようだった。「教えていただきたいのですが、吹石さんはこの島でなにをしてるのでしょう」 「怪我してるのよ」絵津が言った。 「それはわかります」そういうことではなくて。「さっきも言いましたが、数日前ナチス本部に忍び込んだ者がおりまして、現在も捜索が続いているところです」  ついに来たかと雄作は覚悟した。相手はナチスの将校である。証拠などなくとも、疑わしいというだけでも充分拘束の理由となるだろう。木井手中尉が何人の部下を連れてきているのかわからないが、なんの装備も持たぬ雄作が逃げるチャンスはわずかしかあるまい。 「雄作君はあれだよね」河合が言った。「紅白の、ほら」 「こうはく?」河合以外全員が合唱した。 「そうそう、ほら、なんていうの紅白歌合戦でこう。かちゃかちゃと」  あ。と雄作は気がついた。 「バードウォッチャーのことですか」 「あ、そうそう」河合はめちゃくちゃ嬉しそうな顔をした。「それそれ」 「なんでわかったの雄作君」絵津が目を輝かせた。「すごーい」 「だから、紅白歌合戦に野鳥の会の人が出てきて」と説明しながら、なぜ河合は雄作をかばうようなことを言いだしたのだろうかと気になった。 「バードウォッチャーですと?」中尉が嘲《あざけ》るような声をあげた。「こんな島に?」 「なんか望遠鏡みたいなの持ってたし……あーそうだ」渡すのすっかり忘れてたと河合はもぐもぐ言いながら立ち上がり、厨房に顔を突っ込むと「ばあさん、雄作君の持ち物どこだっけ」  やはりあったのか。  河合も絵津もなにも言わなかったし、記憶を失っているふりを続けるため雄作も持ち物のことはわざと訊ねなかったのだが、なぜ今持ってくる。  海に落ちたときの装備はそれほど多くなかったが、そのほとんどがスパイ活動と結びつくようなものばかりのはずであった。いったんはバードウォッチャーなどとかばいだてするそぶりを見せておきながら、今ここでそれを見せようという河合の意図がわからない。  ルンダスッという滅びの呪文が聞こえてから一分とかからず、ばあさんが小さな段ボールの箱を持ってきた。  今はまだ雄作への嫉妬心から難癖をつけようとしているだけとも見える木井手中尉だが、箱の中身を知れば雄作がスパイであると確信するのはほぼまちがいあるまい。怪我のせいで動きは制限されるだろうが、中尉を倒してこの場から逃げることは不可能ではない。しかしそのとき河合や絵津はどう反応するのだろう。 「これだす」とばあさんがテーブルに箱を置いた。そのとき雄作は初めてルンダスという謎の言葉の意味に気づいたのだが今はそれどころではない。  河合が箱を雄作に手渡そうとするより先に木井手中尉が箱を覗き込んだ。  雄作の諜報員としての感覚が今こそ最大のチャンスだと告げていた。  中尉が箱の中身になんらかの意味を見いだした瞬間、素早く襲いかかれば殺すことも簡単だ。  直感に従い雄作が動こうとしたそのとき、いつの間に忍び寄っていたものかさっきのタン族の雄が中尉の背後に迫り、誰もがあっと気づいたときには振り上げていた太い棍棒を「ほーい」と掛け声一発中尉の脳天めがけて振り下ろしていた。 「ばー」バードウォッチャーと言いかけていたためか木井手中尉は玉子に食らいつくヘビみたいに裏返りそうなほど大口を開けてそう言うと、前のめりに倒れてテーブルで顎《あこ》も打って舌も噛んだ。  あほーと叫んでタン族の雄は跳ねながら逃げていった。  確実に死んだと思われた木井手中尉だが、絵津とばあさんの「治療」によって奇跡的に息を吹き返した。  驚いたことに絵津とばあさんの治療は本当に適当だった。  治療というよりそれは行き当たりばったりに試行錯誤しているだけであり、これ注射してみる? あらたいへん泡噴いた、じゃあこれは、わあ跳ねた、血が止まらなくなっちゃった、ガムテープあります? ホチキス? まあいいわそれで、わあ息が止まってるその薬打って早くはやくひやあこれアンモニアだわといった調子で、自分が担ぎ込まれたときも同様の処置がなされたのだろうかと思うと雄作はどきどきした。  そういえばここで目覚めてからの数日、意識が朦朧《もうろう》としてその間の記憶があやふやなのはこうした「治療」によって様々な薬物を投与されたからなのではないだろうか。そうだとすると、何らかの弾みで本名を名乗ってしまったということも考えられないではない。 「殺されるかと思った」というのが息を吹き返した木井手中尉の第一声だったが、誰に殺されると思ったのかはよくわからなかった。あえて誰も訊かなかった。  頭を強く打ったせいか、めったやたらに打ち込まれた薬の作用かはわからなかったが意識を取り戻してからの木井手中尉は非常に上機嫌であり、絵津の手によって雑に巻かれた包帯の隙間からだらだら血を流しつつ、では予定どおり研究所の視察を行うことにしましょうと言いだした。雄作に対する敵意や興味もすっかりなくしており、雄作に向かってこれはこれはおひさしぶりでございますと言ったりした。  ここで死なれるとやっかいだなあと薄情なことを言いながらも、河合は自分の研究をの人に見せるのが嬉しくてたまらないようで、いそいそと案内をはじめた。 「雄作君も来るでしょ」と絵津に誘われたため、雄作はこのたびのミッションの最大の目的である「ナチス兵器開発の実態」を、その開発責任者じきじきにナチス将校とともに教えてもらうこととなった。ばあさんもついてきた。 「まずお見せしたいのが、こちらです」と、奥の研究室に入るなり河合は脱脂綿の敷かれた小型のシャーレを掲げた。「ナノマシン開発のご依頼を受けまして、先頃やっと完成したのがこれです」  ナノマシン。雄作は驚いた。ナノマシンの兵器利用は下手をすると核より恐ろしい事態を招きかねない。もしかすると河合はなんの策略もない単なる善良な馬鹿なのではないかと考えはじめていた雄作は息を呑んで河合の手元を凝視した。 「なんにも見えん」木井手中尉が言った。包帯がずれ下がって目を覆っている。 「当然です」河合が胸を張った。「肉眼では見ることができません。顕微鏡を使ってやっと見ることができるのです」 「そないに小さかったら役に立たんやろ」ばあさんが言った。 「小さいことに意味があるのです」河合がむっとした。「なんせこれは、地球上でもっとも小さな魔法瓶なのですよ」 「魔法瓶?」どういう意味かと雄作は思った。「魔法瓶ってなんなんですか?」 「雄作君魔法瓶知らないの?」っへーと絵津が驚いて説明しようとする。「お湯入れとくとさー」なかなか冷めない。 「いや、それは知ってるけど、これはそういう意味じゃ」ないんでしょ? 「そういう意味だよ」他になんかあるん。 「そうそう」と真面目な顔して河合も言った。「ではごらんに入れましょう。えっちゃん顕微鏡」  はいはいーっと元気よく顕微鏡を用意し、河合から受け取ったシャーレをしばらくためつすがめつしていた絵津だが、やがてあらーと言って顔を上げた。 「先生、ありません」 「ないってどういうこと」 「どっかいっちゃったみたいです」なんでもないことのようにさらっと絵津は言ってのけた。「こないだ掃除しながらここでくしゃみしたから、あのとき飛んでっちゃったかなあ」 「ないの?」河合が目を見開いた。 「はい」 「ないそうです」河合は中尉にそう言うと、また作るからいいかとあっさり納得した。 「えっ」と木井手中尉が驚いたような声を出した。多額の開発費をつぎ込んだナノマシン紛失の事態に驚いたのではなく立ったまま一瞬気を失っていたようだった。「なんでかなあ、頭が痛い」記憶も失っているようだった。 「では次です」こちらへどうぞと河合は言って隣の部屋へと続く扉を開けた。「あれ?」 「いい天気ですなー」木井手中尉が目を細めた。ぼけているわけではなく、実際扉の向こうは燦々《さんさん》と太陽の光が降り注いでいるのだった。 「あー、そっちから向こうもうないですよ」言ってませんでしたっけと絵津は言った。 「焼けましてん」とばあさんが言った。「昨日ここでケーキ焼いてましてな」 「モンブラン」誇らしげにそう言って、絵津は力強くうんと頷いた。「モンブラン」 「なんでまたこんなとこで」台所があるでしょうに。 「どうしても雄作君においしいケーキ食べさせたかったんだよね」 「え、なんで?」雄作は思わず絵津の顔を見た。 「なんでって?」どういうこと? と逆に訊かれた。 「いや、いいんだけど」雄作にはなにがなにやらよくわからなかった。 「古いオーブン、こないだからこっちに置きましたやろ。あれが火の勢いよろしよって使い勝手ええさかい」ほなあんた、建物までみな燃えて。「ははは」 「ははは」絵津も楽しそうに笑った。 「ははー」全部燃えましたか。「まいったな」 「まあ、ケーキはうまいことでけましたがな」なんの慰めにもならないことをばあさんは言った。「まだ一個残ってまっせ」 「ここにはなにがあったんです?」屋根も壁も完全に焼け落ち黒こげの残骸が転がるのみの、かつては研究室が並んでいたのであろう広大な空き地を見渡して雄作は訊ねた。 「いやまあ、けっこういろいろ工夫した魔法瓶の数々が大小取り混ぜ」戦車型のやつとか、よくできてたんだけどなあ。 「ここで行っているのは兵器開発じゃないんですか?」雄作は自分がなにか根本的なまちがいを犯しているのではないかということに思い当たってぎょっとした。 「一応兵器開発ですよ」でもみんな焼けちゃったのかーと河合は溜息を吐きだした。「予算の名目が兵器開発となってるだけなんで、私は決められた予算を消化すればそれでいいんです」 「それで魔法瓶を」なんて平和な。 「あっ」そっかーと絵津が素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出した。「もしかしてモヘー先生、今まで作ったやつ全部こっちにしまってたんですか?」 「そだよ」 「あちゃー」絵津はぴしゃっと自分のおでこを叩いて、えらいことだという顔をしたが「まあいいか。また作れば」恐るべき軽さであっという間に立ち直った。 「うん、また作るよ。昨日のケーキ、おいしかったしね」この人も立ち直りは早いのだった。 「そないしなはれ」ばあさんはなにひとつ気にすることさえしていない。  あなたがたは誰ですか、ここはどこですか、見つけにくいものですかと言いはじめた木井手中尉を伴って食堂へと戻ると、そこには武装した兵士数名と上級将校が待ちかまえていた。  兵士たちの小銃はすべて雄作に向けられている。  いつもの雄作であれば、食堂のドアを開ける前に気づいていたはずだった。完全に油断していた。 「やはり生きていたか」そう言ったのはナチス本部潜入の際、雄作が鉢合わせをしたあの将校だった。カツラを着けているらしく、光り輝いていた禿頭《とくとう》は隠されているがその顔にははっきりと見覚えがあった。「この島に打ち上げられた君を目撃した漁師がいてね」  雄作の頭脳はこの窮地からの脱出方法と可能性を探ってフル回転しはじめた。相当不利な戦いになることはまちがいない。万一うまくこの島から脱出できたとしても、この場にいる人間の大半は死ぬことになるだろう。 「彼は、なにもしてませんよ」河合が不思議そうな顔をした。「野鳥の会です」 「いや、そいつは卑劣なスパイなのだ」 「スパイ?」なんじゃそらと絵津が顔をしかめた。「別にスパイされて困るようなこと、今のナチスにないと思うけど」父さんが言ってた。  雄作の思考回路が完全に混乱した。  たしかにナチス本部でもこの島でも、雄作が掴んだ情報は平和なものばかりである。ではなぜあのとき追われ撃たれたのだ。  ではなぜこの島の人たちは。 「けけけけけ」突然木井手中尉が鳥のように笑った。 「木井手中尉。どうしたんだねその怪我は」 「けが?」がくっと首を傾げて中尉は考え込んだ。どうやらまた一瞬気を失ったようだった。はっと目を覚まし、そこでやっと大佐の存在に気づいた「あっ、ハゲがいる」 「だ、誰がハゲだっ」大佐の顔がみるみる赤く染まった。「わ、わたしは禿げてなど……。」 「前から言ってあげなきゃと思ってたんすよー」たいさーと木井手中尉はふらふらだらしなく大佐に歩み寄るとその肩を軽く二度三度叩いた。「みんな知ってますよ、大佐のカツラ」 「ばっ馬鹿を言いたまえ」君は酔っとるのかと大佐は中尉の手を振り払い「カツラってなんのことだね」 「いやいや」絵津と河合が同時に言った。また同時に「みんな知ってるよ」 「え」 「日本中知ってるよそんなこと」ねえ、と絵津が兵士たちに同意を求めると、皆気まずそうにえ、いや、はあ、まあなどと頷いた。 「そうなの?」と大佐はふと気の抜けたような顔になった。 「そんなこたいいのよ。で、雄作君がなにしたって?」絵津がたたみかけた。 「え。いや」だから、と大佐はしどろもどろになった。「機密事項を、その」  あまりのことに雄作は呆然とした。大佐が雄作を殺そうとした動機はそんなことだったのか。 「えっちゃん」 「ん?」あほくさと呟いて腕組みしていた絵津が無邪気な顔を雄作に向けた。 「君や河合さんたちって、もしかすると底抜けにいい人なの?」そうとしか考えられないのだが、まだ雄作にはそんな人間が存在するとは思えないのだった。そんな弱い人間が生きていけるほど今の世は優しくない。 「なんで?」絵津は、なにかおもしろい話が始まるのかなというような顔をした。 「だって、なんの理由もなく、あんなに親切にしてくれるなんて」 「親切? あたしが?」きょとんとしてから絵津は耳を赤くして恥ずかしそうに笑った。「えー、なにしたっけ」  雄作の中で、なにかがごんと音をたてて変わった。 「あー、ここから外すのか」大佐の頭をしげしげ眺めていた木井手中尉がほうれと言いつつ大佐のカツラをべりべり無造作に剥《は》ぎ取った。 「あっ」大佐は頭を抱えてぎゃあと叫んだ。「なにをする!」 「はげーはげーはげはげー」中尉は毛の塊みたいな大佐のカツラを股ぐらに当てると腰を振り振り踊り出した。「はい、あらびんどびんはげちゃびん」 「ここここここのやろう」ショックに翻弄されていた大佐は怒りのあまり見境を失った。  一番近くにいた兵士の自動小銃を取り上げると大佐はその場の全員を狙える位置まで下がってぴたりと止まる。狂気を帯びた目は血走っているが、その動きは訓練された軍人らしい素早いものだった。 「全員殺してやる」ハゲアタマくらいでそこまでしなくてもと思うところだが、逆上した人間が銃を構えている状況に一刻の猶予もなかった。 「ありがとう」 「え?」絵津の目には雄作の姿が掻《か》き消えたように見えた。  雄作は迷わず自分の体を盾にすることにした。  できるだけ大佐に近い位置へと進み全弾を受けるのだ。  突風のように数メートルを駆けた雄作は、大佐の持つ銃の前に立ちはだかるとその銃身に手を伸ばした。  引鉄《ひきがね》が引かれる前に銃口をそらすことができれば、と一縷《いちる》の望みに賭けたがそこまで甘くはなかったようだった。  だがこれでいい。他のみんなは、絵津は死ななくてすむ。 「雄作君っ」絵津が叫んだ。  自動小銃から放たれた銃弾が腹の中心を焼き尽くす瞬間を雄作が覚悟したそのとき、いつの間に忍び寄っていたものかさっきのタン族の雄が大佐の背後に迫り、誰もがあっと気づいたときには振り上げていた太い棍棒を「ほおーい」と掛け声一発大佐の脳天めがけて振り下ろしていた。 「だー」誰がハゲじゃーと言いかけていたためか大佐は裏返ったテニスボールみたいに大口を開けてそう言うと、前のめりにどうと倒れて動かなくなった。  ぼけーと叫んでタン族の雄は跳ねながら逃げていった。  なるほど本来タン族の標的であるはずの木井手中尉は頭からの出血のため今や全身血まみれで真っ赤である。同じ軍服を来た大佐を中尉とまちがえたのも無理はない。 「よし」木井手中尉が一番嬉しそうに頷いた。「ハゲは死んだし、じゃあ帰ろうか」 「スパイの件はどうなるのでありますか」 「スパイ? なんだそれ」大佐のカツラを頭に載せた中尉はそう言って五秒ほど黙り込んだ。目を開けたまま気を失ったようだった。「なにも問題なし。なんでもいいから早く帰ろう、さっきからどういうわけか頭痛がひどい」  おや死んでないぞ、と言いつつ兵士たちは大佐を担いで帰っていった。  かくして吹石雄作の任務は完了した。  任務完了は本部への速やかな帰還を意味していたが、雄作はもうしばらくこの島にいることにした。河合たちになにか礼がしたかったからである。 「なんだったんだ今のは」河合は本当になんにもわかっていないのだった。「なあばあさん」 「ルンダスッ」わたしの名は「るん」である、とばあさんは主張しているのである。 「こわかったあー」絵津は子供みたいにただ泣いている。「ばかー」  このままここで暮らすのもいいかもしれないと雄作はふと思った。そんなことが本当にできるとは考えられなかったが、できるような気もした。  とりあえず、胸にしがみついて泣きじゃくる絵津が離れてくれるまではどうしようもなかった。 [#改丁]  Cast Talk  乙女たちは燃えてるか!? [#地から2字上げ]三重野瞳 [#地から2字上げ]坂元 鮎 [#地から2字上げ]氷室鈴蘭 [#ここから8字下げ] 今回は『大久保町は燃えているか』主演女優・坂元鮎さん、助演女優・氷室鈴蘭さん、そして主題歌『Love is burning』を歌った歌手の三重野瞳さん、この三人に『大久保町は燃えているか』に登場する男たちについて自由気ままに対談していただく企画。題して『乙女たちは燃えてるか!?」をお届け!! [#ここで字下げ終わり] [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]  三重野 いきなりでごめんね。私思ったんだけど、鮎ちゃんってちょっと天然っていうか、無防備すぎるよね。  鮎   えっ?  鈴蘭  無防備って言うか、せっかくの女の武器を出し惜しみしない感じよね。  三重野 そうそうそれっ!  鮎   えっええっ? それってどういう事?  三重野 んー、ズバリ! 幸平くんにボディタッチが多すぎる! 手握りすぎだよ! あれはもうちょっと少なくした方が効果的だと思うよ。  鈴蘭  でも、彼はかなり積極的にいかないと何にも気づかないタイプかもしれないわ。  三重野 あ〜、そっか。本当はここぞ! と言う時にそっと触るのがいいんだよ。  鮎   そうゆうもんなの? 鈴蘭さんもそうしてるの?  鈴蘭  えっ、私は……。  三重野 鈴蘭さんは鷹野さんともう相思相愛、ラブラブだからいいんだよ。べたべたして。  鈴蘭  そんなにべたべたはしないけど。  三重野 だってパリで一目惚れだったわけでしょ!? すごいよね。映画だよ、そんなの。  鈴蘭  確かに、信じられない出来事だったわね。  三重野 いいよね、一目惚れ、私、一目惚れ大好き!  鮎   一目惚れ大好きってのも珍しくない?  三重野 そう? だって会ったその時に直感で「好き! 付き合いたい!』って決まるなんて、絶対間違いない相手って感じがする。  鮎   あたしは少しずつお互いを知っていく方がいいと恐うけど。  三重野 そんな事してる間にその人が誰かにとられちゃったらどうすんの。  鮎   それはそん時だよ。  三重野 いいや、絶対後悔するよ。もっと早く告白しときゃよかった〜って。  鈴蘭  でも、愛していてもその気持ちを伝えられない事があるわよね。  三重野 きゃー!! 聞いた? 今の。大人の女はいろいろ経験してんだよ。  鈴蘭  うふふ、それほどでも……ね、ちなみに瞳ちゃんは出演男優の中で誰が好みなの?  三重野 ん、私? 私は河合さん。  鮎&鈴蘭 えっ!?  三重野 何?  鮎   まじで?  鈴蘭  本当に?  三重野 二人ともそんなナマズみたいな顔しなくても。それ見たらファンが泣くよ。  鮎   だって、まさかそこにいくとは思ってなかったから……。  鈴蘭  ねぇ……。  鮎   河合さんのどこがいいの?  三重野 河合さんにはねぇ、人間の甲斐性を感じるのよ。  鮎   はぁ?  三重野 どこに行っても生き残れそうな生命力の強そうなところがいい!  鈴蘭  確かに、うっかり生き残りそうね。  三重野 私、ちょっと大きな声じゃ言えないんだけど……。  鮎   言えないって、これ思いっきり対談企画だから。  三重野 ラストシーン、パーカー少佐と鷹野さんが二人で爆弾止めに行ったじゃない? あーゆー男の美学がよくわからなくて。だって愛した人には何がなんでも生きていて欲しいじゃない。  鈴蘭  私もあの時は胸が引き裂かれる思いだったわ。  三重野 どうせいつかは死んじゃうんだから、最後まで格好悪くていいから一緒に生きて欲しいの。そこんとこ河合さんって本能で分かってそうじゃない?  鮎   あの人、そんな事まで考えてるかしら?  三重野 いいんだよ、いつもは考えてなくて。  鈴蘭  いざという時のことね。  三重野 そう。  鈴蘭  正直な話をするとね、あの時、弦司さんも少佐が一緒でなかったらあんな風にできなかったんじゃないかと思うの。  三重野 どういう事?  鈴蘭  一人じゃ怖くて動けなかったんじゃないかしら? でも、少佐がいたからできた。  三重野 あははっ、だったらやめとけばいいのに。  鈴蘭  かっこつけたかったのよ。  鮎&三重野 あははっ。  三重野 なるほど、ああ、そう考えるといいかも。死なれるのはやだけどかっこいい男の人は大歓迎。  鈴蘭  男の人ってかっこつけたがりだから。  鮎   幸平くんはどうかなあ?  鈴蘭&三重野 絶対ええかっこしぃ!!  鮎   あははははっ! やっぱり? [#地付き]【END】 [#ここで字下げ終わり]  ということはつまり三重野さんは河合茂平に一目惚れする可能性があると考えていいのだろうか。なるほどぼくの身の回りを見渡してみても、なぜこんな美人がこんなヌケサクと、と驚くアホな組み合わせはちょいちょいあるが悪いことは言わん。やめとき。 編注:「Cast Talk」は田中哲弥氏の推薦により、歌手・三重野瞳さんに構成・執筆をお願いしました。対談内容は三重野さんによる独自取材です。 [#改丁]  Original Commentary 解説  田中哲弥の長篇第二作目である。  前作『大久保町の決闘』からずいぶんと間があいてしまった感があるが、これは妥協を許さない性格の著者が、本作の執筆にあたり綿密かつ徹底した調査と長期に渡る取材に明け暮れた結果であって、著者の仕事場にマウンテンバイク、BMX、スノーボード、スケートボード、インラインスケートがずらりと並んでいることとはまったく無関係。誤解です。  まわりが呆れるほど仕事ばかりしていたので、真夜中に路上でげらげら笑って警官に職務質問されたこともないし、ひどい二日酔いになって近所の上田医院で点滴を打ってもらうなどということも一度もなかった。目が覚めると知らない女の子が隣で寝ていたということもなかった。残念ながらこれは本当になかった。いや全部本当になかったことなのだが、これは特に本当になかった。  そんなことより解説だ。  本書『大久保町は燃えているか』は一応『大久保町』シリーズの第二弾ということになっているが、一作目をお読みになっていない方でも問題なく読めるお話である。どちらにも嘘は書かれていないが、状況設定に微妙な違いがあるので、読み比べていただくと現実の大久保町の姿がより明確になることと思う。  著者の地元の新聞は『大久保町の決闘』を「もちろん完全なフィクション」とか「劇画小説」などと紹介してくれたが、これのおかげで著者は隣近所で嘘つき呼ばわりされることとなった。嘘ではないというのに。それはそうと劇画小説とはなんであるのか。  人の小説を嘘と決めつけたその口でこの新聞はまたとんでもないことを平気で紹介する。  たとえば『明石原人祭り』である。大久保町でやっているらしいのだがタイトルからしてすでに冗談じみている。  どういう祭りかというと、思い思いに原人の扮装をした市民がパレードするのだそうだ。ものすごく楽しそうだ。この新聞によると「明石原人のロマンを求めながら、新しい町づくりを目指すイベント」(平成六年五月十三日『神戸新聞』朝刊明石版)ということで笑ってはいかん。実に奥が深いと感心するところである。「原人のロマン」という響きがいい。ゴリラの花嫁というくらいのインパクトがある。そんなわけのわからないものを求めながら、そのうえ同時に町も新しくしようというのだからもうこれは一種の野望と言えよう。  いや作り話ではない。嘘だと思うなら大久保駅前の巌松堂書店に行ってみるがいい。店先に巨大な原人は立っているし『明石原人グッズ』の販売もしている。『原人グッズ』ですぞ。この本屋さんは『大久保町の決闘』をレジのカウンターに山積みして売るという暴挙に出てくれたお店で、だからというわけでは決してないが店員さんはみんな親切でいい人ばかりだし、アルバイトの女の子はいつも可愛い。  実は『明石原人グッズ』のひとつをぼくは持っている。もちろん巌松堂で買った。五百円だった。なにかというとそれはずばり原人の骨である。一見犬のうんこに見えるのだが、ちゃんと表面に「明石原人」と明記してあるのでたぶん本物なのだろう。市立の博物館にはスカみたいなものしか並んでいないのに、駅前の本屋で太古の原人の骨が買えるとは。  太古で思い出したが「ふるさと創生」とかでもらった一億円で明石市は、太鼓を叩く人形を造ったという噂を耳にした。侍の恰好をした人形が明石公園の入り口で太鼓を叩くのである。ずいぶん前からあるらしいが、全然知らなかった。  工業機械かコンピュータか知らないがとにかく複雑な仕掛けで、なにしろ一億円だというのでぼくはさっそく行ってみた。一時間に一度しか動かないので三十分くらい道端で待ち、やっと動いたのを見てぼくの方は動けなくなった。ただ太鼓をゆっくりでん、でんと叩くだけなのだ。なるほど機械仕掛けらしく鉄骨剥き出しの肘関節が異様な曲がり方をして不気味だったが、それだけである。  誰がいったいなんのために。  あんなアホなものを。 [#地から6字上げ]田中哲弥  先日明石公園で花見をする機会があり久しぶりに太鼓を叩く人形の前を通ったところ、人形はまだあった。さすがに最近はぼくもそんなに暇ではないので人形が太鼓を叩くまで待つ余裕はなかったが、今なお決まった時間にはぐにゃぐにゃでんでんと太鼓を叩いているのだろうと太鼓の侍に思いを馳せつつ満開の桜の下だらだらビールを飲んだのだった。結局その日は昼から花見して翌朝まで飲みつづけ、目が覚めると知らない場所で知らないおっさんたちと寝ていた。起きるなりビールを勧められ、また花見した。 [#改丁]  Trailer[#地付き]IS OKUBO-CHO BURNING?  兵庫県明石市大久保町は、現在ナチス占領下にある。第二次世界大戦終結後、再起を誓って潜伏したナチスの残党などとの関係は謎であるが、とにかく占領されている。本当だ。嘘ではない。  推薦入試で人より早く大学入試を突破した幸平は、卒業式までの暇な間をアルバイトで過ごそうとボロ車で神戸市西区を目指したが、途中道をまちがえて地雷原に突入、ナチス兵士に捕らえられてしまう。そのころ、ナチスの巨大要塞爆破を企てるレジスタンス兵士たちは、のんびりとビールを飲みながら特殊工作員の到着を待っていたのだった。  チャイナドレスの美人も出てくる待望のシリーズ第2弾! 河合もで ますぞ。  前作『大久保町の決闘』のあらすじというか紹介文を書いたので、このときはもうこれは著者が書くものというあたりまえのような流れに乗ってぼくが書いた。たしか帯の惹句もぼくが書いたはずである。どっちの原稿料もなかったと思う。 [#改ページ] 底本:「大久保町は燃えているか」ハヤカワ文庫JA、早川書房    2007(平成19)年6月10日印刷    2007(平成19)年6月15日発行 入力: 校正: 2008年5月16日作成